今回は、大逆事件について学んでいこう。

大逆事件では多くの社会主義者や無政府主義者が検挙された。ですが、その多くは冤罪で、事件の大半は捏造されたものだった。なぜそのようなあってはならないことが起きたのでしょうか。

大逆事件の背景や判決の内容などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

大逆事件の背景

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まずは大逆事件が起きた背景について整理していくことにしましょう。

かつて日本の刑法に存在した大逆罪とは?

かつて日本の刑法には、大逆罪と呼ばれる犯罪が規定されていました大逆罪とは、天皇・皇后・皇太子などの皇族に危害を加えるか、危害を加えようと準備したり企てたりした時に成立する罪です。既遂だけでなく、未遂だった場合にも処罰の対象となりました。

大逆罪の大きな特徴は、有罪となった場合は必ず死刑に処せられるということです。無期懲役や有期刑などは設定されていませんでした。それほど大逆罪は重いものであるという認識が当時の日本にはあったのです。大逆罪は1947(昭和22)年に廃止され、現在の日本では適用されません

日露戦争後に現れた社会主義運動の弾圧

1903(明治36)年頃より南満州と朝鮮半島の権益を巡って日本とロシア帝国が対立。2国間で交渉の場が設けられましたが、話し合いは不調に終わりました。日本国内では、法学博士が日露戦争開戦を唱える意見書を提出するなどの影響で、世論が次第に開戦論へと傾きます

その一方で、幸徳秋水をはじめとする社会主義者は開戦論を猛烈に批判。新聞紙上などで非戦論を唱えました。そのことを政府が憂慮して、社会主義者や無政府主義者を弾圧するようになります。社会主義者らによる結社や集会が禁止され、機関誌は発禁処分となりました

捏造された大逆事件

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大逆事件はその多くが捏造されたものでした。なぜそのようなことになったのか、事件の経過とともに見ていきましょう。

赤旗事件の発生

大逆事件の2年前である1908(明治41)年、新聞記者の出獄を歓迎する席で騒動が起きます。会に出席していた者の一部が「無政府共産」や「社会革命」といった文字が書かれた赤旗を振り、革命歌を歌いながら「無政府主義万歳」などと叫びました。それを見ていた警官隊と衝突して、多くの者が検挙されたのです。

赤旗事件で検挙された者のうち、堺利彦や大杉栄ら10名が実刑判決となります。さらに、事件の責任を取る形で第1次西園寺公望内閣が総辞職しました。後継となった第2次桂太郎内閣は、社会主義者や無政府主義者の取り締まりを強化。そのことが後に大逆事件が起きるきっかけとなります。

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信州明科爆裂弾事件の発覚

1910(明治43)年、長野県に住んでいた社会主義者ら4人が明治天皇暗殺を企てたとして逮捕される事件が起きました。信州明科爆裂弾事件(明科事件)と呼ばれるものです。事件が発覚した場所が官営の明科製材所だったため、そのような呼び名があります。

そのうちの1人が爆発物を製造して、爆破実験を繰り返していたことが当局の捜査で発覚しましたさらに3人が加わり、4人で共謀して天皇暗殺を計画。暗殺を成功させることで社会主義運動を活発化させることを企てたのです。しかし、当局がその計画を事前に感知していたため、実行には至りませんでした。

幸徳秋水らを検挙

信州明科爆裂弾事件は、社会主義者を検挙するための口実として利用されました多くの社会主義者を天皇暗殺計画に加わったと仕立て上げて、次々と検挙したのです。検挙者は数百人、起訴されたものは26名に上りました。しかし、後の調査で判明したのは、暗殺計画に直接関与していた者はわずか4人だけでした。

天皇暗殺計画の首謀者に仕立て上げられたのが、社会主義者でジャーナリストの幸徳秋水です。「萬朝報」や「平民新聞」などで社会主義や無政府主義などを唱えていた幸徳は、当時の政府からすれば目障りな存在でした。幸徳を事件の首謀者に仕立て上げることで、社会主義運動を沈静化させるという狙いがありました

大逆事件の裁判

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では、大逆事件の裁判はどのように進められたのでしょうか。

異例のスピードで公判が進行

幸徳秋水ら26名は、明治天皇の暗殺を計画したという容疑がかかって起訴されました。当時の刑法では、皇室関係者へ危害を加えることは大逆罪となります。大逆罪の裁判は大審院での一審だけで行われるという規定がありました。幸徳らに控訴や上告する機会は与えられなかったのです。

大逆事件の裁判には、社会主義者を厳しく取り締まりたいという当時の政府の意向があったとされます。1910(明治43)年12月に始まった大逆事件の裁判は、1か月後の1911(明治44)年1月に早くも判決が言い渡されました起訴された26名は全員有罪、2名を除く24名が死刑判決でした

24名に死刑判決

結審した次の日には、死刑判決となった24名のうち12名が恩赦減刑で無期懲役となります。しかし、残りの12名は1週間後までに刑が執行されました。11名の刑の執行が1日のうちに行われています。残りの1名も次の日に執行。収監された者も獄中死などで生涯を刑務所内で終えた者が多く、出所できたのはわずか7名しかいませんでした。

小説家の徳冨蘆花は、刑の執行を阻止しようと行動した者の1人です兄でジャーナリストの徳富蘇峰を通じて、総理大臣の桂太郎に刑の執行中止を働きかけようと試みました。しかし、その願いは叶いませんでした。その後、蘆花は講演で謀叛論を訴えて騒動となっています。

大逆事件のその後

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大逆事件の影響は、事件から半世紀が経過してからも見られました。果たしてどのようなことがあったのでしょうか。

社会主義運動の冬の時代

大逆事件の後、日本では社会主義者にとって「冬の時代」が訪れたと見なす人が多数を占めました。多くの社会主義者が検挙され、特別高等警察(特高)の監視も厳しくなったからです。当時の日本で社会主義運動を行うのは困難になり、社会主義から転向する者や亡命して日本から離れる者もいました

大逆事件は多くの文学者に影響を与えます石川啄木は独自に社会主義の研究を始め、『時代閉塞の状況』などを著しました。森鴎外の『大塩平八郎』や佐藤春夫の『愚者の死』『美しき町』には大逆事件の影響が見られるといわれます。永井荷風は『花火』で大逆事件を風刺してみせたのでした。

戦後に再審請求

大逆事件から50年後の1960(昭和35)年、大逆事件で有罪判決を受けた者から再審請求がなされました。この男性は幸徳秋水の下で学んだことはありましたが、事件当時は幸徳との関わりはなくなっており、事件とは明らかに無関係でした。ですが、別件で検挙されてそのまま大逆事件の被告となったのです。

男性は既に仮出所していましたが、名誉の回復のために再審請求します。しかし、裁判の結果、再審請求は却下判決となりました。戦前の特殊な事例により発生した事件を、大逆罪が廃止された戦後の法制度では判断できないとしたのです。戦後になり大逆事件はでっち上げだったことが明るみとなりましたが、判決は覆りませんでした

皇室関係者が狙われたその他の事件

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大逆事件以外にも、大逆罪が適用された事例があります。それらを簡単に振り返ることにしましょう。

1.虎ノ門事件

1923(大正12)年、大正天皇の摂政を務める皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を乗せて東京市(当時)の虎ノ門を通過する車に対して男が発砲裕仁親王は無事でしたが、隣りに座っていた侍従長が負傷する事件が起きました。男はその場で取り押さえられて現行犯逮捕されています。犯人は難波大助という当時24歳の若者でした。

犯人の男には大逆罪で死刑が宣告されました。判決からわずか2日後に刑が執行されています。虎ノ門事件の責任を取り、第2次山本権兵衛内閣は総辞職。犯人の父は衆議院議員を務めていましたが、事件が発生した日に議員を辞職して、終生まで自宅に引き籠もりました。

\次のページで「2.朴烈事件」を解説!/

2.朴烈事件

1923(大正12)年、関東大震災の発生から2日後に無政府主義者の朴烈とその妻が逮捕されました2人はその後に大正天皇と皇太子を襲撃する計画を立てていたとして起訴されましたが、それはでっち上げでした。朝鮮人で無政府主義団体を率いていた朴は当局にマークされていて、震災の混乱に乗じて逮捕されたのです。

起訴された2人には、大逆罪で死刑が言い渡されました。その後、恩赦により2人とも無期懲役に減刑されましたが、妻は獄中で自死。朴は終戦まで収監されました。さらに、取調室での朴らの写真が流出したことで、当時の若槻禮次郎内閣の責任が問われる事態にまで発展しています

3.桜田門事件

1932(昭和7)年陸軍観兵式を終えた昭和天皇を乗せて帰途についていた馬車に、朝鮮独立運動の活動家だった李奉昌が手榴弾を投げつける事件が発生手榴弾は昭和天皇が乗っていた馬車とは別の馬車に当たり、近衛兵1人が負傷しました。事件の名前は、桜田門にある警視庁前で発生したことに由来します。

大逆罪で起訴された被告には死刑が宣告されました。判決から10日後には刑が執行されています。当時の犬養毅内閣は、責任を取るために天皇に辞表を提出しました。しかし、天皇は辞表を受理せずに事態収集に務めることを命じたため、犬養内閣は総辞職せずに留任したのです。

大逆事件により日本の社会主義運動は弾圧された

大逆事件では数百人の社会主義者や無政府主義者が検挙され、26名が起訴されました。そのうちの24名が死刑判決となり、一部の者に恩赦で減刑があったものの、判決から1週間で12名の刑が執行されています。しかし、その大半が当時の政府により捏造されたものだったのです。このような事件は決して許されるものではなく、思想や言論が著しく制限されることが2度と起きないようにしなければなりません。

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多くの社会主義者が冤罪をかけられた「大逆事件」とは?事件の背景や判決の内容などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、大逆事件について学んでいこう。

大逆事件では多くの社会主義者や無政府主義者が検挙された。ですが、その多くは冤罪で、事件の大半は捏造されたものだった。なぜそのようなあってはならないことが起きたのでしょうか。

大逆事件の背景や判決の内容などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

大逆事件の背景

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まずは大逆事件が起きた背景について整理していくことにしましょう。

かつて日本の刑法に存在した大逆罪とは?

かつて日本の刑法には、大逆罪と呼ばれる犯罪が規定されていました大逆罪とは、天皇・皇后・皇太子などの皇族に危害を加えるか、危害を加えようと準備したり企てたりした時に成立する罪です。既遂だけでなく、未遂だった場合にも処罰の対象となりました。

大逆罪の大きな特徴は、有罪となった場合は必ず死刑に処せられるということです。無期懲役や有期刑などは設定されていませんでした。それほど大逆罪は重いものであるという認識が当時の日本にはあったのです。大逆罪は1947(昭和22)年に廃止され、現在の日本では適用されません

日露戦争後に現れた社会主義運動の弾圧

1903(明治36)年頃より南満州と朝鮮半島の権益を巡って日本とロシア帝国が対立。2国間で交渉の場が設けられましたが、話し合いは不調に終わりました。日本国内では、法学博士が日露戦争開戦を唱える意見書を提出するなどの影響で、世論が次第に開戦論へと傾きます

その一方で、幸徳秋水をはじめとする社会主義者は開戦論を猛烈に批判。新聞紙上などで非戦論を唱えました。そのことを政府が憂慮して、社会主義者や無政府主義者を弾圧するようになります。社会主義者らによる結社や集会が禁止され、機関誌は発禁処分となりました

捏造された大逆事件

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大逆事件はその多くが捏造されたものでした。なぜそのようなことになったのか、事件の経過とともに見ていきましょう。

赤旗事件の発生

大逆事件の2年前である1908(明治41)年、新聞記者の出獄を歓迎する席で騒動が起きます。会に出席していた者の一部が「無政府共産」や「社会革命」といった文字が書かれた赤旗を振り、革命歌を歌いながら「無政府主義万歳」などと叫びました。それを見ていた警官隊と衝突して、多くの者が検挙されたのです。

赤旗事件で検挙された者のうち、堺利彦や大杉栄ら10名が実刑判決となります。さらに、事件の責任を取る形で第1次西園寺公望内閣が総辞職しました。後継となった第2次桂太郎内閣は、社会主義者や無政府主義者の取り締まりを強化。そのことが後に大逆事件が起きるきっかけとなります。

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