ロシアのウクライナ進攻の影響で、ソ連やその崩壊について聞くことが増えたでしょう。ソ連崩壊はプーチン大統領の「トラウマ」の原因とも言われている。世界中に大きなショックを与えた歴史的な出来事です。

ソ連崩壊はどうして起こったのでしょうか。そこに至るまでの経緯やその後の影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国ロシアについても興味があり、気になることがあったら調べている。今回は世界に衝撃を与えたソ連崩壊についてまとめてみた。

ソ連崩壊とは何を意味するのか?

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ソ連崩壊とはソビエト連邦の崩壊のこと。1988年から1991年にかけてのソ連の内部分裂と、共和国のまとまりとしての国家が終わったことを意味します。ソ連共産党の最後の書記長がミハイル・ゴルバチョフ。彼に対する内部のクーデターがソ連崩壊を決定づけました。

ソ連崩壊を加速させた共和国の独立

ソ連で初めて独立を宣言したのはエストニア。1988年11月16日のことです。この宣言を皮切りに、リトアニアそしてラトビアさらにはグルジアが独立を宣言しました。1990年代に入ると、エストニア、ラトビア、リトアニアの分離独立が承認されました。ソ連から最後に離脱したのがカザフスタン。1991年12月16日のことでした。

ソ連は、さまざまな民族の共和国から成る国家。多様性を尊重しながらも、現実には中央集権化されていました。そのため1980年代になると内部で衝突が生まれるようになります。その結果、民族ごとにひとつの国家を運営することを求める声が高まりました。それがソ連崩壊を後押ししました。

きっかけはゴルバチョフ大統領へのクーデター

弱体化していたソ連の改革を進めていたのがゴルバチョフ。彼による改革を良く思わない側近の保守派がクーデターを決行しました。クリミア半島に滞在していたゴルバチョフ一家を軟禁。クーデターは失敗に終わったもののゴルバチョフ政権の信頼は失墜しました。

ソ連の中核的存在だったロシア共和国の揺らぎが、他の共和国に影響を与えます。それから数か月のあいだに次々と独立が宣言されました。ゴルバチョフはソ連の共和党の書記長を辞任。大統領権限はエリツィンに引き継がれました。

エリツィンに引き継がれたロシアの大統領権限のひとつとして「チェゲト」があります。これは「核のカバン」と呼ばれるもの。チェゲトのボタンを押すと核兵器が発射されるとも言われました。実際はすぐに核兵器が発射されるのではなく、軍司令部に指令が送られるのみ。チェゲトの実体は謎に包まれており詳細は分かりません。今でもプーチン大統領の映像にチェゲトが映っていることも多々あります。

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ソ連崩壊時の大統領ゴルバチョフの改革

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ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフはソ連最後の指導者。停滞していたソ連の改革を進めたことでも知られています。とくに有名な改革がペレストロイカ。ロシア語で「立て直し」を意味するスローガンです。この改革は、ソ連を民主化させる一方、その結果として内部崩壊をもたらしたと言われています。

ペレストロイカの主軸は経済改革

ゴルバチョフがソ連のトップになった時期、ロシア経済は停滞していました。一部の特権階級の富が集中。大多数の人々は貧困に苦しんでいました。物資の不足を解消するためにゴルバチョフは社会主義経済を維持しながら、部分的に市場経済を導入します。しかしながら根本的な改革には至りませんでした。

中途半端になってしまった理由として、計画経済を完全に廃止しなかったことが挙げられます。ゴルバチョフは社会主義を捨てるつもりはありませんでした。そのため部分的に市場経済を導入したことで、余計に物資が不足。インフレは深刻化し、さらには物価も上昇します。ゴルバチョフの改革に期待していた国民の不満は大きくなりました。

言論の自由化はソ連崩壊を加速させる

ゴルバチョフは、チェルノブイリ原発事故の際、情報が全く入ってこなかったことを問題視。ソ連の秘密主義の改革にも乗り出します。それがグラスノスチと呼ばれる情報公開の取り組み。言論や思想が自由になり、集会も行えるようになりました。さらには出版や報道の自由も保障されました。

その結果、ソ連共産党の幹部の贅沢な暮らしぶりが暴露されることに。ソ連の在り方を疑問視する声が日に日に高まります。上映禁止の映画が次々と公開。スターリン時代の大粛清による犠牲についても取り上げられるようになりました。ゴルバチョフは共和国の独立について言及することも許容。皮肉にもソ連解体の流れを自ら作り出しました。

ソ連解体を決定づけたベロヴェーシ合意

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RIA Novosti archive, image #848095 / U. Ivanov / CC-BY-SA 3.0, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ゴルバチョフ大統領は内部クーデータにより権威が失墜。ボリス・エリツィンがロシアの新リーダーになります。彼を中心に、ソビエト連邦を消滅させ、新たに独立国家を設立するために動き出しました。それが1991年のベロヴェーシ合意です。

ベロヴェーシ合意に関わった3国のリーダーたち

ベロヴェーシ合意の舞台となったのは、ポーランドとベラルーシの国境地帯にあるエリア。原生林が生い茂る、ビャウォヴィエジャの森というところです。ビャウォヴィエジャの森の原生林は、ヨーロッパで唯一残っている原生林と言われ、ユネスコの世界遺産にも登録されました。

そこに集まったのは旧ソ連の共和国のリーダーたちです。ロシアからはボリス・エリツィン大統領が参加。ベラルーシからはスタニスラフ・シュシケービッチ最高会議議長、ウクライナからはレオニード・クラフチューク大統領が参加しました。

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ビャウォヴィエジャの森は、今では観光地としても知られています。絶滅が危惧されている動物や植物が生息しており、とくに有名なのがヨーロッパバイソンです。実は、1919年に一度、ヨーロッパバイソンは最後の一頭が銃で撃たれて絶滅しました。動物園で飼育されていた個体をもとに繁殖、復活させてきた歴史もあります。

独立国家共同体を設立することで合意

ロシア、ベラルーシ、ウクライナの3指導者は、それぞれの独立を保ったうえで、独立国家共同体を設立することで合意しました。独立国家共同体のモデルは、ヨーロッパの欧州共同体。ベラルーシの首都であるミンスクに本部が置かれました。

欧州共同体との違いは憲法を持っていないことです。また、議会も運営されていません。当初は三か国のみの参加でしたが、段階的に増えていきます。ウクライナは国民投票によって参加を決定。カザフスタンで首脳会議が行われたあと、8か国がさらに追加されました。

ソ連崩壊後の独立国家の動きとは?

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ソ連が正式に崩壊して、ベロヴェーシ合意により各国はゆるやかに連合することが決まりました。とはいえ、どの程度の独立性を守るのかは、国によって考えが異なりました。また、共同体に参加したからといって、ロシアに追従するという意味ではありません。そのため国家間には緊張が残りました。

ウクライナはロシアとの距離を模索

独立国家共同体を創設したことで、さまざまなことを合同で行うことが模索されます。そのひとつが統一軍を作るかどうかです。ロシアは、自国の軍と統一軍を一体化させるという構想を持っていました。軍隊を保有する国力がない国は、ロシアの考えに賛同していました。

しかしながら、ウクライナはロシアの考えに反対。なぜならウクライナは、ロシアとのあいだで、クリミアの帰属をめぐって揉めていたからです。ウクライナと同じように、ロシアとのあいだに領土問題を抱えるモルドバとアゼルバイジャンも、統一軍構想に反対を表明します。

核兵器はロシアがまとめて保管することが決定

一部の国の反対により、ロシアの統一軍の構想は消えてなくなりました。そこで沸き上がったのは、加盟国が持っている核兵器の取り扱いです。実は、旧ソ連の広大な領土には、たくさんの軍事施設や核兵器が残されていました。連合するとはいえ、緊張が残ることから、これらの軍事設備や兵器は、ロシアにとって脅威となります。

そこで決まったのが、加盟国が保有する核兵器をロシアがまとめて管理することです。なかでも、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンは、たくさんの核兵器を保有していました。次々と核兵器などが撤去され、加盟国は兵力を失っていきました。

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ソ連崩壊時のゴルバチョフの反応は?

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ソ連最後の最高指導者であるゴルバチョフはそのときどうしていたのでしょうか。ゴルバチョフは、ソ連の民主化を進めていたものの、ソ連の解体を望んでいたわけではありません。そのため、ベロヴェーシ合意について反対を表明します。

ゴルバチョフはソ連崩壊に反対

ゴルバチョフは、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの三か国のみで決定されたベロヴェーシ合意は無効であると考えました。そこで、臨時人民代議員大会を招集すること、国民投票を実施することを提案しました。ソ連の最高会議でも、ベロヴェーシ合意は無効とされましたが、スルーされました。

そのため、新しい共同体に参加するつもりだった他の旧ソ連国は混乱。一部の旧ソ連国は参加することに積極的ではありませんでした。しかしながら、多くの国はロシアに経済的に依存していたため、従うしかありませんでした。

ソビエト連邦の崩壊に反対する政治家も存在

ゴルバチョフの他、ソ連崩壊に反対する立場の政治家もいました。そのひとりがセルゲイ・ニコラエヴィチ・バブーリンです。バブーリンは、ロシア連邦の政治家であるものの、反エリツィンとしての立場を貫きました。

全ロシア国民同盟を設立したバブーリンは、大統領候補として活動を開始します。バブーリンが志向したのは、ソ連以前、ソ連時代、そして現在のいいところを合わせた、調和のとれた社会を実現することです。

旧ソ連国のなかでは、ソ連崩壊についての国民の評価はあまり高くありません。多くの国民はソ連の崩壊は間違いであったと考えました。その理由として、ソ連崩壊後も、それぞれの国は貧しいままだったことがあるでしょう。また、ロシアの支配下に置かれたままということも、ソ連崩壊は誤りだったと見なされる理由です。とくに年配の人たちは「あのころのほうがよかった」とソ連時代を懐かしむ傾向があるそうですね。

ソ連崩壊はまた続いている

ソ連は形としては消滅しましたが、ロシアを軸とする支配構造は今でも残っています。特に最近は、ロシアとの距離をとる国が増えてきました。その最たる例がウクライナでしょう。ソ連崩壊時から、ロシアと足並みをそろえてきたように見えます。しかし、クリミア進攻をはじめ、領土をめぐる衝突は絶えませんでした。そしてEUに移行する動きも加速。ソ連の崩壊は、まだ続いていると言ってもいいでしょう。

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ソビエト連邦ロシア世界史

世界を震撼させた「ソ連崩壊」はなぜ起こった?その原因、経緯、影響を元大学教員が5分で解説

ロシアのウクライナ進攻の影響で、ソ連やその崩壊について聞くことが増えたでしょう。ソ連崩壊はプーチン大統領の「トラウマ」の原因とも言われている。世界中に大きなショックを与えた歴史的な出来事です。

ソ連崩壊はどうして起こったのでしょうか。そこに至るまでの経緯やその後の影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国ロシアについても興味があり、気になることがあったら調べている。今回は世界に衝撃を与えたソ連崩壊についてまとめてみた。

ソ連崩壊とは何を意味するのか?

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ソ連崩壊とはソビエト連邦の崩壊のこと。1988年から1991年にかけてのソ連の内部分裂と、共和国のまとまりとしての国家が終わったことを意味します。ソ連共産党の最後の書記長がミハイル・ゴルバチョフ。彼に対する内部のクーデターがソ連崩壊を決定づけました。

ソ連崩壊を加速させた共和国の独立

ソ連で初めて独立を宣言したのはエストニア。1988年11月16日のことです。この宣言を皮切りに、リトアニアそしてラトビアさらにはグルジアが独立を宣言しました。1990年代に入ると、エストニア、ラトビア、リトアニアの分離独立が承認されました。ソ連から最後に離脱したのがカザフスタン。1991年12月16日のことでした。

ソ連は、さまざまな民族の共和国から成る国家。多様性を尊重しながらも、現実には中央集権化されていました。そのため1980年代になると内部で衝突が生まれるようになります。その結果、民族ごとにひとつの国家を運営することを求める声が高まりました。それがソ連崩壊を後押ししました。

きっかけはゴルバチョフ大統領へのクーデター

弱体化していたソ連の改革を進めていたのがゴルバチョフ。彼による改革を良く思わない側近の保守派がクーデターを決行しました。クリミア半島に滞在していたゴルバチョフ一家を軟禁。クーデターは失敗に終わったもののゴルバチョフ政権の信頼は失墜しました。

ソ連の中核的存在だったロシア共和国の揺らぎが、他の共和国に影響を与えます。それから数か月のあいだに次々と独立が宣言されました。ゴルバチョフはソ連の共和党の書記長を辞任。大統領権限はエリツィンに引き継がれました。

エリツィンに引き継がれたロシアの大統領権限のひとつとして「チェゲト」があります。これは「核のカバン」と呼ばれるもの。チェゲトのボタンを押すと核兵器が発射されるとも言われました。実際はすぐに核兵器が発射されるのではなく、軍司令部に指令が送られるのみ。チェゲトの実体は謎に包まれており詳細は分かりません。今でもプーチン大統領の映像にチェゲトが映っていることも多々あります。

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