今回のテーマはリケジョの先駆者、マリ・キュリーです。

学校の図書館に必ず伝記があるであろうキュリー夫人ことマリ・キュリー。女性が自由に学ぶことができない時代に研究に生涯を捧げ、女性初のノーベル賞を受賞し女性研究者の道を切り開いた人物です。また、同じくノーベル賞を受賞した娘を持つママでもある。

それではそんなマリ・キュリーについて説明します。解説は化学系科学館職員のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系の化学系科学館職員。図書館司書の資格を持ち、子供の頃はよく科学者の伝記を読んでいた。

マリ・キュリーって誰?

女性研究者として有名なマリ・キュリー。ですが何をした人物なのか実はあまりわからない、という人もいるでしょう。そこでまずマリ・キュリーの経歴と、研究について簡単に説明します。

1867年11月7日   誕生
1883年6月     ギムナジウムを首席で卒業
1891年     パリ大学(ソルボンヌ大学)入学
1895年7月26日  ピエール・キュリーと結婚
1897年9月12日  長女イレーヌ誕生
1903年       ノーベル物理学賞(女性初のノーベル賞受賞者)
1904年12月6日  次女エーヴ誕生
1911年       ノーベル化学賞(史上初の2度のノーベル賞受賞者)
1934年7月4日   死去

マリ・キュリーは1867年11月7日生まれの研究者です。「ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究」の研究で夫と共にノーベル物理学賞を受賞し女性初のノーベル賞受賞者になりました。また、「ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究」の研究でノーベル化学賞を受賞し、史上初のノーベル賞を2度受賞した人物となりました。

ラジウムって何?

image by PIXTA / 1242228

原子番号88番のラジウム(Ra)。1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリーが閃ウラン鉱から元素の分離を行なっている最中に発見したのです。

ラジウムはもともと、以前は放射線治療や時計の文字盤などの夜光塗料として利用されていました。この時計の文字盤に夜光塗料を塗ったことで工場の労働者が体調不良を起こす事件が起こったのです。また前立腺がんの治療に使われています。

ポロニウム

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原子番号84番のポロニウム(Po)。ラジウム同様に1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリーが閃ウラン鉱から元素の分離を行なっている最中に発見しました。このポロニウムという名前は、マリの祖国ポーランドが由来となっています。マリはポーランドをロシア帝国から解放する運動に興味を持っていたのです。

マリ・キュリーの生涯

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Nobel foundation - http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1903/marie-curie-bio.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

それではマリの生涯を解説していきます。

\次のページで「マリ・サロメア・スクウォドフスカの幼少期」を解説!/

マリ・サロメア・スクウォドフスカの幼少期

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後のキュリー夫人ことマリ・サロメア・スクウォドフスカが誕生したのは1867年11月7日。ちょうど日本が江戸時代の終わりを迎えたころです。父はポーランドで男子中学校の教師を、母は女学校の校長をしていました。ちなみに父方の祖父も物理・化学の教授を務めた人物です。

教育者として活躍した両親。しかしこの頃のポーランドは実質ロシアの領土となっており、ポーランドとしての誇りを持ったマリの父はロシア側の校長に冷遇されていました。一家は貧しく、マリは幼くして母を失います。それでもマリはポーランド人としての誇りを持ち、後にノーベル賞受賞につながった新元素にポロニウムと祖国の名前を付けました。

マリの青春

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撮影者不詳 - scanned from Helena Skłodowska-Szalay: Ze wspomnień... Nasza Księgarnia, Warsaw, Poland, 1958, パブリック・ドメイン, リンクによる

写真は16歳の頃のマリです。

5人兄妹の末っ子だったマリ。貧しい環境なうえに女性が高等教育をくけることができない時代でしたが、教育者の両親の方針でマリは質の高い教育を受けることができました。そして優秀な成績でギナジウム(中等教育機関)を卒業、1年ほど田舎で過ごします。そしてワルシャワに戻ると、数学やフランス語を教える家庭教師となりました。教える一方、マリ自身も無償でこっそりと行われる移動大学で学びを続けます。そして1885年、マリは住み込みの家庭教師となりました。

この家庭教師先で、マリは教え子の姉弟の兄と恋仲になります。しかし、使用人との結婚は認められず、その後は他で家庭教師を続けたのでした。

進学、憧れのパリへ

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家庭教師の仕事で姉のブローニャの留学費用を捻出したマリ。医学の道に進み、生活にめどが立ったブローニャが今度はマリの進学を助けるため、マリをパリに呼び寄せました。そして1891年、パリ大学に入学したのです。理学部に進んだマリ、この年理学部には1800人入学しますが、女子はわずか23人でした。

1893年、マリは物理学の学士試験に挑戦し、30人中1位で合格します。そして次に数学の学士を目指すことにしたマリ。奨学金を貰って学んだマリは1894年、優秀な成績で数学の学士号を取得。この奨学金は返済義務のないものでしたが、後にマリは貧しいながらもお金をやりくりし返済しました。

人生と研究のパートナーとの出会い

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1894年、学びながら研究の仕事をしていたマリは、その関係でピエール・キュリーと出会います。お互い惹かれあったふたり。そして1895年、ふたりは結婚します。結婚し、ふたりは自転車で新婚旅行に旅立ちました。それからふたりは実験のための小屋を建て、研究を行います。馬小屋のようなその小屋でふたりはそこで世紀の大発見をするのです。

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不明 - http://www.teachersparadise.com/ency/en/wikipedia/p/pi/pierre_curie.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ピエール・キュリー略歴
1859年5月15日 フランスのパリで誕生、医者である父や兄から教育を受ける
1875年     パリ大学入学
1878年     学士号取得
1895年     マリ・スクウォドフスカと結婚
1903年     マリ・キュリー、アンリ・ベクレルと共にノーベル物理学賞を受賞
1904年     パリ大学の物理学教授となる
1906年4月19日 事故で死去

妻として母として、家庭と研究を両立したリケジョ

結婚後、ピエールは物理化学学校で教授として働き、マリは鋼鉄の磁性の研究を行っていました。そして主婦業をこなしながら学校で働くための中・高教育教授試験に合格します。そんな時に妊娠が判明し、1879年9月12日に長女イレーヌを出産しました。マリはピエールの父の手を借りて仕事と子育てを両立させます。

それからマリは博士号取得を目指し、研究テーマを選ぶことになりました。そこでマリはアンリ・ベクレル(1852年 12月15日~1908年 8月25日 )の研究に興味を持ちます。それが生涯の研究テーマとなる放射能との出会いでした。

アンリ・ベクレルはどんな研究をしていたのでしょうか。

放射線を最初に発見したのはレントゲンで、未解明のものという意味でXと名付けました。そしてX線に興味を持ったアンリ・ベクレルは、天然にも同じように電磁波を発するものがあるのではと考えたのです。そしてベクレルがウラン鉱の持つ放射線を発する能力、放射能を確認しました。この研究に興味を持ったマリとピエール・キュリーはウラン鉱石の中から、ポロニウムラジウムを発見します。また、放射能と名付けたのもマリです。

ちなみに放射能の強さを表す単位はアンリ・ベクレルにちなんでベクレル(Bq)といい、1秒間に崩壊する原子核の数を表します

リケジョで初めてノーベル賞を受賞

リケジョで初めてノーベル賞を受賞

image by Study-Z編集部

1903年、マリはピエールとアンリ・ベクレルと共にノーベル物理学賞を受賞しました。授賞理由は、ベクレルは「自発的放射能の発見」、キュリー夫妻は「ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究」です。マリは初の女性ノーベル賞受賞者となりました。

2022年現在までノーベル賞を2度受賞した女性はマリだけで、母娘での受賞者もマリと長女のイレーヌだけです。2度目の受賞やイレーヌについてはのちほど解説します。

最愛の夫との別れと衰えぬ意欲

1906年4月19日、雨。ピエールは馬車にひかれて突然この世を去りました。悲しみに打ちひしがれたマリでしたが、ピエールの跡を継げるのはマリしかいないとパリ大学の教授に就任します。フランス初の女性教授です。

教授になったマリでしたが、その後も女性として差別やスキャンダルに巻き込まれてしまいます。それでもマリの功績は称賛するに値するものであり、1911年に2度目のノーベル賞を受賞するのです。今回はノーベル化学賞で、受賞理由は「ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究」でした。

レントゲン車を作った科学者

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1914年、第1次世界大戦が始まりました。マリは自分にできる事としてX線撮影装置を積み込んだ車を用意します。レントゲンを撮ることで、負傷者から銃弾や破片などの異物を取り除き生存率を向上させたのです。マリのレントゲン車はプチ・キュリーと呼ばれました。この活動の為にマリは自動車免許や自動車のメンテナンスまで学んだそうです。

さらにノーベル賞などのメダルを寄付しようとしたそうですが、恐れ多いと断られたといいます。ノーベル賞はもともと科学の発展や平和を願ったものです。ノーベルの遺志を継いだ有意義な使い方を考えたのですね。

女性科学者の晩年

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その後マリはアメリカのジャーナリストが行った、マリ・キュリー・ラジウム基金の活動によって研究費用を得ます。マリはその後、夫の名前をとって名付けられたピエール通にあるラジウム研究所で研究員の指導なども行いました。

1934年、娘のイレーヌが夫のフレデリックと共に人工放射能を発見します。その年にマリは放射線障害で亡くなりました。その翌年にイレーヌとフレデリックはノーベル化学賞を受賞します。

キュリー夫人についてはこちらの記事もどうぞ。

驚異のノーベル賞一家

image by PIXTA / 83072842

親子や兄弟でノーベル賞を受賞しているケースはありますが、キュリー家ほどノーベル賞と縁がある過程はありません。キュリー家の娘とノーベル賞の深いつながりをご紹介していきます。

\次のページで「研究の道へ、長女イレーヌ」を解説!/

研究の道へ、長女イレーヌ

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Nobel Foundation - http://nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1935/joliot-curie-bio.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

1897年9月12日生まれのキュリー夫妻の長女、イレーヌ。イレーヌが幼い頃に両親がノーベル物理学賞を受賞しました。しかしそれから間もなく、父ピエールを亡くします。イレーヌは両親と同じ研究の道に進みました。1918年、マリの下で助手として働きます。そしてマリの助手をしていたフレデリック・ジョリオと1926年に結婚しました。

結婚後、ふたりは二重姓でジョリオ=キュリーを名乗ります。その翌年には娘のエレーヌを授かりました。そして1935年、「人工放射性元素の研究」で、夫ノーベル化学賞を受賞したのです。イレーヌもママさんノーベル賞受賞者なのですね。

ノーベル賞に囲まれた次女エーヴ

1904年生まれの次女、エーヴ・キュリー。次女のエーヴは研究の道には進まなかったものの、1965年に夫が事務局長を務めるユニセフがノーベル平和賞を受賞します。エーヴは「私は家族でただ一人ノーベル賞を受賞していない」と言っていたそうです。1937年、母マリ・キュリーの伝記を書いています。

リケジョの未来を切り開いた女性

「女性初」「史上初」という言葉で初会されることの多いマリ・キュリー。マリは女性が学ぶことが制限されている時代に、科学者として研究者としての道を切り開いたのです。

科学者としてだけでなく、母親でもあったマリ。ママとしてノーベル賞を受賞しています。彼女のふたりの娘のうち長女は科学者として成功して夫婦でノーベル賞を受賞し、次女は母を支えながら芸術家・作家として活躍しました。仕事も家庭も頑張るリケジョ憧れの人物ですね。

" /> マリ・キュリーはどんな人?リケジョのパイオニアを化学系科学館職員が簡単にわかりやすく解説 – Study-Z
物理理科

マリ・キュリーはどんな人?リケジョのパイオニアを化学系科学館職員が簡単にわかりやすく解説

今回のテーマはリケジョの先駆者、マリ・キュリーです。

学校の図書館に必ず伝記があるであろうキュリー夫人ことマリ・キュリー。女性が自由に学ぶことができない時代に研究に生涯を捧げ、女性初のノーベル賞を受賞し女性研究者の道を切り開いた人物です。また、同じくノーベル賞を受賞した娘を持つママでもある。

それではそんなマリ・キュリーについて説明します。解説は化学系科学館職員のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系の化学系科学館職員。図書館司書の資格を持ち、子供の頃はよく科学者の伝記を読んでいた。

マリ・キュリーって誰?

女性研究者として有名なマリ・キュリー。ですが何をした人物なのか実はあまりわからない、という人もいるでしょう。そこでまずマリ・キュリーの経歴と、研究について簡単に説明します。

1867年11月7日   誕生
1883年6月     ギムナジウムを首席で卒業
1891年     パリ大学(ソルボンヌ大学)入学
1895年7月26日  ピエール・キュリーと結婚
1897年9月12日  長女イレーヌ誕生
1903年       ノーベル物理学賞(女性初のノーベル賞受賞者)
1904年12月6日  次女エーヴ誕生
1911年       ノーベル化学賞(史上初の2度のノーベル賞受賞者)
1934年7月4日   死去

マリ・キュリーは1867年11月7日生まれの研究者です。「ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究」の研究で夫と共にノーベル物理学賞を受賞し女性初のノーベル賞受賞者になりました。また、「ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究」の研究でノーベル化学賞を受賞し、史上初のノーベル賞を2度受賞した人物となりました。

ラジウムって何?

image by PIXTA / 1242228

原子番号88番のラジウム(Ra)。1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリーが閃ウラン鉱から元素の分離を行なっている最中に発見したのです。

ラジウムはもともと、以前は放射線治療や時計の文字盤などの夜光塗料として利用されていました。この時計の文字盤に夜光塗料を塗ったことで工場の労働者が体調不良を起こす事件が起こったのです。また前立腺がんの治療に使われています。

ポロニウム

image by PIXTA / 87760757

原子番号84番のポロニウム(Po)。ラジウム同様に1898年、ピエール・キュリー、マリ・キュリーが閃ウラン鉱から元素の分離を行なっている最中に発見しました。このポロニウムという名前は、マリの祖国ポーランドが由来となっています。マリはポーランドをロシア帝国から解放する運動に興味を持っていたのです。

マリ・キュリーの生涯

Marie Curie 1903.jpg
Nobel foundation – http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1903/marie-curie-bio.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

それではマリの生涯を解説していきます。

\次のページで「マリ・サロメア・スクウォドフスカの幼少期」を解説!/

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