現在の東北地方である陸奥の国で起こった清原一族の戦乱を、1086年に源義家がおさめた戦いが後三年の役。奥羽を実質支配していた清原氏が消滅した前九年の役のあとに起こった。奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもある。

後三年の役は、どんな人物が戦いに関与したのでしょうか。主要人物、背景、その後の影響について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平安時代末期の争乱、後三年の役が起こった背景やその後の影響についてまとめてみた。

後三年の役とはどんな戦いか?

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後三年の役は「後三年合戦」と呼ばれることもあります。「役」と呼ぶのは、前九年の役と同じく「外国との戦い」と位置づけているから。国内における戦なら「乱」もしくは「合戦」と呼ぶのが習わしです。

当時の東北地方はどんなところか?

かつての東北地方は蝦夷(えぞ)、そこに住んでいる人たちは蝦夷(えみし)と呼ばれ、外国と見なされていました。大和朝廷は蝦夷を征服することに長らく執念を燃やしており、何度も大軍を派遣していました。

しかしながら蝦夷の抵抗が根強く、征服するにはいたりませんでした。しかしながら、度重なる大和軍の侵略により蝦夷は弱体化。桓武天皇のころには、大和朝廷に降伏する見返りに今までの権利を認めて欲しいという折衷案が出されました。

大和朝廷は「征服」したという名誉を取り、蝦夷は「今までと実情は変わらない」という権利を手にしました。その後、朝廷は陸奥の国に鎮守府を設置。軍隊を常駐させました。そして今までの蝦夷の族長には「俘囚」(ふしゅう)という名をつけました。俘囚とは、蝦夷ではあるが大和朝廷に従う朝廷の家臣という意味があります。

俘囚である清原氏の台頭

朝廷から派遣された役人や権力者には、蝦夷に対する強い蔑みと優越感があり、蝦夷はそれを感じとっていました。その20年ほど前に起こった前九年の役は、俘囚の長である安倍氏の反乱とされてきました。しかし実情は、柄をたてたかった源頼義の策略による襲撃という説が有力です。

前九年の役で源頼義に手を貸し、安倍氏討伐に力を発揮したのは、やはり俘囚の清原一族。彼らは陸奥で強大な勢力となります。それから20年、清原氏の内輪もめが起こりました。それが、真衡、清衡、家衡の対立へと発展していきました。

後三年の役が始まった真相

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1083年、陸奥守兼鎮守府将軍となって陸奥に入国した源義家は、立場上、この争いをおさめる必要がありました。戦乱の最中に真衡が急死。そこで義家は奥六郡を半分ずつ彼らに分けました。いったんはこれで収束。ところが、家衡は清衡を攻め、再び合戦が始まりました。1087年の暮れ、義家は家衡を殺し、家衡の叔父武衡は捕えられました。これが後三年の役です。

似た名前の人物が登場して分かりにくいのが後三年の役の特徴。同時にたくさんの武勇伝が伝えられ、ヒーローが生まれました。そのうちの一人が源義家。八幡太郎義家として勇名を馳せます。最終的にこの戦により清原家の血筋が絶え、奥州藤原氏の藤原清衡が独り勝ちしました。

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ここで、どうして藤原という氏が出てきたのか、不思議に思う人もいるでしょう。実は藤原清衡は、清原氏の養子となって「清原」の姓を名乗っていただけ。もともとの姓は「藤原」でした。ところが後三年の役で清原氏が滅亡したので、旧姓の藤原を名乗るようになったのです。

後三年の役により地位を確立した源氏

後三年の役を収束させた源義家は、部下にも恩賞を与えるように朝廷に願いました。しかし、これは私的な戦いであると義家の頼みを朝廷は拒否。本心は義家の勢力がこれ以上強くなるのを恐れた、そして武士の義家を憎んでいたからでしょう。

貴族たちは、武力でのしあがっていく武士たちを内心では軽蔑。「八幡太郎恐ろしや」とわらべ歌で歌われたほどでした。そこで義家は私財で部下の武士たちに恩賞を与えました。その結果、源氏の経済力の大きさを示すとともに、武士たちの義家に対する信望をますます強めることに成功しました。

後三年の役の後の奥州藤原氏

後三年の役で勝ち残った藤原氏は中尊寺を中心にした「黄金文化」を作り上げました。その遺産は今にも語り伝えられます。中尊寺は藤原清衡によって1105年に平泉に建立されたもの。栄華の象徴ともいえる金色堂は1126年に完成しました。そこには、藤原清衡、基衡、秀衡の三代の遺体が安置されています。

中尊寺はそもそも、奥州鎮護の霊場として建立されたもの。前九年の役で「反逆者」とされた安倍氏の鎮魂の意味があったと言われています。俘囚同士で戦うこととなり、最後に勝ち残った藤原氏(都の藤原氏とは別)の胸にはどのような思いが去来したのでしょうか。

後三年の役が生んだ奥州藤原文化

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平泉に建立された中尊寺の金色堂は、別名で光堂とも言われ、藤原氏の墓堂としての役割を担っています。堂の内も外も黒漆を塗り、そのうえに金箔を押しました。中央内陣は、七宝(しっぽう)草原の巻柱が立ち、四隅を阿弥陀三尊などの11体の仏像が取り囲んでいます。互いを輝かせるその世界は浄土芸術の結晶。平泉を小京都と呼ばれるまでにしました。

奥州藤原氏のルーツの謎

奥州藤原文化は黄金まみれの「金ぴか文化」と見下されることも。とはいえ、それを可能にした奥州藤原氏の財力と権力はものすごいもので、それはある意味、俘囚たちの怨念の結晶とも言えるのではないでしょうか。

元をたどれば蝦夷と蔑まれ、異国の蛮人扱いをされてきた人たちの怨念が積み重なり、この黄金文化が生まれました。平泉初代藤原氏の清衡の父は藤原経清。前九年の役で安倍氏側の指揮官の1人でした。

系図のうえでは、京都の藤原北家の魚名に繋がってますが、それ以前の系譜はかなりあやしいもの。のちに清衡が摂関家に土地を寄進して、「藤原」を名乗ることを許されたという説もあります。藤原経清以降の系図は確かなもの。しかし、それ以前はどんな氏だったのかは分からないままです。

\次のページで「奥州の支配権をめぐる衝突」を解説!/

奥州の支配権をめぐる衝突

前九年の役のあと安倍氏の所領は没収。源頼義に加勢した清原武則の手にうつり、その子孫に伝えられました。後三年の役が終わった時には、完全に清原氏の手に握られていました。しかし、清原家の内紛が起こり、そこに源義家が介入。結果的に清原清衡が唯一の勝利者となりました。

ここに、現代の感覚では理解困難な「氏」(うじ)の複雑さがあります。清衡は元々清原氏ではなく、藤原経清の子。清原家の支配権をそっくりそのまま奥州藤原家に持って行ったようなものです。そのため、「奥州藤原氏」が歴史の舞台に突然あらわれました。

後三年の役のあとの奥州藤原氏

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どうして「奥州藤原氏」と呼ぶかというと「都の藤原氏」と区別するためです。はじめから蝦夷の族長の血を引くと言われ、大和朝廷から見下されていた藤原清衡は、中央の権威に結びつくことによって、政治的立場を強くしていきました。

藤原清衡とはどんな人物なのか?

清衡は清原氏の養子。もともとは藤原姓を名乗っていたことは先に触れました。藤原という姓は、清衡の父で、平泉藤原の初代の経清が名乗っていたもの。藤原という姓を、誰が、いつ、どんな手段で手に入れたかは定かではありません。

清衡は、後三年の役のあと、奥州の馬二頭を関白藤原師実にプレゼント。摂関家に保護されることになりました。それから藤原姓を名乗るようになったのかもしれません。その孫にあたる秀衡は鎮守府将軍に任ぜられ、また平宗盛により陸奥守に任ぜられ、奥州の真の支配者となりました。奥州藤原氏の北方王国を大和朝廷は正式に承認したということになるでしょう。

源平争乱が起こった時、平宗盛は平泉の兵力を源頼朝の攻撃のために動かそうとしました。平氏は秀衡に平氏復活の望みをかけたのです。秀衡は「すぐに討って出る」と返答。しかし、結局は平泉を一歩も離れず、政治的中立を保ちました。源頼朝は、徹底して奥州藤原氏を叩きつぶそうとします。奥州を完全支配するチャンスを狙っていました。

奥州藤原氏の黄金王国の消滅

秀衡は頼朝とできるだけ協調しながらも、やがて大波のように襲ってくる頼朝の攻撃を予想していました。奥州の王者藤原氏と源氏の対立は、いきなり始まったものではありません。藤原氏は、安倍氏や清原氏の後を継いで、現在の東北の奥羽の王者になりました。そのため源氏が奥州を支配するという野望を長年持っていたのでしょう。

頼朝と争った義経が平泉に逃走。秀衡は子どもたちに、義経を主君として守るように遺言を残しました。しかしながら、源氏の勢いを止めることはできませんでした。泰衡は、頼朝を攻撃する前に、平泉の壮大な屋敷に火を付けて逃げました。頼朝は、翌日平泉に到着。無残な廃墟を目の当たりにします。

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東北に残る後三年の役の影響

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前九年の役と後三年の役と呼ばれる二つの戦いのなかで、源氏は武士としての地位を確立。鎌倉美し政権の下地ができあがりました。この二つの戦乱は「役」(えき)と呼ばれ、外国との戦いと位置付けられていました。

内なる外国としての東北

当時の東北地方は蝦夷の国、つまり外国と見なされていました。当時は「外国」と見なされていた東北が中央集権化されていく、その最終段階が後三年の役と言えるでしょう。実は、平安末期の日本はとても多様性に満ちていたのです。

東北地方が大和朝廷から見れば外国。安倍氏、清原氏、奥州藤原氏は、偏見や蔑みの目で見られていたため、この戦乱が起こりました。平泉の黄金文化を築いたのは藤原氏。もともとは東北の蝦夷である俘囚の血の流れに繋がるものです。奥州の族長たちの本拠地は、胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手など。その土地は古代から蝦夷の支配する土地でした。

東北は蝦夷の古代王国があった場所

頼朝の奥羽州征伐は、蝦夷以来、何百年も続いてきた奥州の半独立の歴史を終わらせました。父・秀衡の遺言を破り、義経を衣川で撃った泰衡は、ひどい奴だと言われがちです。しかし泰衡には、頼朝と義経の兄弟争いに巻き込まれたくないという思いがありました。

泰衡は、裏切者という汚名と引き換えに、中尊寺金色堂を戦禍から守った人でもあるでしょう。泰衡の首が入っていた桶からは、80粒のハスの胤が見つかりました。今でもそれらは、「中尊寺ハス」と呼ばれ、毎年花を咲かせています。

後三年の役は外国である東北を制圧する戦い

後三年の役は、東北一帯を支配する俘囚を制圧する戦いでした。俘囚は都の支配者にとって野蛮人。彼らが支配するエリアは都の外にある外国のようなものでした。奥州藤原氏は、東北一帯に残った最後の俘囚の一大勢力。その消滅はひとつの時代の終わりとも言えるでしょう。今も奥州藤原氏が残した文化に触れることができますので、東北に旅行に行ったときにぜひのぞいてみてください。

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平安時代日本史鎌倉時代

武士の台頭を促した「後三年の役」とは?戦いに参加した人物やその後の影響を元大学教員が簡単にわかりやすく解説

現在の東北地方である陸奥の国で起こった清原一族の戦乱を、1086年に源義家がおさめた戦いが後三年の役。奥羽を実質支配していた清原氏が消滅した前九年の役のあとに起こった。奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもある。

後三年の役は、どんな人物が戦いに関与したのでしょうか。主要人物、背景、その後の影響について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平安時代末期の争乱、後三年の役が起こった背景やその後の影響についてまとめてみた。

後三年の役とはどんな戦いか?

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後三年の役は「後三年合戦」と呼ばれることもあります。「役」と呼ぶのは、前九年の役と同じく「外国との戦い」と位置づけているから。国内における戦なら「乱」もしくは「合戦」と呼ぶのが習わしです。

当時の東北地方はどんなところか?

かつての東北地方は蝦夷(えぞ)、そこに住んでいる人たちは蝦夷(えみし)と呼ばれ、外国と見なされていました。大和朝廷は蝦夷を征服することに長らく執念を燃やしており、何度も大軍を派遣していました。

しかしながら蝦夷の抵抗が根強く、征服するにはいたりませんでした。しかしながら、度重なる大和軍の侵略により蝦夷は弱体化。桓武天皇のころには、大和朝廷に降伏する見返りに今までの権利を認めて欲しいという折衷案が出されました。

大和朝廷は「征服」したという名誉を取り、蝦夷は「今までと実情は変わらない」という権利を手にしました。その後、朝廷は陸奥の国に鎮守府を設置。軍隊を常駐させました。そして今までの蝦夷の族長には「俘囚」(ふしゅう)という名をつけました。俘囚とは、蝦夷ではあるが大和朝廷に従う朝廷の家臣という意味があります。

俘囚である清原氏の台頭

朝廷から派遣された役人や権力者には、蝦夷に対する強い蔑みと優越感があり、蝦夷はそれを感じとっていました。その20年ほど前に起こった前九年の役は、俘囚の長である安倍氏の反乱とされてきました。しかし実情は、柄をたてたかった源頼義の策略による襲撃という説が有力です。

前九年の役で源頼義に手を貸し、安倍氏討伐に力を発揮したのは、やはり俘囚の清原一族。彼らは陸奥で強大な勢力となります。それから20年、清原氏の内輪もめが起こりました。それが、真衡、清衡、家衡の対立へと発展していきました。

後三年の役が始まった真相

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1083年、陸奥守兼鎮守府将軍となって陸奥に入国した源義家は、立場上、この争いをおさめる必要がありました。戦乱の最中に真衡が急死。そこで義家は奥六郡を半分ずつ彼らに分けました。いったんはこれで収束。ところが、家衡は清衡を攻め、再び合戦が始まりました。1087年の暮れ、義家は家衡を殺し、家衡の叔父武衡は捕えられました。これが後三年の役です。

似た名前の人物が登場して分かりにくいのが後三年の役の特徴。同時にたくさんの武勇伝が伝えられ、ヒーローが生まれました。そのうちの一人が源義家。八幡太郎義家として勇名を馳せます。最終的にこの戦により清原家の血筋が絶え、奥州藤原氏の藤原清衡が独り勝ちしました。

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