ゴルバチョフのもとソ連で進められた一連の改革がペレストロイカ。閉鎖的なソ連でさまざまなことが公開されるようになった。東西冷戦の時期だったこともあり、ソ連が変わることに期待した人たちも多かったでしょう。

しかし、最終的にソ連は崩壊。ペレストロイカは完了することなく終わった。そもそもペレストロイカとは何だったのか。その内容やその後の影響を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカに並ぶ大国であるロシアにも興味があり、気になることがあったら調べている。今回はソ連末期に進められた改革ペレストロイカについて調べてみた。

ペレストロイカとはソ連の政治体制の改革

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ペレストロイカとは、ソ連末期に行われた政治体制の改革のこと。ゴルバチョフのもとで進められました。秘密主義的なソ連の実体が明らかになったこともあり、世界からも注目されました。

ペレストロイカが進められた時期

ゴルバチョフがペレストロイカを開始したのは1980年代後半。クーデターによりゴルバチョフ一家が幽閉されるまで続きました。その後、ソ連共産党の活動は停止され、ロシアはソ連から離脱します。結果、中軸国が離脱したことでソ連は解体。ペレストロイカは志半ばで中断されました。

ペレストロイカを推進したのはゴルバチョフ。ソ連の最後の指導者であり、ソ連唯一の大統領でもある人物です。ソ連の歴代の指導者のなかでは、珍しく進歩的な考えを持っており、ペレストロイカを通じてさまざまな改革を行いました。

ペレストロイカの意味

ペレストロイカとは「立て直し」という意味のロシア語です。ロシア革命のあと、ソ連は強力な一党独裁体制が続いてきました。それにより一部に利権が集中する、汚職が横行するなど、政治体制に限界をきたしていました。ソ連の経済力も停滞していたこともあり、ゴルバチョフは政治体制の再構築を決意します。

ペレストロイカはソ連そのものを否定するものではありません。ソ連の体制の範囲内で政治や経済を立て直そうとするものです。結果的にソ連は崩壊する流れになりましたが、ゴルバチョフがそれを望んでいたのかというと、決してそうではありません。

大々的に宣言されたペレストロイカ

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ペレストロイカはソ連のみならず世界中に広く知られることになりました。その理由は大々的に宣言されたから。1987年、ロシア革命の70周年を祝う軍事パレードが行われましたが、そのとき立て看板やテレビ特集などでアピールされました。

3つの標語のひとつであるペレストロイカ

ペレストロイカはゴルバチョフの肝となる改革ですが、実は3つの軸があります。ひとつが、再構築を意味するペレストロイカ。もうひとつが公開性を意味するグラスノスチ、そして加速化を意味するウスコレーニエです。ペレストロイカはこれらの改革の中核を担うものでした。

崩壊する前のロシアは閉塞感や停滞感が強く感じられていました。ゴルバチョフが最初に訴えたのが「経済の加速化」。スピード感を持って経済を立て直すことです。さらには、社会主義政策のもと上昇意欲を失った国民の心の活発化も含まれました。

\次のページで「ペレストロイカと並んで重視されたのはグラスノスチ」を解説!/

ペレストロイカと並んで重視されたのはグラスノスチ

ウスコレーニエは、改革の過程で存在感を失っていきました。一方、ペレストロイカと並んで重視されたのがグラスノスチです。そのきっかけは1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故。大惨事であったにも関わらず、国政のトップのゴルバチョフに情報が全く入ってこず、対応が遅れてしまいました。

ソ連は集団や組織が分断されており、情報の共有がスムーズに進まないことが、弊害になっていました。そこでゴルバチョフは、軍部も含めて情報を公開。メディアの報道や言論の自由を保障しました。その結果、共産党幹部の贅沢な生活が暴露され、ソ連の崩壊が加速してしまいます。

社会主義の限界から生まれたペレストロイカ

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ゴルバチョフはソ連の社会主義体制を否定することを前提に、ペレストロイカを始めたわけではありません。社会主義の体制を維持しつつ、その範囲内で改革を志向しました。

そもそも社会主義とは?

社会主義は、資本主義に限界があることを認め、その発展形として生まれた経済の仕組み。資本主義の場合、個人が自由に資本を持てます。一方、社会主義では国や公的機関が所有しました。会社についても、資本主義では自由に競争可能。社会主義では国の計画に従って運営するのみです。

資本主義は、個人が自由に儲けることができますが、貧富の差も発生。社会主義は、国がすべてをコントロールしているので、貧富の差は生まれません。一見すると理想的ではありますが、競争がないぶん経済的に発展しません。ソ連はそんな問題に直面していました。

ソ連では富の集中が問題化

本来はすべての人が平等に生活できることが社会主義の大前提です。しかし、ソ連共産党の幹部は、あらゆるものを「公的」に所有することで、富を蓄えていました。そのため、幹部たちは国民が貧困に苦しむなか贅沢な暮らしを満喫していたのです。

社会主義の場合、個人が権威を持つことはありえません。しかし実際は、一部の個人に権威が集中。そんな状況が長期化すると、ソ連は崩壊すると考えました。そこでゴルバチョフは、ソ連では本来の社会主義が実現していないと考え、ペレストロイカを打ち出しました。

ゴルバチョフがペレストロイカを実施した背景

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ゴルバチョフは、スタヴロポリ地方の貧しい農民の家に生まれました。家族が従事していたのが集団農場のコルホーズ。そこでの暮らしを通じて、コルホーズをはじめとする集団化政策に限界を感じていました。

\次のページで「コルホーズでの貧しい生活」を解説!/

コルホーズでの貧しい生活

コルホーズとは、ソ連の農業集団化政策の一環としてつくられた農場のこと。もうひとつ、ソフホーズというのがあるのですが、これは完全に国営。いっぽうコルホーズは制限はあるものの個人による所有が認められていました

ゴルバチョフの家族が従事していのは農業コルホーズ。それ以外にも、農業や林業のコルホーズも存在していました。この政策が打ち出されたのは1928年。第一次五ヶ年計画の軸となるものでした。この集団化政策については、当初は抵抗があったものの、ソ連の農業体制として定着しました。

コルホーズの限界を学んだ幼少期

コルホーズは国に完全に管理されたもの。苦労して生産しても個人が報われることはありませんでした。さらには生活は貧しいまま。家族の苦労を目の当たりにしてきたこともあり、ゴルバチョフは指導者になる前からコルホーズの問題を指摘していました。

労働の対価がなければ、いくら最低限の暮らしができても、やる気が出るわけがありません。ゴルバチョフの家族は、コルホーズの現状に疑問を持つ者もおり、祖父はスターリンの時代に反体制的行動の嫌疑をかけられ、投獄されました。

ペレストロイカの一環として信仰や思想の自由も広げる

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ロシア革命のあと力を持っていたロシア正教会を粛清。資産や土地を凍結しました。反体制派の言論も厳しく統制され、意にそぐわない人物は流刑あるいは処刑されました。グラスノスチによりそれらが緩和されます。

ロシア正教会と和解

ゴルバチョフは1988年にロシア正教会の指導者6人と面会。ソ連の最高指導者と教会の幹部が面会したのは40年ぶりのことでした。そこでゴルバチョフはソ連による粛清行為を認め、信仰の自由を認める方針を打ち出しました。

さらに政治犯の解放も進めます。ソ連の公式発表では、政治犯は20名程度とされていました。一転、ゴルバチョフは400人を超えることを認めます。そして人権問題に対して国際的に協力するための委員会を立ち上げました。

ペレストロイカの父、アンドレイ・サハロフ

アンドレイ・サハロフはソ連の物理学者。国際的に評価される研究をする一方、ソ連国内では水素爆弾の開発に携わりました。1953年、32歳のときにソ連で初めて水素爆弾の実験に成功します。その結果、社会主義労働英雄を得て、「水素爆弾の父」と呼ばれるようになりました。

しかしサハロフは放射能汚染の影響を危惧。核実験反対派に転じて核実験の中止を進言することも増えました。さらには人権運動にも関わるようになります。しかし、ソ連のアフガニスタン侵攻を批判したことで流刑されていました。ゴルバチョフにより流刑を解かれたあとはペレストロイカを支持。「ペレストロイカの父」と呼ばれるようになりました。

ペレストロイカの中断

1991年、ゴルバチョフは、新しい連邦の条約を締結する予定でいました。それは、連邦制を謳いながら実際は中央集権制であったソ連を、ゆるやかな連合国にしようとするものです。それに反発する保守化がクーデターを決行。ペレストロイカは中断を余儀なくされました。

8月のクーデターでゴルバチョフ軟禁

ゴルバチョフは家族と一緒にクリミア半島に滞在。そのとき保守派により別荘に軟禁されました。それが8月クーデターです。首謀者はKGB議長のウラジーミル・クリュチコフなど。副大統領や首相などゴルバチョフに側近も含まれていました。

クーデターは国際的にも国内的にも支持を得られず、失敗に終わりました。しかしながら、クーデターの首謀者が側近だったこともあり、ゴルバチョフの信頼は失墜します。その結果、新連邦条約の締結は見送り。ペレストロイカを推し進めることもできなくなりました。

ソ連崩壊後のゴルバチョフの言及

1991年、ソ連は完全に解体、ゴルバチョフも辞任となりました。それにともないペレストロイカも終了。中途半端なまま終わりました。その後、ゴルバチョフは幾度か復帰を試みるものの、政治の表舞台から去ります。しかし、ペレストロイカについてたびたび言及しました。

とくに最近のプーチン大統領のウクライナ進攻では、ロシアの権威主義が高まっていることを危惧。かつてのソ連を思い出させるとしています。公開性の改革は形骸化。独立系メディアは弾圧されています。ペレストロイカの成果を守るべきであると発言しました。

ペレストロイカはロシアの民主化のロードマップ

ペレストロイカは改革としては中断されていますので、はっきりとした成果は分かりません。ソ連そして現代のロシアは、社会主義の体制をとりながら一部が過度に権威化。そんな状況を見ると、ペレストロイカは無意味なものではなかったと思わざるをえません。ペレストロイカは民主化のロードマップ。今後、ロシアがどのような展開を見せるのか、ペレットを念頭に見ていってもいいでしょう。

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ソビエト連邦ロシアロシア革命世界史

ソ連のゴルバチョフ大統領が進めた改革「ペレストロイカ」とは?内容やその後の影響を元大学教員が5分で解決

ゴルバチョフのもとソ連で進められた一連の改革がペレストロイカ。閉鎖的なソ連でさまざまなことが公開されるようになった。東西冷戦の時期だったこともあり、ソ連が変わることに期待した人たちも多かったでしょう。

しかし、最終的にソ連は崩壊。ペレストロイカは完了することなく終わった。そもそもペレストロイカとは何だったのか。その内容やその後の影響を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカに並ぶ大国であるロシアにも興味があり、気になることがあったら調べている。今回はソ連末期に進められた改革ペレストロイカについて調べてみた。

ペレストロイカとはソ連の政治体制の改革

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ペレストロイカとは、ソ連末期に行われた政治体制の改革のこと。ゴルバチョフのもとで進められました。秘密主義的なソ連の実体が明らかになったこともあり、世界からも注目されました。

ペレストロイカが進められた時期

ゴルバチョフがペレストロイカを開始したのは1980年代後半。クーデターによりゴルバチョフ一家が幽閉されるまで続きました。その後、ソ連共産党の活動は停止され、ロシアはソ連から離脱します。結果、中軸国が離脱したことでソ連は解体。ペレストロイカは志半ばで中断されました。

ペレストロイカを推進したのはゴルバチョフ。ソ連の最後の指導者であり、ソ連唯一の大統領でもある人物です。ソ連の歴代の指導者のなかでは、珍しく進歩的な考えを持っており、ペレストロイカを通じてさまざまな改革を行いました。

ペレストロイカの意味

ペレストロイカとは「立て直し」という意味のロシア語です。ロシア革命のあと、ソ連は強力な一党独裁体制が続いてきました。それにより一部に利権が集中する、汚職が横行するなど、政治体制に限界をきたしていました。ソ連の経済力も停滞していたこともあり、ゴルバチョフは政治体制の再構築を決意します。

ペレストロイカはソ連そのものを否定するものではありません。ソ連の体制の範囲内で政治や経済を立て直そうとするものです。結果的にソ連は崩壊する流れになりましたが、ゴルバチョフがそれを望んでいたのかというと、決してそうではありません。

大々的に宣言されたペレストロイカ

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ペレストロイカはソ連のみならず世界中に広く知られることになりました。その理由は大々的に宣言されたから。1987年、ロシア革命の70周年を祝う軍事パレードが行われましたが、そのとき立て看板やテレビ特集などでアピールされました。

3つの標語のひとつであるペレストロイカ

ペレストロイカはゴルバチョフの肝となる改革ですが、実は3つの軸があります。ひとつが、再構築を意味するペレストロイカ。もうひとつが公開性を意味するグラスノスチ、そして加速化を意味するウスコレーニエです。ペレストロイカはこれらの改革の中核を担うものでした。

崩壊する前のロシアは閉塞感や停滞感が強く感じられていました。ゴルバチョフが最初に訴えたのが「経済の加速化」。スピード感を持って経済を立て直すことです。さらには、社会主義政策のもと上昇意欲を失った国民の心の活発化も含まれました。

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