今回は、高見順について学んでいこう。

高見順は第1回芥川賞の候補にもなった作家です。その活躍の場は小説だけでなく、詩や評論に日本近代文学の保護などと幅広かった。

そんな高見ですが、彼が多くのコンプレックスを抱えたまま創作活動に励んでいたのは知っているでしょうか。今回はその点にもふれていきたい。

高見順の生い立ちや彼の代表作などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

作家になるまでの高見順

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はじめに、生まれてから文筆業を始めるまでの高見順について見ていくことにしましょう。

父の顔を知らずに育つ

高見順(本名・高間芳雄)は、1907(明治40)年に現在の福井県坂井市で生まれました。父は福井県知事を務めた阪本釤之助でしたが、高見の母となる女性とは婚姻関係にありませんでした。高見は生まれてすぐに母と一緒に上京しますが、高見は生涯のうちに一度も父と会わずに育つこととなります

上京してからの高見と母、それに祖母の3人は生活に苦労しました。母は和裁の仕事で生計を立てて、一人息子である高見を懸命に育てます。すると、高見は持ち前の才覚を徐々に発揮。東京府立第一中学校から旧制第一高等学校へと進学し、東京帝国大学文学部英文学科に入学を果たしました

プロレタリア文学に傾倒

高見順は府立一中の頃から白樺派の文学に親しみ、旧制一高時代から文筆活動を始めました当時欧米から日本に伝わったダダイスム(前衛芸術運動)に影響を受けて、『廻転時代』という雑誌を発刊します。旧制一高を卒業して東大に進むと、高見の文筆活動はますます盛んになりました。

東大に進んだ高見は左翼芸術同盟に参加。『左翼芸術』『大学左派』『十月』『集団』といったプロレタリア文学雑誌に小説や評論を投稿しました。その頃から高間少年は「高見順」というペンネームを使って作品を発表するようになります。劇団制作座の旗揚げにも参加して、所属していた女優と後に結婚しました。

左派から転向

1930(昭和5)年に東大を卒業した高見順は、研究社という会社で辞書作成業務に関わった後、コロムビア・レコードに就職します。高見は会社勤めをしながら作家活動を継続日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、プロレタリア文学の作品を次々と発表しました

しかし、当時の日本は治安維持法が施行され、左翼活動は取り締まりの対象となる時代でした。1933(昭和8)年になり、ついに高見も検挙されました拘留中に高見は左派からの「転向」を表明して、左翼活動から身を引くこととなります。高見が釈放されたのは、検挙から半年が経過してからのことでした。

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作家としての地位を確立していく高見順

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若い頃から文学に親しんだ高見順ですが、どのようにして作家としての地位を確立したのでしょうか。

妻との離婚

高見順は治安維持法違反容疑で獄中にいた頃、妻と離婚することになります。妻が高見とは別の男性と失踪したためです。その後の高見は、3つのコンプレックスを抱えて創作活動を続けたとされます。コンプレックスとは「父親に1度も会ったことがない」「左翼思想を転向させられた」「妻が自分の下から去った」の3つです。

妻と別れて喪失感に苛まれた高見でしたが、創作活動を間もなく再開させます。1933(昭和8)年に、作家仲間の渋川驍や新田潤らと雑誌『日暦』を創刊。高見は短編小説『感傷』などを書き、心の中にある苦しさや辛さを吐き出すかのような作品を世に送り出しました。

第1回芥川賞候補『故旧忘れ得べき』

1935(昭和10)年、高見順は雑誌『日暦』に『故旧忘れ得べき』(こきゅうわすれうべき)という小説を連載しました。題名が唱歌『蛍の光』に由来するこの作品。左翼活動に身を投じていた若者が、転向して10年後に平凡な暮らしをする自分に対して落ち込む姿を描いたものです。

まさに高見が経験したであろう事象が描かれている『故旧忘れ得べき』は、書き手が直接作中に現れて作品を紹介していくという饒舌体で書かれています。饒舌体は太宰治の作品などにも見られるスタイルです。独特な文体で進行する『故旧忘れ得べき』は第1回芥川賞の候補となり、高見は作家としての地位を確立しました。

浅草で生まれた『如何なる星の下に』

高見順は『故旧忘れ得べき』を発表した頃に再婚。会社勤めをやめて作家生活に専念すると、浅草に部屋を借りて移り住みます。当時の浅草は映画館や劇場が立ち並び、東京で一二を争う賑やかな街でした。そのような浅草を舞台として、1939(昭和14)年から高見が連載した小説が『如何なる星の下に』(いかなるほしのもとに)です。

『如何なる星の下に』では、主人公である小説家の「私」が浅草の踊り子に思いを寄せる姿を描いています主人公の心の動きを当時の浅草の情景と重ねて見事に表現できたのは、高見が当時浅草に住んでいたからと言わざるをえません。『如何なる星の下に』は高い評価を得て、のちに映画化もされました。

戦争と高見順

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昭和初期から作家として名を上げた高見順でしたが、彼も戦争と無縁ではありませんでした。ここでは、高見順が戦争とどのように関わったのかを見ていきましょう。

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保護観察の対象となる

1936(昭和11)年に起きた二・二六事件で元首相の斎藤実らが暗殺され、事件の責任を取って岡田啓介内閣が総辞職しました。その後継となった廣田弘毅内閣により、思想犯を取り締まるための思想犯保護観察法が施行されます。高見順は転向を表明していましたが、擬似転向者とみなされて再調査の対象になりました

1940(昭和15)年に、高見は雑誌『新風』を発刊します。しかし、発刊したその日に軍部から圧力が掛かりました。その結果、『新風』は創刊号を発刊しただけですぐに廃刊に追い込まれたのです。まさにその時期の小説家は、軍部により自由に表現することを著しく制限されていました。

書き溜められた『高見順日記』

高見順が雑誌『新風』を廃刊に追い込まれた時期に、一人娘を失くすことも経験しています。失意の底にいた高見は、その頃から日記を書き溜めるようになりました。作家なのでもちろん文章を書くのが苦ではないのでしょうが、高見は生来母や妻に大量の手紙を送るほどの筆まめでした。

高見が綴った大量の日記は、戦後に『高見順日記』という単行本となりました。また、1945(昭和20)年に書いたものをまとめた『敗戦日記』や、1946(昭和21)年のものをまとめた『終戦日記』などが文庫化されています。没後には、『高見順闘病日記』や『高見順文壇日記』が出版されました。

ビルマと中国で従軍

文壇で名を馳せた高見順も、1941(昭和16)年に徴収令を受けて太平洋戦争に参加します。高見は陸軍報道班員となり、ビルマ(現在のミャンマー)で報告文を書く仕事を命じられました。その一方で、ビルマの民俗文化や当時の状況に大きな関心を寄せていたそうです。その成果は『ビルマ記』などの作品に現れました。

1943(昭和18)年に高見はビルマから帰国しますが、翌年にまた徴用されます。次の赴任先は中国でした。高見は、中国でも陸軍報道班員として活動しました。中国に滞在していた時には、南京で開かれた第3回大東亜文学者大会に日本代表として高見が参加しています。

戦後の高見順

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戦争から戻ってきた高見順は、文筆家としての活動に全力を尽くします。ここからは、終戦直後から晩年の高見順について一気に見ていきましょう。

高見順が意識した『いやな感じ』

戦争から戻った高見順は、しばらく病床に伏せることとなります。しかし、体調が戻ると精力的に文筆業を再開。私小説風の『わが胸の底のここには』や『あるリベラリスト』、『樹木派』『わが埋葬』といった詩集などを次々と発表しました。そして、1963(昭和38)年に代表作の1つとなる『いやな感じ』を世に送り出します

『いやな感じ』の主人公はアナーキストの青年です。国家転覆という理想を追い求めて過ごしているつもりが、犯罪行為に手を染めて自己嫌悪に陥る姿が描かれています作中ではさまざまな「いやな感じ」が積み重なっていきますが、高見も現代社会に蔓延する「いやな感じ」を表現したかったに違いありません。

\次のページで「高見順の最期の言葉『死の淵より』」を解説!/

高見順の最期の言葉『死の淵より』

詩人としても活躍した高見順は、最晩年に『死の淵より』という詩集を発表。冒頭の「死者の爪」が特に有名です。病床で執筆されたこの作品は、高見が迫りくる死と向き合って懸命にもがき苦しむ様が描かれています。高見が最後の力を振り絞って書いた『死の淵より』は、大きな評判となりました。

1965(昭和40)年、高見は58歳で亡くなります彼の死後に、優れた詩人を毎年表彰する高見順賞が創設されました。歴代受賞者には、現在の詩壇を代表する詩人が数多く名を連ねています。2020(令和2)年、高見順賞はちょうど50回目の節目を迎えてその役目を終えたのです。

日本近代文学館の設立

高見順は日本の文学界を憂う作品をいくつか残しました。戦時中に物議を醸した『文学非力説』や、1958(昭和33)年発表の『昭和文学盛衰史』などがそれにあたります。そんな高見が日本近代文学館の設立に尽力したのは当然のことでしょう。設立には、高見や川端康成、伊藤整といった名だたる作家が参加しました。

高見は公益財団法人日本近代文学館の初代理事長に就任します。貴重な文学資料を失わないようにと高見は努力を重ねました。1963(昭和38)年に日本近代文学館は発足。現在は東京の駒場公園の中に本館があり、2007(平成19)年には千葉県成田市に分館が開館されました。

高見順は辛い経験を乗り越えて日本近代文学の発展に貢献した

高見順は「父を知らずに育つ」「転向を強制させられる」「前妻に裏切られる」といったコンプレックスを抱えていました。しかし、それらの辛い経験を糧として、次々に作品を発表します。小説が第1回芥川賞の候補となっただけでなく、詩や評論などでも優れた才能を発揮しました。晩年には日本近代文学館の設立に尽力するなど、高見は生涯を通じて日本文学に多大な貢献をしたのです。

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現代社会

第1回芥川賞の候補となった作家「高見順」とは?その生い立ちや代表作などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、高見順について学んでいこう。

高見順は第1回芥川賞の候補にもなった作家です。その活躍の場は小説だけでなく、詩や評論に日本近代文学の保護などと幅広かった。

そんな高見ですが、彼が多くのコンプレックスを抱えたまま創作活動に励んでいたのは知っているでしょうか。今回はその点にもふれていきたい。

高見順の生い立ちや彼の代表作などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

作家になるまでの高見順

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はじめに、生まれてから文筆業を始めるまでの高見順について見ていくことにしましょう。

父の顔を知らずに育つ

高見順(本名・高間芳雄)は、1907(明治40)年に現在の福井県坂井市で生まれました。父は福井県知事を務めた阪本釤之助でしたが、高見の母となる女性とは婚姻関係にありませんでした。高見は生まれてすぐに母と一緒に上京しますが、高見は生涯のうちに一度も父と会わずに育つこととなります

上京してからの高見と母、それに祖母の3人は生活に苦労しました。母は和裁の仕事で生計を立てて、一人息子である高見を懸命に育てます。すると、高見は持ち前の才覚を徐々に発揮。東京府立第一中学校から旧制第一高等学校へと進学し、東京帝国大学文学部英文学科に入学を果たしました

プロレタリア文学に傾倒

高見順は府立一中の頃から白樺派の文学に親しみ、旧制一高時代から文筆活動を始めました当時欧米から日本に伝わったダダイスム(前衛芸術運動)に影響を受けて、『廻転時代』という雑誌を発刊します。旧制一高を卒業して東大に進むと、高見の文筆活動はますます盛んになりました。

東大に進んだ高見は左翼芸術同盟に参加。『左翼芸術』『大学左派』『十月』『集団』といったプロレタリア文学雑誌に小説や評論を投稿しました。その頃から高間少年は「高見順」というペンネームを使って作品を発表するようになります。劇団制作座の旗揚げにも参加して、所属していた女優と後に結婚しました。

左派から転向

1930(昭和5)年に東大を卒業した高見順は、研究社という会社で辞書作成業務に関わった後、コロムビア・レコードに就職します。高見は会社勤めをしながら作家活動を継続日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、プロレタリア文学の作品を次々と発表しました

しかし、当時の日本は治安維持法が施行され、左翼活動は取り締まりの対象となる時代でした。1933(昭和8)年になり、ついに高見も検挙されました拘留中に高見は左派からの「転向」を表明して、左翼活動から身を引くこととなります。高見が釈放されたのは、検挙から半年が経過してからのことでした。

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