『古事記』と『日本書紀』の製作はここから!天武天皇の大事業
古代日本の歴史を紐解くために欠かせない『古事記』と『日本書紀』ですが、両書が編纂されたのはこのころ。実は、先代の天智天皇が中大兄皇子だったころに蘇我氏に対して乙巳の変を起こした際に、蘇我氏が自宅に放火したことが原因で『天皇記』や『国記』といった歴史書が消失してしまっていたのです。そのため、日本には失われた歴史書に代わるものが必要になり、天武天皇が編纂を命じたのでした。
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ざっくり解説『古事記』と『日本書紀』の違い
ついでなので、『古事記』と『日本書紀』についてざっくり解説しておきましょう。
まずは『古事記』。こちらは、天武天皇に抜擢された「稗田阿礼(ひえだのあれ)」らは『古事記』を作るための下準備を始めます。その後、天武天皇の崩御後に元明天皇が「太安万侶(おおのやすまろ)」に命じて712年に『古事記』ができあがりました。『古事記』は神代から第33代推古天皇までを書いた全三巻、編纂期間はたったの四ヶ月!三巻とはいえ、日本の歴史に関するものですから、この短期間で仕上げるのに相当苦労したことでしょう。
一方で、天武天皇は兄弟の川島皇子をはじめとした六人の皇族と六人の官僚の計12人に『日本書紀』の編纂を命令します。こちらは乙巳の変で焼けた歴史書や朝廷外の歴史書などを元に編纂されました。こちらは全30巻の大長編で、神代から第41代持統天皇まで。製作期間は39年にもおよび、720年に完成しました。
アジア世界の最先端!「唐」を倣った国づくり
当時のアジアの中心国家となっていたのは大陸の「唐」。技術も法律も最先端でした。日本の朝廷は遣唐使を送って唐から技術や学問など、さまざまなものを教えてもらいます。そういったもののなかには「律令(法律)」や「条坊制(街を碁盤目状にする都市計画)」など、今後の国づくりに関わる重要なものがありました。
夫・天武天皇の崩御に重なる不幸と持統天皇の即位
天武天皇は唐から持ち帰られた律令や条坊制をもとに法律の編纂や、新たなる都として「藤原京」の建設に着手していました。しかし、そのいずれの完成も待たずに天武天皇は病気にかかって崩御してしまいます。
当時の葬儀儀礼に「もがり」というものがあり、棺に納めた遺体が白骨化するまでの期間、死者との別れを惜しんだりしながら、死を受け止めるというものです。天武天皇のもがりは長く、二年に及びました。さらに悪いことに、この二年の間に持統天皇の息子であり、皇太子だった草壁皇子が若くして亡くなってしまいます。
草壁皇子に続いて皇太子となったのは、草壁皇子の息子で、持統天皇の孫にあたる軽皇子です。しかし、軽皇子は天皇として立つには幼すぎるため、軽皇子が成長するまでの間、持統天皇が天皇として即位することになったのでした。
3.持統天皇即位!悲しみを乗り越え、夫の事業を完成
Katsukawa Shunsho – Toyo Keizai – https://toyokeizai.net/articles/-/565677 , Atomi University Library Collection., パブリック・ドメイン, リンクによる
天武天皇、草壁皇子を見送ることになってしまった持統天皇。しかし、時間は待ってはくれません。前述した通り、天武天皇は大きな事業の完成を見ないままに崩御してしまったのです。持統天皇はそれらを引継ぎ、完成へ向けて乗り出します。
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