なぜ日系人はブラジルとハワイに多い?これまでの日系人の歩みや各地での待遇などを歴史好きライターがわかりやすく解説
ハワイの人口の1割以上が日系人
1894(明治27)年に官約移民が廃止されますが、それ以降は民間によるハワイ移民が続きました。しかし、1898(明治31)年にハワイ王国はアメリカに併合。1924(大正13)年にアメリカで移民法が成立すると、日本人がハワイに移住することが減りました。
それでも、1920年代にはハワイの人口の4割が日系人になったといわれます。移民した日本人の子孫が今では6〜7世代目となり、現在でもハワイの人口の1割以上が日系人です。1963(昭和38)年には、日系人のダニエル・K・イノウエがハワイ州の上院議員に選出。現在のホノルルには、ダニエル・K・イノウエ国際空港という名前の空港があります。
第二次大戦中に起きた日系人の強制収容
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かつてアメリカに住んでいた日系人は、多くは太平洋戦争中に強制収容されました。その理由や収容の実態などを見ていきましょう。
開戦直後から日系人が差別的扱いを受ける
1941(昭和16)年12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したのをきっかけに、太平洋戦争が開戦します。その直後から、在米日本人や日系アメリカ人は監視の対象となりました。「日本人や日系人がアメリカでスパイ活動を行っている」などの風評が流れましたが、それらは全く根拠のないものでした。
1942(昭和17)年2月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「大統領命令9066号」に署名しました。内容は、特定の地域を軍が管理するものとし、陸軍関係者にその地域の人々を立ち退かせる権限を与えたものです。固有名詞こそ使われませんでしたが、その地域にいた日系人を対象とするものでした。
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12万人以上の日本人と日系人が収容される
大統領令9066号の発令直後から、ハワイやアメリカ西海岸地域を中心に、アメリカに移民した日本人と日系人の強制収容が始まりました。その数は12万人に上ったとされます。人々は砂漠地帯や人里離れた場所に作られた強制収容所に入れられて、常に武装兵の監視を受けました。
強制収容所には農場や工場、学校・教会・病院などが作られましたが、どれも急ごしらえで作られたものでした。住居もバラックと呼ぶべきもので、多くの人が差別的な処遇となりました。強制収容は、終戦を迎えた1945(昭和20)年にようやく終結。多くの日本人や日系人は元いた場所へ帰りましたが、その地で不当な扱いを受けたそうです。
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