後三年の役は、どんな人物が戦いに関与したのでしょうか。主要人物、背景、その後の影響について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平安時代末期の争乱、後三年の役が起こった背景やその後の影響についてまとめてみた。
後三年の役とはどんな戦いか?
後三年の役は「後三年合戦」と呼ばれることもあります。「役」と呼ぶのは、前九年の役と同じく「外国との戦い」と位置づけているから。国内における戦なら「乱」もしくは「合戦」と呼ぶのが習わしです。
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当時の東北地方はどんなところか?
かつての東北地方は蝦夷(えぞ)、そこに住んでいる人たちは蝦夷(えみし)と呼ばれ、外国と見なされていました。大和朝廷は蝦夷を征服することに長らく執念を燃やしており、何度も大軍を派遣していました。
しかしながら蝦夷の抵抗が根強く、征服するにはいたりませんでした。しかしながら、度重なる大和軍の侵略により蝦夷は弱体化。桓武天皇のころには、大和朝廷に降伏する見返りに今までの権利を認めて欲しいという折衷案が出されました。
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大和朝廷は「征服」したという名誉を取り、蝦夷は「今までと実情は変わらない」という権利を手にしました。その後、朝廷は陸奥の国に鎮守府を設置。軍隊を常駐させました。そして今までの蝦夷の族長には「俘囚」(ふしゅう)という名をつけました。俘囚とは、蝦夷ではあるが大和朝廷に従う朝廷の家臣という意味があります。
俘囚である清原氏の台頭
朝廷から派遣された役人や権力者には、蝦夷に対する強い蔑みと優越感があり、蝦夷はそれを感じとっていました。その20年ほど前に起こった前九年の役は、俘囚の長である安倍氏の反乱とされてきました。しかし実情は、柄をたてたかった源頼義の策略による襲撃という説が有力です。
前九年の役で源頼義に手を貸し、安倍氏討伐に力を発揮したのは、やはり俘囚の清原一族。彼らは陸奥で強大な勢力となります。それから20年、清原氏の内輪もめが起こりました。それが、真衡、清衡、家衡の対立へと発展していきました。
後三年の役が始まった真相
1083年、陸奥守兼鎮守府将軍となって陸奥に入国した源義家は、立場上、この争いをおさめる必要がありました。戦乱の最中に真衡が急死。そこで義家は奥六郡を半分ずつ彼らに分けました。いったんはこれで収束。ところが、家衡は清衡を攻め、再び合戦が始まりました。1087年の暮れ、義家は家衡を殺し、家衡の叔父武衡は捕えられました。これが後三年の役です。
似た名前の人物が登場して分かりにくいのが後三年の役の特徴。同時にたくさんの武勇伝が伝えられ、ヒーローが生まれました。そのうちの一人が源義家。八幡太郎義家として勇名を馳せます。最終的にこの戦により清原家の血筋が絶え、奥州藤原氏の藤原清衡が独り勝ちしました。
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