今回は「ファーブル昆虫記」で有名なアンリ・ファーブルがテーマです。

昆虫の研究をまとめて全10巻からなる昆虫記を描いたファーブルは、フランス出身の博物学者です。昆虫記を読んだことがある人もいるでしょう。実はこのファーブルはノーベル賞の候補にもなったことがありますが、それはいったい何賞だったと思う?

そんなファーブルの生涯や昆虫記について紹介する。担当は化学系科学館のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系の科学館職員。理科教育にかかわる仕事がしたかったから、科学館の仕事が大好き。図書館も好きで、図書館司書の資格を持っている。

ファーブルの生涯を年表でチェック!

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http://www.adapt.snes.edu/produits/fabrejh.htm also https://biodiversitylibrary.org/page/6199673, パブリック・ドメイン, リンクによる

昆虫記で知られるアンリ・ファーブル。ファーブルとはどんな人物だったのでしょうか。まずはファーブルの生涯を年表でざっくり確認していきましょう。

1923年 南フランスのサン・レオンで誕生
1827年 マラヴァルの祖父母宅に預けられる
1833年 聖歌隊に入り、学費免除で小学校に通う
1838年 父親が家業に失敗、ひとりで生計を立てるように
1839年 アビニョンの師範学校に首席で入学
1842年 師範学校卒業、小学校の先生に
1843年 『節足動物誌』を読んで昆虫学に興味を持つ
1847年 数学の学士号を取得
1848年 物理学の学士号を取得
1849年 コルシカ島で中学校の先生になる
1853年 アビニョンで高校の物理教師になる
1854年 博物学の学士号取得
1856年 コブツチスガリの研究でフランス学士院の実験生理学賞受賞
1866年 アカネから色素の抽出に成功
1868年 レジオン・ド・ヌール勲章受章
1879年 『ファーブル昆虫記』の1巻出版
1907年 『ファーブル昆虫記』10巻出版
1915年 ファーブル死去

貧しい家庭に生まれ育ったファーブルは、10代から自分で生計を立てて暮らしていました。それでも独学で勉強を続けたファーブルは、首席で師範学校に入学し、卒業後は小学校の教師となりました。

ファブルが科学の本を執筆するようになったのは、教師の仕事を辞めてからです。最初は科学全般を本にまとめたファーブルですが、やがて今まで研究してきた昆虫の記録を本にまとめるようになりました。そして『ファーブル昆虫記』を出版したのは50代半ばになった頃で、その後は約30年かけて昆虫記を10巻まで出版したのです。

ファーブルってどんな人?その生涯を紹介

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それではファーブルの生涯を詳しく解説していきます。

誕生から幼少期

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ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは1823年12月21日に、南フランスのにあるサン・レオンという貧しい村で生まれました。弟フレデリックの誕生をきっかけに3歳から山村で暮らす祖父母の元で育てられたファーブル少年は、昆虫と触れ合いながら幼少期を過ごしたのです。

そして学校に入るため7歳になった頃、サン・レオンに戻って両親・弟と共に暮らすようになりました。学校に通うようになったファーブルは鳥や花、木、そして虫にも名前があるという事を知り、感動したより生物に興味を持つようになったそうです。

貧しかった少年時代

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中学校に進学したファーブルは優秀な成績を修めます。しかし家業の喫茶店がうまくいかず、ファーブルはレモン売りなどの仕事をしながら自分で食い扶持を稼ぐようになりました。一家離散となり学校を中退することになったファーブルですが、それでも独学で勉強を続けたのです。時には食事を我慢して本を買っていたと言います。

そして1839年、師範学校に首位の給費生として入学しました。さらに1842年に首席で学校を卒業したのです。小学校上級教員免状を取得したファーブルは教師となり、給料は安いながらも楽しい授業を行う先生として人気がありました。時には課外授業中に子供以上に夢中になってハチを探していたと言われています。一方、学校で優秀な成績を修めたファーブルは卒業後も独学で科学を学び続けました。

\次のページで「ファーブルの青年期」を解説!/

ファーブルの青年期

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数学と物理学の教師になったファーブルは1844年、同じ学校の教師であったマリー・ヴィヤールという女性と結婚します。そしてその後、独学で学んだ結果数学と物理の学士号を取得しました。ここでファーブルの逸話をひとつ。

とある青年から受験のために数学を教えてくれと頼まれたファーブル。しかしそれはファーブルが学んできた数学よりもはるかに難しいものでした。そこでファーブルは同僚の本をこっそり借りて勉強し、数日後には青年に教えてやることができるようになっていたのです。ファーブルは青年に教えるだけでなく、難しい問題は一緒に考え学びました。

まじめで勉強熱心なファーブルの人間性がよくわかるエピソードですね。さて、その後、コルシカ島(地中海に浮かぶフランス領の島)の高等中学校で物理の教師になったファーブル。ここでファーブルはオオヒョウタンゴミムシという虫に興味を持ち、観察をしていました。

この頃、ファーブルはとある人物に出会います。トゥールーズ大学のモカン・タンドンという学物学者です。タンドンはファーブルにカタツムリの解剖を見せてやりました。この経験でファーブルはより虫の体のつくりに興味を持ったそうです。また、タンドンはファーブルに好きな道に進むよう助言しました。そしてファーブルは1854年、トゥールーズ大学で博物学の学位を取得します。

ファーブルと昆虫研究

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1854年、ファーブルはアビニョンに戻ると師範学校で物理を教えるようになりました。同じ頃、ファーブルは狩人バチという、巣に虫を連れて帰って幼虫のエサにするというハチの論文を目にします。興味深いのは、タマシツチスガリというハチはタマムシのみを捕まえて幼虫に与えますが、このタマムシの死体が腐らないという事です。この論文を書いたデュフール博士は、ハチの持つ毒にものを腐らせない防腐作用があると主張していました。

この説が正しいか気になったファーブルは、タマシツチスガリと同じジガバチの一種、コブツチスガリが捕まえたゾウムシを観察します。まるで生きているかのようなゾウムシを観察し、コブツチスガリに捕まった虫は麻痺しているだけなことを発見しました。さらにファーブルは、ハチが虫を捕まえるところを観察し、コブツチスガリが運動神経の集まったところを刺すことで神経を麻痺させることを発見したのです。

名前が知られ始めたファーブル

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ファーブルはコブツチスガリの研究を発表しました。そしてファーブルは自説を否定されることとなったデュフール博士から直々に、研究成果を称賛されたのです。少しずつ名前が知られるようになったファーブル。さてここで、もうひとつファーブルの有名な逸話をご紹介します。

カイコの病気を調べる医学者がファーブルのもとにやってきました。カイコの繭が欲しいと言う彼の為にファーブルは繭を用意してやりました。しかし彼は繭の中にさなぎが入っていることも知らず、せっかくもらってきてくれた繭をすぐにポケットにしまったのです。

さらに彼はファーブルに彼の酒蔵を見せてほしいと言いました。フランスの家なら大抵ワインをしまう酒蔵があるからです。ファーブルが見せた酒蔵は、たったワイン1本が置かれた台所の隅の椅子でした。「あれだけですか」という医学者にファーブルはとても馬鹿にされた気になりました。その後彼はカイコを腐らせる病気の原因を突き止め、さらに狂犬病のワクチンづくりにも可成功しました。

ファーブルの伝記を読むと大抵出てくるこのエピソード。この医学者はパスツールです。ファーブルとパスツールが手を組めばさらに有意義な研究ができたかもしれず、ふたりが友人になれなかったのは残念としか言いようがありません。

ファーブル、成功と挫折

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教授となり学者として研究をしたいファーブルですが、それでは生活していくことができません。そこでファーブルはお金稼ぐために、セイヨウアカネという植物からアリザリンという染料を取り出す研究を始めます。

そんなファーブルを文部大臣となった知人、ビクトール・デュリュイが訪ねてきました。染料で汚れたファーブルの手を「働き者の勲章」と称し、昆虫研究を讃えてレジオン・ドヌール勲章を与えることにしました。そして研究を始めて10年以上たち、ついにアリザリンの効率的な抽出方法の開発に成功します。

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Calvero. - Own work using: ChemDraw., パブリック・ドメイン, リンクによる

アザリン
・セイヨウアカネの根から採取される赤色の染料
・化合物名  1,2-ジヒドロキシアントラキノン
・1868年にドイルで合成方法が開発された
 天然に比べ合成のアザリンでは、半分の費用で製造することができる

しかしいい事ばかりではありません。1868年、ドイツでアザリンの人工合成が成功したのです。これによってファーブルの財産を築く計画は失敗、大学教授になることはあきらめるしかありませんでした。

さらにファーブルは夜間学校で女性にも科学を教えていましたが、まだ女性に学問が認められていなかったためファーブルは周囲から白い目で見られることに。そしてファーブルの後ろ盾であったデュリュイも大臣の椅子から引きずり降ろされてしまいました。

ファーブルと昆虫記

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災難が続いたファーブルは心機一転、学校をやめオランジュという町で教科書や参考書の執筆の仕事を始めます。しかし戦争の影響でお金が入りません。それでも懸命に生きる昆虫から元気をもらうファーブルなのでした。そしてこの頃ついに、ファーブルは出版社に昆虫の本を書きたいと相談したのです。

出版社の社長はファーブルの情熱を理解し、昆虫記を出版することになりました。そして1879年、ついにファーブル昆虫記の1巻が発売され、それからは3年に1冊のペースで出版されていきます。なかなか理解されなかったファーブル昆虫記ですが、劇作家のエドモン・ロスタン、『青い鳥』の作者モーリス・メーテルリンクに評価されました。一方、この頃ファーブルは妻のマリーを亡くしました。妻を失ったファーブルは、2年後に40歳も年下のジョセフィーヌという女性と再婚します。ジョセフィーヌはファーブルの研究に理解を示す良い妻だったそうです。

晩年のファーブル

1907年、第1巻の出版から30年近くたち10巻まで出版されました。この頃、本があまり売れず生活が苦しかったファーブル。ファーブルのファンだった医学博士のルグロはそんなファーブルの暮らしに心を痛め、ロスタンやメーテルリンクに連絡し、ファーブル昆虫記の1巻が出版された4月3日を「ファーブルの日」を制定したのです。

「ファーブルの日」をきっかけにファーブル昆虫記が注目を浴び、ファーブルはノーベル賞の候補となりました。ファーブルは昆虫記の作者としてノーベル文学賞の候補になったのです。本が売れ、また政府からも研究が評価されお金をもらうことになったファーブル。しかしそのお金は貧しい人のために寄付したそうです。そして1915年の10月11日、91歳の生涯を閉じました。

\次のページで「ファーブル昆虫記と登場する昆虫」を解説!/

ファーブル昆虫記と登場する昆虫

ファーブル昆虫記と登場する昆虫

image by Study-Z編集部

ファーブル昆虫記は第1巻が1878年の出版され、1907年までに第10巻まで出版されました。昆虫記はファーブルが研究、観察してきた昆虫の習性や実験ついてまとめたものです。ハチやセミ、チョウにカマキリと身近な昆虫が題材となっていますが、昆虫だけでなくサソリやクモなども取り上げられています。

日本でもジュニア版や文庫版、完訳版が出版されているので、ぜひ読んでみてくださいね。

ファーブル昆虫記だけではない、ファーブルの本

教師を辞めてからファーブルは、科学の面白さを伝える本をたくさん書いていました。著作は100作近くもあったそうです。『地理入門』では日本のことも取り上げています。また『自然科学物語』は空や地震、電気といった科学について登場人物が語る形式で書かれている作品です。子供が科学を学ぶのにぴったりな作品ですね。ファーブルがノーベル文学賞の候補に挙がった理由には、このような作品の影響もあったのかもしれません。

貧困にも負けない努力の人、ファーブル

自分で確かめないと気が済まない性格のファーブル。好奇心旺盛な一方、名誉や必要以上のお金を求めないファーブルは幼いころから貧しく苦しい生活を送っていましたが、研究に没頭し十分に集まったお金は貧しい人のために使っていました。

研究を通し、死んだ生き物が食べられ新しい命につながっていくところを観察していたファーブル。そんなファーブルの視線で描かれた昆虫記を、ぜひ読んでみて下さいね。

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化学理科生き物・植物生物

アンリ・ファーブルって誰?昆虫記でおなじみのファーブルを科学館職員がわかりやすく解説

今回は「ファーブル昆虫記」で有名なアンリ・ファーブルがテーマです。

昆虫の研究をまとめて全10巻からなる昆虫記を描いたファーブルは、フランス出身の博物学者です。昆虫記を読んだことがある人もいるでしょう。実はこのファーブルはノーベル賞の候補にもなったことがありますが、それはいったい何賞だったと思う?

そんなファーブルの生涯や昆虫記について紹介する。担当は化学系科学館のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系の科学館職員。理科教育にかかわる仕事がしたかったから、科学館の仕事が大好き。図書館も好きで、図書館司書の資格を持っている。

ファーブルの生涯を年表でチェック!

昆虫記で知られるアンリ・ファーブル。ファーブルとはどんな人物だったのでしょうか。まずはファーブルの生涯を年表でざっくり確認していきましょう。

1923年 南フランスのサン・レオンで誕生
1827年 マラヴァルの祖父母宅に預けられる
1833年 聖歌隊に入り、学費免除で小学校に通う
1838年 父親が家業に失敗、ひとりで生計を立てるように
1839年 アビニョンの師範学校に首席で入学
1842年 師範学校卒業、小学校の先生に
1843年 『節足動物誌』を読んで昆虫学に興味を持つ
1847年 数学の学士号を取得
1848年 物理学の学士号を取得
1849年 コルシカ島で中学校の先生になる
1853年 アビニョンで高校の物理教師になる
1854年 博物学の学士号取得
1856年 コブツチスガリの研究でフランス学士院の実験生理学賞受賞
1866年 アカネから色素の抽出に成功
1868年 レジオン・ド・ヌール勲章受章
1879年 『ファーブル昆虫記』の1巻出版
1907年 『ファーブル昆虫記』10巻出版
1915年 ファーブル死去

貧しい家庭に生まれ育ったファーブルは、10代から自分で生計を立てて暮らしていました。それでも独学で勉強を続けたファーブルは、首席で師範学校に入学し、卒業後は小学校の教師となりました。

ファブルが科学の本を執筆するようになったのは、教師の仕事を辞めてからです。最初は科学全般を本にまとめたファーブルですが、やがて今まで研究してきた昆虫の記録を本にまとめるようになりました。そして『ファーブル昆虫記』を出版したのは50代半ばになった頃で、その後は約30年かけて昆虫記を10巻まで出版したのです。

ファーブルってどんな人?その生涯を紹介

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それではファーブルの生涯を詳しく解説していきます。

誕生から幼少期

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ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは1823年12月21日に、南フランスのにあるサン・レオンという貧しい村で生まれました。弟フレデリックの誕生をきっかけに3歳から山村で暮らす祖父母の元で育てられたファーブル少年は、昆虫と触れ合いながら幼少期を過ごしたのです。

そして学校に入るため7歳になった頃、サン・レオンに戻って両親・弟と共に暮らすようになりました。学校に通うようになったファーブルは鳥や花、木、そして虫にも名前があるという事を知り、感動したより生物に興味を持つようになったそうです。

貧しかった少年時代

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中学校に進学したファーブルは優秀な成績を修めます。しかし家業の喫茶店がうまくいかず、ファーブルはレモン売りなどの仕事をしながら自分で食い扶持を稼ぐようになりました。一家離散となり学校を中退することになったファーブルですが、それでも独学で勉強を続けたのです。時には食事を我慢して本を買っていたと言います。

そして1839年、師範学校に首位の給費生として入学しました。さらに1842年に首席で学校を卒業したのです。小学校上級教員免状を取得したファーブルは教師となり、給料は安いながらも楽しい授業を行う先生として人気がありました。時には課外授業中に子供以上に夢中になってハチを探していたと言われています。一方、学校で優秀な成績を修めたファーブルは卒業後も独学で科学を学び続けました。

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