もうひとつの改革の柱、グラスノスチ
ペレストロイカの一環として行われたのがグラスノスチです。きっかけはチェルノブイリ原子力発電所事故。情報がゴルバチョフにすら届かず、情報公開の重要性が露呈しました。ソ連は、あらゆる領域で秘密主義が横行、国家のスムーズな運営を阻んでいました。そこで、言論や報道の自由による情報公開が進められました。
改革派の知識人も解放も進められます。アフガニスタン侵攻を批判して幽閉されていたアンドレイ・サハロフが釈放。上映が禁止されていた映画も公開されました。1930年代の大飢饉やスターリンの大粛清など、ロシアの負の歴史も取り上げられるようになります。西側に知られることを恐れ、徹底的に隠されていた軍事的な情報も公開。映像なども公開されました。
冷戦を集結に導いたゴルバチョフ
中距離核戦力全廃条約(INF条約)が締結されたのは1987年。アメリカとソ連のあいだで、一部の地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄が定められました。これは、特定の兵器の全廃について定めた世界で初めての条約でした。
INF条約により特定の兵器の使用が制限
ロシアが配置を進めた弾道ミサイルの射程は西ヨーロッパまで及びました。そこで兵器の全廃に関するINF条約の交渉を開始。しかしながら上手くいきませんでした。ゴルバチョフが大統領に就任したことで、INF条約の交渉は一気に進展します。
1987年、ゴルバチョフはアメリカ大統領のロナルド・レーガンと共に、INF条約に調印。ヨーロッパに配備したINFをすべて廃止すること、アジアに配備したものは半分に減らすことが決まりました。第三次世界大戦が起こることを危惧していた世界中の人々は安堵しました。
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東ヨーロッパの独立に関するゴルバチョフの態度
ゴルバチョフは東ヨーロッパで民主化運動が起こっても、かつてのハンガリー事件やチェコのプラハの春のときのように軍事的に弾圧することはないと示唆。ソ連が弱体化しており、さらにアメリカと歩み寄ったこともあって、民主化の動きが加速しました。
1989年にポーランドで円卓会議が開催され、政府と反体制勢力の対話が進められました。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国がソ連から独立。ルーマニアの共産党政権の崩壊しました。一連の独立が続いてもゴルバチョフは黙認する姿勢を貫きました。
一連の民主化の流れのクライマックスとなるのが1990年のドイツ再統一でしょう。ベルリンの壁が崩壊する前、ゴルバチョフはドイツの最高指導者に改革の遅れを指摘します。さらに、東ドイツの西ドイツへの吸収や、東ドイツへのNATO軍の進出には反対の意を示しました。しかし最終的に、西ドイツがソ連に巨額の経済支援を申し入れたことで、合意するに至りました。
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