今回は、大正デモクラシーについて学んでいこう。

実は大正デモクラシーには明確な定義がない。いつからいつまでが大正デモクラシーなのか、どの出来事が大正デモクラシーに含まれるのか、はっきりしていないのです。

そこで今回は、大正デモクラシーを4つの時期に分けて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

いつからいつまでが大正デモクラシー?

image by iStockphoto

まずは「大正デモクラシー」の定義について見ていくことにしましょう。

大正デモクラシーの時期は諸説ある

大正デモクラシーは、何が始まりで何が終わりかはっきりしていません。諸説あります。「第2次桂内閣の倒閣運動から治安維持法制定まで」とする説や、「第一次世界大戦終結から満州事変まで」とする説など、大正デモクラシーとみられている年代は幅広いのです。

少なくとも、1913(大正2)年に起きた第一次護憲運動と、1924(大正13)年からの第二次護憲運動は含まれるでしょう。その前後をどこまで大正デモクラシーとして含むべきかという点で意見が分かれているのです。そこで、この記事では2度の護憲運動とその前後という4つの時期に分けて説明するものとします。

大正デモクラシーの定義もはっきりしない

大正デモクラシーで定まっていないものは時期だけではありません。どの出来事までが大正デモクラシーなのかも定まっていないのです。辞書などで「大正デモクラシー」を調べた場合、「大正年間に顕著となった民主主義的・自由主義的な傾向や風潮」といった説明が書かれています

つまり、大正デモクラシーとは大正当時における世の中の流れや広まりつつあった考え方のことであり、特定の事件や現象などを指すものではありません。含めようと思えば大正ロマンの流行まで含めてもいいでしょう。ですが、今回は政治や思想の変化を中心に大正デモクラシーを紹介していきます。

桂園時代から第一次護憲運動前まで

image by iStockphoto

ここからは、大正デモクラシーを4つの時期に分けて説明していくことにしましょう。まずは桂園時代から第二次護憲運動が起こる前までです。

2人が交互に政権を担当した桂園時代

1901(明治34)年に、長州藩閥の桂太郎が首相となります。首相在任中に立憲政友会の総裁である西園寺公望と提携してから、2人は交互に政権を担当しました。桂と西園寺が交互に政権の座についた10年以上の期間を「桂園時代」(けいえんじだい)と呼びます。名前は2人の頭文字を取ったものです。

1906(明治39)年に第1次桂内閣が総辞職すると、その後を第1次西園寺内閣が引き継ぎます。2年半後に西園寺が辞意を表明すると、後継に選ばれたのは桂でした。さらに、第2次桂内閣が3年続いた後に、成立したのは第2次西園寺内閣。政権のたらい回しというべき状況が続いたのです。

\次のページで「美濃部達吉の天皇機関説とは」を解説!/

美濃部達吉の天皇機関説とは

1912(明治45)年、美濃部達吉は『憲法講話』の中で天皇機関説を提唱しました。天皇機関説とは、「統治権の主体は法人である国家にあり、天皇はその最高機関である」とする学説です。天皇は内閣や議会などから進言を得て国務を遂行するものと説きました。

天皇機関説は、その後の大正デモクラシーへの原動力となりました。なぜなら、天皇機関説では天皇が国家の最高機関として最高決定権を有する一方で、それを行使するには内閣や議会といった国民が関与する機関が不可欠だとしたからです。天皇機関説は、1930年代半ばまで憲法学の通説となりました

第一次護憲運動と米騒動

image by iStockphoto

続いて、第一次護憲運動と米騒動を中心に見ていくことにしましょう。

第3次桂太郎内閣が早期総辞職に追い込まれる

1913(大正2)年、陸軍との対立が原因で総辞職した第2次西園寺公望内閣に代わって組織されたのは、第3次桂太郎内閣でした。しかし、桂と西園寺だけで政権をたらい回しにするようなやり方に世論が反発し、衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らが桂内閣を批判するようになります。桂は内大臣兼侍従長となって政界を離れたばかりでした。

桂は新党を立ち上げるなどして対応しようと試みました。しかし、全国に憲政擁護運動(後に第一次護憲運動と呼ばれる)が波及して、桂の辞任を求める声が高まります。ついには数万人が国会議事堂を取り囲む事態にまで発展して、桂は辞任を決意。桂はわずか2か月で首相の座から降りました

吉野作造の民本主義とは

東京帝国大学の教授であった吉野作造は、1916(大正5)年の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」の中で、民本主義を唱えました。「政治の目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべし」と説き、「デモクラシー」を「民本主義」と訳しています。

そのような内容となったのは、当時の日本は大日本帝国憲法が施行されていたからでした。天皇を中心とする立憲君主制をとっていたため、主権の所在を明らかにしなくとも権利を追求できると唱えました。民本主義は一般市民にも受け入れられ、さまざまな社会運動に影響を与えたのです。

米騒動の責任を取って寺内正毅内閣が総辞職

第3次桂太郎内閣が退陣した後に成立した第1次山本権兵衛内閣は、シーメンス事件が発覚したため、わずか1年で総辞職に追い込まれます。続く第2次大隈重信内閣の時に日本が第一次世界大戦に参戦。さらにその後を、朝鮮総督だった寺内正毅が引き継ぎました

寺内は政党に所属していなかったために超然内閣を組織して、議会や政党の意思を反映しない立場を取ります1918(大正7)年に寺内内閣がシベリア出兵を宣言すると、国内の米価が急騰し、米騒動が起きました。打ち壊しや暴動などが全国で発生。米騒動の責任を取り、寺内内閣は総辞職しました

第二次護憲運動と成立した2つの法律

image by iStockphoto

次に、第二次護憲運動と、当時に制定された2つの法律について見ていくことにしましょう。

清浦奎吾による超然内閣

第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件の責任を取り、わずか4か月で総辞職します。その後に首相となったのが、枢密院議長の清浦奎吾でした。清浦は、貴族院の議員を中心とする超然内閣を組織します。しかし、政党を基盤としない組閣に人々が反発して、第二次護憲運動が起こりました

立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党は、護憲三派を結成して清浦内閣の退陣を迫ります。清浦内閣成立から4か月後に総選挙が行われると、護憲三派が圧勝。清浦内閣はわずか5か月で倒れ、護憲三派から憲政会総裁の加藤高明が首相に選ばれて、およそ2年ぶりに政党内閣が復活しました。

普通選挙の実現

1924(大正13)年の総選挙で、政党内閣の結成や普通選挙の実施を公約に掲げた護憲三派が圧勝。加藤高明内閣が成立すると、すぐに公約が実行されます。組閣してから1年で、衆議院議員選挙法を全面的に改正しました。いわゆる普通選挙法が制定されたのです。

ただし、当初の普通選挙法で定められたものは、現代の普通選挙とは違います。改正により満25歳以上の男子全員に選挙権が与えられましたが、女子には与えられませんでした。それでも一定の納税額を納めた者だけとする要件が撤廃されるなど、意義があった改正だといえます。

治安維持法が制定される

普通選挙法制定と同じ1925(大正14)年に、治安維持法が制定されます。1922(大正11)年にソビエト社会主義共和国連邦が生まれ、社会主義思想が日本に広まるのを恐れたものでした。普通選挙法と治安維持法は同時期に制定されたため、普通選挙法が「アメ」に、治安維持法が「ムチ」に例えられることもあります。

やがて、治安維持法は拡大適用されることになりました。さらに、制定から3年後の1928(昭和3)年に修正が加えられ、1941(昭和16)年には大きく改正。戦時中の日本で思想や言論が統制されました。治安維持法が廃止されたのは、太平洋戦争が終戦した1945(昭和20)年のことでした。

\次のページで「第二次護憲運動後から満州事変まで」を解説!/

第二次護憲運動後から満州事変まで

image by iStockphoto

最後に、第二次護憲運動後の時期に起こったことについて見ていきましょう。

大正から昭和へ

普通選挙法と治安維持法の制定から1年後の1926(大正15)年、大正天皇が崩御しました。その直後、大正天皇の長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が天皇に即位して、元号が昭和に改められます。なお、昭和に改元されたのは12月25日のことだったので、昭和元年はわずか1週間で終わりました。

1927(昭和2)年、関東大震災の手形が焦げついたことで昭和金融恐慌が起きました。第1次若槻禮次郎内閣は、事態の収拾を図れずに総辞職します。さらに、1929(昭和4)年に起きた世界恐慌の余波で、日本も昭和恐慌に見舞われました。濱口雄幸内閣が実施した金解禁も、昭和恐慌が起きた原因の1つでした。

満州事変で日本の軍国化が鮮明に

昭和恐慌により、日本の経済は深刻な打撃を受けます。日本が活路を求めた先は、大陸への進出でした。1931(昭和6)年の柳条湖事件をきっかけに、満州事変が勃発。関東軍は次々と各地で軍事行動を起こして、1945(昭和20)年まで続く戦争へと突入したのです。

同じ頃、日本国内でも軍部が暴走するようになりました。1932(昭和7)年の五・一五事件と1936(昭和11)年の二・二六事件で、犬養毅首相や高橋是清元首相が暗殺されます。政党出身ではない広田弘毅が首相となり、軍部大臣現役武官制が復活。日本で政党政治が途絶え、軍部が政治に介入するようになりました

定義は分かれるが大正デモクラシーで日本に民主主義的思想が広まった

大正デモクラシーには明確な定義がなく、その時期もはっきりとしていません。ですが、大正デモクラシーなくして日本の民主主義は成熟しなかったといえるでしょう。中でも、2度の護憲運動が起こったことで日本の政党政治が確立されたといえるはずです。大正デモクラシーを経験したことで、日本は政治に民意が反映される国になったといえます。

" /> 3分で簡単「大正デモクラシー」いつの出来事?4つの時期に分けて歴史好きライターがわかりやすく解説 – Study-Z
現代社会

3分で簡単「大正デモクラシー」いつの出来事?4つの時期に分けて歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、大正デモクラシーについて学んでいこう。

実は大正デモクラシーには明確な定義がない。いつからいつまでが大正デモクラシーなのか、どの出来事が大正デモクラシーに含まれるのか、はっきりしていないのです。

そこで今回は、大正デモクラシーを4つの時期に分けて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

いつからいつまでが大正デモクラシー?

image by iStockphoto

まずは「大正デモクラシー」の定義について見ていくことにしましょう。

大正デモクラシーの時期は諸説ある

大正デモクラシーは、何が始まりで何が終わりかはっきりしていません。諸説あります。「第2次桂内閣の倒閣運動から治安維持法制定まで」とする説や、「第一次世界大戦終結から満州事変まで」とする説など、大正デモクラシーとみられている年代は幅広いのです。

少なくとも、1913(大正2)年に起きた第一次護憲運動と、1924(大正13)年からの第二次護憲運動は含まれるでしょう。その前後をどこまで大正デモクラシーとして含むべきかという点で意見が分かれているのです。そこで、この記事では2度の護憲運動とその前後という4つの時期に分けて説明するものとします。

大正デモクラシーの定義もはっきりしない

大正デモクラシーで定まっていないものは時期だけではありません。どの出来事までが大正デモクラシーなのかも定まっていないのです。辞書などで「大正デモクラシー」を調べた場合、「大正年間に顕著となった民主主義的・自由主義的な傾向や風潮」といった説明が書かれています

つまり、大正デモクラシーとは大正当時における世の中の流れや広まりつつあった考え方のことであり、特定の事件や現象などを指すものではありません。含めようと思えば大正ロマンの流行まで含めてもいいでしょう。ですが、今回は政治や思想の変化を中心に大正デモクラシーを紹介していきます。

桂園時代から第一次護憲運動前まで

image by iStockphoto

ここからは、大正デモクラシーを4つの時期に分けて説明していくことにしましょう。まずは桂園時代から第二次護憲運動が起こる前までです。

2人が交互に政権を担当した桂園時代

1901(明治34)年に、長州藩閥の桂太郎が首相となります。首相在任中に立憲政友会の総裁である西園寺公望と提携してから、2人は交互に政権を担当しました。桂と西園寺が交互に政権の座についた10年以上の期間を「桂園時代」(けいえんじだい)と呼びます。名前は2人の頭文字を取ったものです。

1906(明治39)年に第1次桂内閣が総辞職すると、その後を第1次西園寺内閣が引き継ぎます。2年半後に西園寺が辞意を表明すると、後継に選ばれたのは桂でした。さらに、第2次桂内閣が3年続いた後に、成立したのは第2次西園寺内閣。政権のたらい回しというべき状況が続いたのです。

\次のページで「美濃部達吉の天皇機関説とは」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: