日本初の法律誕生!「飛鳥浄御原令」
持統天皇が引き継いだ事業のなかでも大きなものに日本初の法律「飛鳥浄御原令」の制定があります。正確には、制定されたのは持統天皇即位の一年前。天武天皇のもがりの最中ですね。
「飛鳥浄御原令」は唐の律令に倣った日本最初の体系的な律令…なのですが、「律(刑法)」を唐のものそのままでした。そのため、内容が日本の実状に合わないところも多くあったのです。これは草壁皇子の急死による朝廷の動揺を抑えつつ、天武天皇の遺志を継承していることを示すために、予定を前倒ししたためだと考えられています。
ただし、その後も律令の編纂は続いていき、のちに軽皇子が即位して文武天皇となったときに発布された「大宝律令」へと繋がるのです。
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碁盤目状の都市計画「条坊制」の都・藤原京の造営
現代の京都の街並みも碁盤目だと言われますね。実は、その原型がすでに飛鳥時代に日本に渡っていたのです。この碁盤目状の都市計画を「条坊制」といいます。
条坊制は中国の儒教の経典『周礼』の思想に基づきつつ、さらに風水の四神相応の思想も取り入れて、宮から伸びる四つの大通りには玄武、青龍、朱雀、白虎の名前がつきました。これは後の平城京などでも見られ、四神の守護を得るための配置です。
条坊制を取り入れた藤原京は飛鳥浄御原宮の北西部、現在の奈良県橿原市のあたりに建設されました。その規模は広大で、古代最大の都市だったとされています。
史上三番目の女性天皇にして、日本初の太上天皇
皇太子・軽皇子が15歳のとき、持統天皇はかねてよりの計画通り、軽皇子に譲位して天皇を引退します。持統天皇は日本史上三番目の女性天皇でしたが、その上で存命中に譲位した史上二番目の天皇であり、そして史上初の太上天皇(上皇)となりました。
引退?いいえ、まだやれます!孫とともに「大宝律令」の制定
しかし、ここで完全に政治から手を引かなかったのが持統上皇。持統上皇は孫の文武天皇(軽皇子)とともに政治に参加し、日本初の本格的な律令「大宝律令」の制定に関わったとされています。
先述の通り、持統上皇引き継いだ「飛鳥浄御原令」は不完全なものだったため、「大宝律令」で不足しているところを補った完璧な日本の法律を作り上げたのです。「大宝律令」は朝廷の官庁の部署を定めたものから、僧侶たちを統制する規定など、行政法から民法までの多岐に渡りました。
偉大な父と夫に負けない強い女性天皇「持統天皇」
「大化の改新」を行った天智天皇の娘であり、古代日本最大の「壬申の乱」を乗り越え、日本発の法律を作ろうとした天武天皇の皇后だった持統天皇。波乱に巻き込まれながらも夫とともに壬申の乱を勝利し、皇后として天武天皇を助けたとされています。天武天皇が志半ばで倒れたあとは孫の軽皇子(文武天皇)が成長するまでの間に即位し、日本史上三番目の女性天皇となりました。そうして、天武天皇の事業を受け継ぎ「飛鳥浄御原令」制定や「藤原京」の造営していきます。文武天皇即位後も、持統天皇は隠居することなく太上天皇(上皇)として政務に携わり続けた強く精力的な女性でした。