今回は、寺内正毅について学んでいこう。

寺内は陸軍出身の政治家で、政党政治を行わない超然内閣を組織したことでも知られるな。ですが、米騒動の責任を取って内閣は総辞職した。なぜそんなことになったのか、知りたい人も多いでしょう。

寺内正毅の生涯や政治家としての功績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

若き頃の寺内正毅

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まずは、従軍に明け暮れていた寺内正毅の若い頃について見ていくことにしましょう。

戊辰戦争に参加

寺内正毅(てらうちまさたけ)は、1852(嘉永5)年に現在の山口県で生まれました。ペリーが黒船を率いて初めて浦賀に来航したのが、その翌年の1853(嘉永6)年です。父は長州藩士の宇多田正輔でした。寺内はのちに母方の実家の養子となり、それから寺内姓を名乗ります。

幼少の頃から寺内は長州藩の部隊に所属。銃の操作や国学を学びました。その後、寺内は10代半ばにして倒幕軍の一員となり、1868(慶応4)年から始まった戊辰戦争に参加します。寺内は転戦を重ねた倒幕軍とともに北上し、現在の北海道函館市で起こった箱館戦争にも加わりました

西南戦争に参加

1877(明治10)年、明治新政府に不満を持つ士族が西南戦争(西南の役)を起こしました。中心となったのが、明治六年の政変で下野していた西郷隆盛です。明治維新後に西洋式の兵術を学んでいた寺内正毅は、新政府軍の軍人として西南戦争に参加します。寺内は前線での戦闘を自ら志願しました。

近衛連隊の中隊長として西南戦争に出陣した寺内。しかし、最大の激戦地となった田原坂で右腕を負傷し自由を失います。それ以降、寺内は実戦の場から離れることになりました。そのことがきっかけで、寺内は軍の教育や軍政に力を注ぐ方面に進みます

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軍人としての寺内正毅

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西南戦争で負傷して現場からは去った寺内正毅ですが、その後も軍人としてのキャリアを重ねていきます。その様子を見てみましょう。

フランスに留学

明治維新後の寺内正毅は、もともとフランス留学を希望していました。しかし、その機会を得ることは叶わず、日本で西洋式の軍学を学ぶことになります。寺内に訪れた転機が西南戦争でした。西南戦争で負傷して右手の自由を失った寺内は、士官学校の生徒司令官になったのです。

1882(明治15)年に、寺内は閑院宮載仁親王の補佐官としてフランス留学を果たしました。フランス語やフランス軍政を学びながら、その途中でフランス公使館付武官に任ぜられています。寺内はフランスに4年ほど滞在。帰国後は、陸軍士官学校長として教鞭を執りました

日清戦争に参加

フランスから帰国した後は軍人としてのキャリアを重ねる寺内正毅。陸軍大臣官房副長や第1師団参謀長などに任ぜられます。1894(明治27)年に起きた日清戦争で、寺内は大本営の運輸通信長官を務めました。日本軍を後方から支援する、兵站の責任者となったのです。

日清戦争が終結した後も、寺内は重要な任務に就きました。1896(明治29)年には歩兵第3旅団長に就任。1898(明治31)年には教育総監となり、寺内は再び軍の教育に励みました。1900(明治33)年に義和団の乱が発生すると、寺内は参謀本部次長として現地まで赴きます

政治家となった寺内正毅

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陸軍大将にまで上り詰めた寺内正毅は、さらに政治家としても活躍します。政治家としての寺内の活躍は、いったいどのようなものだったのでしょうか。

陸軍大臣として入閣

明治時代末期から大正時代初期にかけて、「桂園時代」と呼ばれる時期がありました。桂太郎と西園寺公望の2人が、交互に政権を担当した時期です。1901(明治34)年に第1次桂太郎内閣が成立。10年以上続く桂園時代の最初となる政権が樹立されたのです。

日清戦争などで功績を残した寺内正毅は、第1次桂内閣に陸軍大臣として入閣しました。1904(明治37)年から始まった日露戦争の勝利に貢献すると、寺内は第1次桂内閣の後に続く第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣となります。1906(明治39)年には、陸軍大将にまで昇進しました。

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韓国総監と朝鮮総督になる

日清・日露戦争などで軍功を上げた寺内正毅は、1907(明治40)年に子爵の位を授けられます。陸軍大臣として職務を遂行するさなかでした。1910(明治43)年には、空位となった韓国総監に、陸軍大臣との兼任で就任しました。さらに、日韓併合が行われると、新設された朝鮮総督の座に就いたのです。

1911(明治44)年に第2次西園寺公望内閣が成立すると、その年に伯爵となった寺内は陸軍大臣からは外れます。その後の寺内は専任の初代朝鮮総督として職務を遂行朝鮮半島の軍事権だけでなく、司法・立法・行政の三権も掌握しました憲兵警察を創設して朝鮮半島を厳しく取り締まり、武断政治と評されるようになります

内閣総理大臣としての寺内正毅

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陸軍大臣や朝鮮総督などを務めたあと、内閣総理大臣となった寺内正毅。寺内内閣ではどのようなことが行われたのでしょうか。

超然内閣を組織する

桂太郎と西園寺公望による桂園時代が終わると、その後継として山本権兵衛が総理大臣となりました。ですが、シーメンス事件が発覚したため、1年余りで山本は辞職します。その後を継いだのが、第2次大隈重信内閣です。しかし、元老との対立が顕著となり、1916(大正5)年に総辞職しました。

元老は、大隈重信の後継に寺内正毅を推挙寺内は朝鮮総督を辞任して総理大臣となり、寺内内閣を組織しました。陸軍出身の寺内は、政党には所属していませんでした。そのため、寺内は政党政治とは距離を置く超然内閣を組織することとなったのです。

西原借款が批判される

1911(明治44)年から起きた辛亥革命で、中国は政情が不安定になります。寺内内閣は、段祺瑞(だんきずい)政権に対して、将来生まれるであろう利権を確保するために援助を行いました。政府として行わず、寺内の側近である西原亀三個人の名目で貸し付けたため、「西原借款」と呼ばれます。

しかし、西原借款は国内外から非難を浴びました。段祺瑞政権に肩入れすることにより、中国の内乱を助長するものとして批判されたためです。さらには段祺瑞政権が倒され、日本からの援助が無駄になります。結局、西原借款による債権を回収することはできませんでした。

米騒動により責任を取って辞任

1917(大正6)年、10月革命でロシアにボリシェヴィキ政権が誕生すると、欧米諸国が社会主義勢力の台頭を恐れるようになります。イギリスやフランスから参戦呼びかけがあった日本も介入を決意。1918(大正7)年8月に寺内内閣はシベリア出兵を宣言します。しかし、その頃から日本各地で米騒動が発生しました。

米騒動には数百万人が参加して、多くの検挙者が出る大規模なものでしたその責任を取り、1918年9月に寺内内閣は総辞職しました。さらに、寺内は首相在任中から健康を害していたのです。首相辞任の翌年である1919年(大正8)に、寺内は67歳で亡くなりました。

寺内正毅内閣が倒れた原因となった米騒動とは

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最後に、寺内正毅内閣が倒れた原因となった米騒動について、簡単に振り返っていくことにしましょう。

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米価が急騰する

第一次世界大戦が起きた影響は、日本にインフレという形で現れました。その頃の日本では、人口が農村部から都市部へ移動するようになります。米の需要は増えましたが、逆に米の生産が追いつかなくなりました。そのため、1917(大正6)年頃より日本の米価が高騰し始めます

それに輪をかけたのが、寺内内閣が宣言したシベリア出兵でした。米の流通業者などが米の需要を見込み、米の買い占めや売り惜しみをするようになります。その結果、1918(大正7)年8月になり米価が急騰。一般市民が容易に米を購入できなくなる事態に陥りました。

富山県から全国に波及

米騒動は富山県の漁村から発生したとされます。現在の富山県魚津市の主婦たちが、米の積み出しを阻止しようと港に大挙押し寄せたのです。その動きは富山県全域に広がり、各地で米の積み出しをやめさせようとする動きが発生しました。やがて、その動きは全国に広がります。

米騒動が激化すると、米問屋が打ち壊しなどの被害に遭うようになりました。また、米価問題を話し合う集会が全国で開かれるようになります。しかし、一部の者が暴徒化し放火や破壊行為を繰り返すようになりました。中には、米の販売業者に米の値下げを強要する者まで現れたのです。

米騒動に有効な対策を打ち出せなかった寺内内閣

米価の急騰を重く見た寺内内閣は、国家予算を支出して米を安く売るよう販売業者に徹底させました。しかし、想定したほどの米価引き下げには至りませんでした。騒動は炭鉱などにも広がり、各地で暴動となりました騒動を鎮圧させようと、ついには軍隊が出動するまでになったのです。

世論は米騒動の責任を政府に取らせようと、寺内内閣の退陣を強く求めるようになります。その結果、寺内内閣は1918年9月に総辞職。その後に憲政史上で初めての本格的政党内閣となる原敬内閣が誕生したのです。多くの検挙者を出した米騒動は、およそ50日間で終結しました。

米騒動を激化させた寺内正毅内閣は責任を取って総辞職した

陸軍出身の寺内正毅は、大隈重信の後を継いで内閣を組織しました。寺内は政党に所属していなかったため、寺内内閣は政党政治とは一線を画す超然内閣でした。寺内内閣は西原借款やシベリア出兵などを断行しますが、米価の高騰をきっかけとした米騒動が全国で発生しました。米騒動の鎮圧に軍隊を出動をさせるなどで騒ぎを大きくした責任を取り、寺内内閣は総辞職したのです。

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現代社会

米騒動で首相の座を追われた「寺内正毅」とは?その生涯や政治家としての功績などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、寺内正毅について学んでいこう。

寺内は陸軍出身の政治家で、政党政治を行わない超然内閣を組織したことでも知られるな。ですが、米騒動の責任を取って内閣は総辞職した。なぜそんなことになったのか、知りたい人も多いでしょう。

寺内正毅の生涯や政治家としての功績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

若き頃の寺内正毅

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まずは、従軍に明け暮れていた寺内正毅の若い頃について見ていくことにしましょう。

戊辰戦争に参加

寺内正毅(てらうちまさたけ)は、1852(嘉永5)年に現在の山口県で生まれました。ペリーが黒船を率いて初めて浦賀に来航したのが、その翌年の1853(嘉永6)年です。父は長州藩士の宇多田正輔でした。寺内はのちに母方の実家の養子となり、それから寺内姓を名乗ります。

幼少の頃から寺内は長州藩の部隊に所属。銃の操作や国学を学びました。その後、寺内は10代半ばにして倒幕軍の一員となり、1868(慶応4)年から始まった戊辰戦争に参加します。寺内は転戦を重ねた倒幕軍とともに北上し、現在の北海道函館市で起こった箱館戦争にも加わりました

西南戦争に参加

1877(明治10)年、明治新政府に不満を持つ士族が西南戦争(西南の役)を起こしました。中心となったのが、明治六年の政変で下野していた西郷隆盛です。明治維新後に西洋式の兵術を学んでいた寺内正毅は、新政府軍の軍人として西南戦争に参加します。寺内は前線での戦闘を自ら志願しました。

近衛連隊の中隊長として西南戦争に出陣した寺内。しかし、最大の激戦地となった田原坂で右腕を負傷し自由を失います。それ以降、寺内は実戦の場から離れることになりました。そのことがきっかけで、寺内は軍の教育や軍政に力を注ぐ方面に進みます

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