古代日本で史上三人目の女性天皇となった「持統天皇」を知ってるか?彼女の詠んだ和歌は百人一首のなかにもあるから、古典の授業なんかでも聞いたことがあるかもしれませんね。女性天皇で和歌にも優れていた…そのうえ、夫の天武天皇と協力して多くの事業を行ったんです。
今回は「持統天皇」を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。以前に飛鳥時代について解説、今回は三人目の女性天皇「持統天皇」にスポットライトをあて、まとめた。

1.古代日本最大の大反乱!夫ともに天智天皇の跡継ぎ問題解決

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飛鳥時代に天智天皇の娘として生まれ、叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁いだ「持統天皇」。この時期はまだ藤原家の権力が天皇を越えることはなく、皇族であれば男女関係なく天皇になることができたため、持統天皇は天武天皇亡きあとに女性天皇となりました。

女性天皇はそれまでに飛鳥時代初期の「推古天皇」、中期の「皇極天皇、斉明天皇(同一人物)」のふたりのみ。日本史上では三人目の女性天皇となったのです。

父・天智天皇は「大化の改新」で大改革を行った「中大兄皇子」

持統天皇の父に当たる「天智天皇」は、それまで朝廷で大きな権力を誇った蘇我氏にクーデター「乙巳の変」を起こし、成功させた「中大兄皇子」です。乙巳の変後に年号を制定し、一番最初の年号を「大化」としました。なので、それから天智天皇が行った一連の改革を「大化の改新」といいます。

中大兄皇子が行った政策は下記の四つ。

・すべての土地も人々も天皇のものである「公地公民」
・戸籍を作り田んぼを人々に貸し与え、税金を取る「班田収授法」
・三種類の税金徴収制度「租庸調制」
・全国を60の国に分け、国の中に郡を、郡の中に里を分けた「国郡里制」

これらの政策によって国のシステムの根幹が作られたのです。

偉大な父の残した継承問題!跡を継ぐのは弟か、息子か?

先述の通り、持統天皇は、父・天智天皇の弟だった大海人皇子と結婚します。現代では三等親以内での親族間の結婚は禁止されていますが、当時は叔父との結婚は普通に行われていました。さらに、当時の皇位継承権の優先順位は天皇の息子よりも天皇の弟や配偶者の方が先だったため、弟の大海人皇子が次期天皇とほとんど決まっていたのです。

歴史を一変させ、大きな改革を行った天智天皇でしたが、ここにきて皇位の継承順位を無視して自分の息子・大友皇子を皇太子にしようとしました。そこで大海人皇子は争いを避けるために出家して奈良県南部の吉野へ出て行くことに。出家してしまえば、それまでの地位に関係なく俗世を捨てて政治に関わることもありません。

晴れて大海人皇子は権力争いから遠ざかったのですが…、大海人皇子に多くの近臣たちがついて行ってしまったために、吉野に一大勢力が集まることになってしまうのです。

天智天皇の跡目争いで古代日本最大の内乱「壬申の乱」開戦

表面上では大海人皇子が譲る形で大友皇子との譲位問題を平和的に解決したかのように見せていました。しかし、両者の対立が解けることなく、いよいよ天智天皇が病により崩御してしまいます。そうして、672年に「壬申の乱」が起こりました。

大海人皇子が吉野へ隠居しているとき、持統天皇(もちろん当時は天皇ではなく「鸕野讃良(うのささら)」という名前です)は、大海人皇子との息子・草壁皇子とともに吉野にいたとされています。『日本書紀』には「大海人皇子は鸕野讃良(持統天皇)と共謀していた」という記述があるため、持統天皇は積極的に壬申の乱に関わっていたのかもしれません。

壬申の乱は大海人皇子の勝利に終わり、負けてしまった大友皇子は自害してしまいます。そうして都に戻った大海人皇子は即位して「天武天皇」となったのでした。

2.天武天皇即位で持統天皇は皇后に。飛鳥時代の更なる発展

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壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位して「天武天皇」となり、天武天皇の妻たちになかでもっとも身分の高かった持統天皇が皇后となりました。

ところで、天武天皇は後継者争いでの戦争を経験しましたから、次の天皇継承についてはしっかり決めておきたいところですよね。天武天皇には持統天皇の他にも夫人がおり、息子が四人、さらに存命の男兄弟が二人いました。全員、皇位を継ぐ資格を持っているので、万が一、六人で争うことなんてことになったらたいへんですよね。

そこで、天武天皇は皇后の持統天皇と六人の皇子たちとの間で「吉野の盟約」を結びました。「吉野の盟約」で皇子たちに争わずに助け合うよう誓わせたのです。

都を大津から奈良へ!飛鳥浄御原宮造営

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天武天皇が即位する際、都を近江国(滋賀県)の近江大津宮から、現在の奈良県明日香村にあたる飛鳥浄御原宮を造営、遷都しました。天武天皇から持統天皇の治世を合わせて約20年の間は飛鳥浄御原宮が都となり、日本最初の法律はここで発布されたことから「飛鳥浄御原令」といいます。

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『古事記』と『日本書紀』の製作はここから!天武天皇の大事業

古代日本の歴史を紐解くために欠かせない『古事記』と『日本書紀』ですが、両書が編纂されたのはこのころ。実は、先代の天智天皇が中大兄皇子だったころに蘇我氏に対して乙巳の変を起こした際に、蘇我氏が自宅に放火したことが原因で『天皇記』や『国記』といった歴史書が消失してしまっていたのです。そのため、日本には失われた歴史書に代わるものが必要になり、天武天皇が編纂を命じたのでした。

ざっくり解説『古事記』と『日本書紀』の違い

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ついでなので、『古事記』と『日本書紀』についてざっくり解説しておきましょう。

まずは『古事記』。こちらは、天武天皇に抜擢された「稗田阿礼(ひえだのあれ)」らは『古事記』を作るための下準備を始めます。その後、天武天皇の崩御後に元明天皇が「太安万侶(おおのやすまろ)」に命じて712年に『古事記』ができあがりました。『古事記』は神代から第33代推古天皇までを書いた全三巻、編纂期間はたったの四ヶ月!三巻とはいえ、日本の歴史に関するものですから、この短期間で仕上げるのに相当苦労したことでしょう。

一方で、天武天皇は兄弟の川島皇子をはじめとした六人の皇族と六人の官僚の計12人に『日本書紀』の編纂を命令します。こちらは乙巳の変で焼けた歴史書や朝廷外の歴史書などを元に編纂されました。こちらは全30巻の大長編で、神代から第41代持統天皇まで。製作期間は39年にもおよび、720年に完成しました。

アジア世界の最先端!「唐」を倣った国づくり

当時のアジアの中心国家となっていたのは大陸の「唐」。技術も法律も最先端でした。日本の朝廷は遣唐使を送って唐から技術や学問など、さまざまなものを教えてもらいます。そういったもののなかには「律令(法律)」や「条坊制(街を碁盤目状にする都市計画)」など、今後の国づくりに関わる重要なものがありました。

夫・天武天皇の崩御に重なる不幸と持統天皇の即位

天武天皇は唐から持ち帰られた律令や条坊制をもとに法律の編纂や、新たなる都として「藤原京」の建設に着手していました。しかし、そのいずれの完成も待たずに天武天皇は病気にかかって崩御してしまいます。

当時の葬儀儀礼に「もがり」というものがあり、棺に納めた遺体が白骨化するまでの期間、死者との別れを惜しんだりしながら、死を受け止めるというものです。天武天皇のもがりは長く、二年に及びました。さらに悪いことに、この二年の間に持統天皇の息子であり、皇太子だった草壁皇子が若くして亡くなってしまいます。

草壁皇子に続いて皇太子となったのは、草壁皇子の息子で、持統天皇の孫にあたる軽皇子です。しかし、軽皇子は天皇として立つには幼すぎるため、軽皇子が成長するまでの間、持統天皇が天皇として即位することになったのでした。

3.持統天皇即位!悲しみを乗り越え、夫の事業を完成

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天武天皇、草壁皇子を見送ることになってしまった持統天皇。しかし、時間は待ってはくれません。前述した通り、天武天皇は大きな事業の完成を見ないままに崩御してしまったのです。持統天皇はそれらを引継ぎ、完成へ向けて乗り出します。

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日本初の法律誕生!「飛鳥浄御原令」

持統天皇が引き継いだ事業のなかでも大きなものに日本初の法律「飛鳥浄御原令」の制定があります。正確には、制定されたのは持統天皇即位の一年前。天武天皇のもがりの最中ですね。

「飛鳥浄御原令」は唐の律令に倣った日本最初の体系的な律令…なのですが、「律(刑法)」を唐のものそのままでした。そのため、内容が日本の実状に合わないところも多くあったのです。これは草壁皇子の急死による朝廷の動揺を抑えつつ、天武天皇の遺志を継承していることを示すために、予定を前倒ししたためだと考えられています。

ただし、その後も律令の編纂は続いていき、のちに軽皇子が即位して文武天皇となったときに発布された「大宝律令」へと繋がるのです。

碁盤目状の都市計画「条坊制」の都・藤原京の造営

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現代の京都の街並みも碁盤目だと言われますね。実は、その原型がすでに飛鳥時代に日本に渡っていたのです。この碁盤目状の都市計画を「条坊制」といいます。

条坊制は中国の儒教の経典『周礼』の思想に基づきつつ、さらに風水の四神相応の思想も取り入れて、宮から伸びる四つの大通りには玄武、青龍、朱雀、白虎の名前がつきました。これは後の平城京などでも見られ、四神の守護を得るための配置です。

条坊制を取り入れた藤原京は飛鳥浄御原宮の北西部、現在の奈良県橿原市のあたりに建設されました。その規模は広大で、古代最大の都市だったとされています。

史上三番目の女性天皇にして、日本初の太上天皇

皇太子・軽皇子が15歳のとき、持統天皇はかねてよりの計画通り、軽皇子に譲位して天皇を引退します。持統天皇は日本史上三番目の女性天皇でしたが、その上で存命中に譲位した史上二番目の天皇であり、そして史上初の太上天皇(上皇)となりました。

引退?いいえ、まだやれます!孫とともに「大宝律令」の制定

しかし、ここで完全に政治から手を引かなかったのが持統上皇。持統上皇は孫の文武天皇(軽皇子)とともに政治に参加し、日本初の本格的な律令「大宝律令」の制定に関わったとされています。

先述の通り、持統上皇引き継いだ「飛鳥浄御原令」は不完全なものだったため、「大宝律令」で不足しているところを補った完璧な日本の法律を作り上げたのです。「大宝律令」は朝廷の官庁の部署を定めたものから、僧侶たちを統制する規定など、行政法から民法までの多岐に渡りました。

偉大な父と夫に負けない強い女性天皇「持統天皇」

「大化の改新」を行った天智天皇の娘であり、古代日本最大の「壬申の乱」を乗り越え、日本発の法律を作ろうとした天武天皇の皇后だった持統天皇。波乱に巻き込まれながらも夫とともに壬申の乱を勝利し、皇后として天武天皇を助けたとされています。天武天皇が志半ばで倒れたあとは孫の軽皇子(文武天皇)が成長するまでの間に即位し、日本史上三番目の女性天皇となりました。そうして、天武天皇の事業を受け継ぎ「飛鳥浄御原令」制定や「藤原京」の造営していきます。文武天皇即位後も、持統天皇は隠居することなく太上天皇(上皇)として政務に携わり続けた強く精力的な女性でした。

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日本史飛鳥時代

3分で簡単「持統天皇」日本史上三人目の女性天皇で百人一首の歌人?夫の跡を引き継いだ女帝を歴史オタクがわかりやすく解説

『古事記』と『日本書紀』の製作はここから!天武天皇の大事業

古代日本の歴史を紐解くために欠かせない『古事記』と『日本書紀』ですが、両書が編纂されたのはこのころ。実は、先代の天智天皇が中大兄皇子だったころに蘇我氏に対して乙巳の変を起こした際に、蘇我氏が自宅に放火したことが原因で『天皇記』や『国記』といった歴史書が消失してしまっていたのです。そのため、日本には失われた歴史書に代わるものが必要になり、天武天皇が編纂を命じたのでした。

ざっくり解説『古事記』と『日本書紀』の違い

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ついでなので、『古事記』と『日本書紀』についてざっくり解説しておきましょう。

まずは『古事記』。こちらは、天武天皇に抜擢された「稗田阿礼(ひえだのあれ)」らは『古事記』を作るための下準備を始めます。その後、天武天皇の崩御後に元明天皇が「太安万侶(おおのやすまろ)」に命じて712年に『古事記』ができあがりました。『古事記』は神代から第33代推古天皇までを書いた全三巻、編纂期間はたったの四ヶ月!三巻とはいえ、日本の歴史に関するものですから、この短期間で仕上げるのに相当苦労したことでしょう。

一方で、天武天皇は兄弟の川島皇子をはじめとした六人の皇族と六人の官僚の計12人に『日本書紀』の編纂を命令します。こちらは乙巳の変で焼けた歴史書や朝廷外の歴史書などを元に編纂されました。こちらは全30巻の大長編で、神代から第41代持統天皇まで。製作期間は39年にもおよび、720年に完成しました。

アジア世界の最先端!「唐」を倣った国づくり

当時のアジアの中心国家となっていたのは大陸の「唐」。技術も法律も最先端でした。日本の朝廷は遣唐使を送って唐から技術や学問など、さまざまなものを教えてもらいます。そういったもののなかには「律令(法律)」や「条坊制(街を碁盤目状にする都市計画)」など、今後の国づくりに関わる重要なものがありました。

夫・天武天皇の崩御に重なる不幸と持統天皇の即位

天武天皇は唐から持ち帰られた律令や条坊制をもとに法律の編纂や、新たなる都として「藤原京」の建設に着手していました。しかし、そのいずれの完成も待たずに天武天皇は病気にかかって崩御してしまいます。

当時の葬儀儀礼に「もがり」というものがあり、棺に納めた遺体が白骨化するまでの期間、死者との別れを惜しんだりしながら、死を受け止めるというものです。天武天皇のもがりは長く、二年に及びました。さらに悪いことに、この二年の間に持統天皇の息子であり、皇太子だった草壁皇子が若くして亡くなってしまいます。

草壁皇子に続いて皇太子となったのは、草壁皇子の息子で、持統天皇の孫にあたる軽皇子です。しかし、軽皇子は天皇として立つには幼すぎるため、軽皇子が成長するまでの間、持統天皇が天皇として即位することになったのでした。

3.持統天皇即位!悲しみを乗り越え、夫の事業を完成

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Katsukawa Shunsho – Toyo Keizai – https://toyokeizai.net/articles/-/565677 , Atomi University Library Collection., パブリック・ドメイン, リンクによる

天武天皇、草壁皇子を見送ることになってしまった持統天皇。しかし、時間は待ってはくれません。前述した通り、天武天皇は大きな事業の完成を見ないままに崩御してしまったのです。持統天皇はそれらを引継ぎ、完成へ向けて乗り出します。

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