現代社会

第1回芥川賞の候補となった作家「高見順」とは?その生い立ちや代表作などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

保護観察の対象となる

1936(昭和11)年に起きた二・二六事件で元首相の斎藤実らが暗殺され、事件の責任を取って岡田啓介内閣が総辞職しました。その後継となった廣田弘毅内閣により、思想犯を取り締まるための思想犯保護観察法が施行されます。高見順は転向を表明していましたが、擬似転向者とみなされて再調査の対象になりました

1940(昭和15)年に、高見は雑誌『新風』を発刊します。しかし、発刊したその日に軍部から圧力が掛かりました。その結果、『新風』は創刊号を発刊しただけですぐに廃刊に追い込まれたのです。まさにその時期の小説家は、軍部により自由に表現することを著しく制限されていました。

書き溜められた『高見順日記』

高見順が雑誌『新風』を廃刊に追い込まれた時期に、一人娘を失くすことも経験しています。失意の底にいた高見は、その頃から日記を書き溜めるようになりました。作家なのでもちろん文章を書くのが苦ではないのでしょうが、高見は生来母や妻に大量の手紙を送るほどの筆まめでした。

高見が綴った大量の日記は、戦後に『高見順日記』という単行本となりました。また、1945(昭和20)年に書いたものをまとめた『敗戦日記』や、1946(昭和21)年のものをまとめた『終戦日記』などが文庫化されています。没後には、『高見順闘病日記』や『高見順文壇日記』が出版されました。

ビルマと中国で従軍

文壇で名を馳せた高見順も、1941(昭和16)年に徴収令を受けて太平洋戦争に参加します。高見は陸軍報道班員となり、ビルマ(現在のミャンマー)で報告文を書く仕事を命じられました。その一方で、ビルマの民俗文化や当時の状況に大きな関心を寄せていたそうです。その成果は『ビルマ記』などの作品に現れました。

1943(昭和18)年に高見はビルマから帰国しますが、翌年にまた徴用されます。次の赴任先は中国でした。高見は、中国でも陸軍報道班員として活動しました。中国に滞在していた時には、南京で開かれた第3回大東亜文学者大会に日本代表として高見が参加しています。

戦後の高見順

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戦争から戻ってきた高見順は、文筆家としての活動に全力を尽くします。ここからは、終戦直後から晩年の高見順について一気に見ていきましょう。

高見順が意識した『いやな感じ』

戦争から戻った高見順は、しばらく病床に伏せることとなります。しかし、体調が戻ると精力的に文筆業を再開。私小説風の『わが胸の底のここには』や『あるリベラリスト』、『樹木派』『わが埋葬』といった詩集などを次々と発表しました。そして、1963(昭和38)年に代表作の1つとなる『いやな感じ』を世に送り出します

『いやな感じ』の主人公はアナーキストの青年です。国家転覆という理想を追い求めて過ごしているつもりが、犯罪行為に手を染めて自己嫌悪に陥る姿が描かれています作中ではさまざまな「いやな感じ」が積み重なっていきますが、高見も現代社会に蔓延する「いやな感じ」を表現したかったに違いありません。

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