ソ連の最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフが2022年に亡くなった。閉鎖的であったソ連を改革し、世界に開放した人物として知られている。ソ連解体後は世界中で公演活動を行い、平和の重要性を説いた。今でも歴史の流れを変えた唯一無二の政治家であると高く評価されている。

ロシアの歴史のなかでは珍しく融和主義的な思想を持っていたゴルバチョフ。その仕事や人物像、その後の評価などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国であるロシアやソ連の歴史にも興味がある。プーチン政権下のロシアは今、ウクライナ進攻により国際的に批判を浴びている。それにより再評価されているのがゴルバチョフ。気になったので調べてみた。

ミハイル・ゴルバチョフとはどんな人物?

President Ronald Reagan and Nancy Reagan with Soviet General Secretary Mikhail Gorbachev and Raisa Gorbachev.jpg
By Series: Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989 Collection: White House Photographic Collection, 1/20/1981 - 1/20/1989 - https://catalog.archives.gov/id/75855905, Public Domain, Link

正式な名前はミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ。1931年に生まれました。ソ連の最後の最高指導者としてさまざまな改革に取り組みますがソ連は解体。ゴルバチョフ自身はクーデターにより失脚しました。

コルホーズの農民の息子として生まれたゴルバチョフ

ゴルバチョフは、スタヴロポリ地方のコルホーズの農民の息子として誕生。コルホーズとは農業集団のことで、複数の農民が連合して経営する団体のこと。ロシアで独裁的に改革を進めたスターリンによる政策のひとつです。スターリンの大粛清では、おじいさんが破壊活動の疑いをかけられて投獄されました。

1941年6月、ナチス・ドイツとの独ソ戦がはじまると、ゴルバチョフのお父さんは兵にとられ、家族は働き手を失います。家族が住んでいたスタヴロポリ地方は、一時期ナチス・ドイツに占領されることも。お父さんは、戦死したという通知が来るものの無事に家族のもとに帰還しました。

成績が優秀だったゴルバチョフ

ゴルバチョフは決して裕福ではありませんでしたが成績は優秀。学校では成績優秀者として表彰されました。18歳のときに、卓越した能力がある民間人に与えられる労働赤旗勲章を授与されます。モスクワ大学の法学部には推薦により入学しました。

大学を卒業したあとゴルバチョフはソビエト連邦検察庁の国家試験を受験しますが不合格。故郷に戻って共産党の青年組織であるコムソモールで活動するようになります。そこから、農業行政官、地区書記、コムソモール第一書記、地方党委員会第一書記などを経て、党中央委員ととんとん拍子に出世しました。

ゴルバチョフは大学でその後に大きな影響を与える二人の人物に出会っています。ひとりが妻となるライサ。モスクワ大学哲学科の学生でした。もうひとりがズデネク・ムリナーシ。のちにチェコの政治家となり「プラハの春」を推進した人物です。

政治家として頭角をあらわすゴルバチョフ

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着々と政治家とし実績を積んだゴルバチョフは、1978年に党中央委農業担当書記となり、拠点をモスクワに移します。このときゴルバチョフは、自分の家族の仕事場であったコルホーズの仕組みに疑問を抱くようになりました。

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ソ連の政策に問題提起することも

ゴルバチョフは、中央委員会でコルホーズによる中央集権的な農業システムの問題について指摘。さらに、ソ連によるアフガニスタン侵攻についても疑問を持ち始めます。ただし、すべてを疑問視するわけではありませんでした。

ポーランドでソ連批判が高まったとき、政府に取り締まりを要請したときは、ソ連政府の立場を支持しました。とはいえ改革はとして頭角をあらわしたゴルバチョフは次世代のリーダーとして注目されるように。将来の自由化改革の実行者とて期待されるようになります。

ゴルバチョフに対する海外の高い評価

ゴルバチョフは海外の要人と面会する機会も持つようになります。カナダでピエール・トルドー首相と会談したときは、のちにゴルバチョフと共に改革を牽引するアレクサンドル・ヤコブレフ駐カナダ大使と出会いました。また、イギリスでマーガレット・サッチャー首相と会談したときは意気投合。一緒に仕事ができるという言葉をもらいました。

ゴルバチョフは、閉鎖的なソ連に風穴を開ける存在と、海外で高く評価されるものの、国内の保守層から警戒されました。アンドロポフ書記長がゴルバチョフを後継者に指名。しかしながら保守層の反対により選出されませんでした。保守派のチェルネンコが選出されるものの、彼は病弱。結局、ゴルバチョフが代行することが増えました。

ソ連の指導者で、スターリンやレーニンを大統領と呼ぶことはありません。実はゴルバチョフは、ロシアに大統領選を導入した人物でもあります。ソ連はゴルバチョフの時代に崩壊しますので、ソ連時代唯一の大統領となりました。

ゴルバチョフは若手の新星として党書記長に就任

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チェルネンコは亡くなりゴルバチョフが書記長に就任。54歳のことでした。チェルネンコが高齢で病弱だったこともあり、若く意欲的なゴルバチョフに国民の期待は高まりました。ゴルバチョフは就任後に人事を一新。ゴルバチョフと対立していた者や、高齢の者を解任しました。

ゴルバチョフによるペレストロイカ

ソ連の共産党による一党独裁はゴルバチョフ就任の時点で60年を超えていました。そのため権力の集中や汚職が横行。そこで、書記長に就任したあと政治体制の改革を行います。それがペレストロイカ。最初は経済の立て直しが中心でしたが、徐々に政治の民主化が図られました。

ペレストロイカの内容は主に5点。軍事支出を削減して産業に投資すること、中央集権的な生産システムを変えること、技術の開発と実用化を進めて経済活動を引き上げること、労働者の働く意欲を高めて消費を刺激すること、海外との貿易を効果的に利用することです。ゴルバチョフはソ連の社会主義体制の範囲内で改革を行いました。

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もうひとつの改革の柱、グラスノスチ

ペレストロイカの一環として行われたのがグラスノスチです。きっかけはチェルノブイリ原子力発電所事故。情報がゴルバチョフにすら届かず、情報公開の重要性が露呈しました。ソ連は、あらゆる領域で秘密主義が横行、国家のスムーズな運営を阻んでいました。そこで、言論や報道の自由による情報公開が進められました。

改革派の知識人も解放も進められます。アフガニスタン侵攻を批判して幽閉されていたアンドレイ・サハロフが釈放。上映が禁止されていた映画も公開されました。1930年代の大飢饉やスターリンの大粛清など、ロシアの負の歴史も取り上げられるようになります。西側に知られることを恐れ、徹底的に隠されていた軍事的な情報も公開。映像なども公開されました。

冷戦を集結に導いたゴルバチョフ

中距離核戦力全廃条約(INF条約)が締結されたのは1987年。アメリカとソ連のあいだで、一部の地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄が定められました。これは、特定の兵器の全廃について定めた世界で初めての条約でした。

INF条約により特定の兵器の使用が制限

ロシアが配置を進めた弾道ミサイルの射程は西ヨーロッパまで及びました。そこで兵器の全廃に関するINF条約の交渉を開始。しかしながら上手くいきませんでした。ゴルバチョフが大統領に就任したことで、INF条約の交渉は一気に進展します。

1987年、ゴルバチョフはアメリカ大統領のロナルド・レーガンと共に、INF条約に調印。ヨーロッパに配備したINFをすべて廃止すること、アジアに配備したものは半分に減らすことが決まりました。第三次世界大戦が起こることを危惧していた世界中の人々は安堵しました。

東ヨーロッパの独立に関するゴルバチョフの態度

ゴルバチョフは東ヨーロッパで民主化運動が起こっても、かつてのハンガリー事件やチェコのプラハの春のときのように軍事的に弾圧することはないと示唆。ソ連が弱体化しており、さらにアメリカと歩み寄ったこともあって、民主化の動きが加速しました。

1989年にポーランドで円卓会議が開催され、政府と反体制勢力の対話が進められました。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国がソ連から独立。ルーマニアの共産党政権の崩壊しました。一連の独立が続いてもゴルバチョフは黙認する姿勢を貫きました。

一連の民主化の流れのクライマックスとなるのが1990年のドイツ再統一でしょう。ベルリンの壁が崩壊する前、ゴルバチョフはドイツの最高指導者に改革の遅れを指摘します。さらに、東ドイツの西ドイツへの吸収や、東ドイツへのNATO軍の進出には反対の意を示しました。しかし最終的に、西ドイツがソ連に巨額の経済支援を申し入れたことで、合意するに至りました。

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ゴルバチョフはクーデターをきっかけに失脚

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冷戦を集結に導き世界の民主化を進めたとして評価をあげたゴルバチョフですが、国内では力を失っていきます。8月、家族と共にクリミア半島の別荘に滞在していたとき、保守派によるクーデターが起こって家族と共に軟禁されました。

クーデターは失敗に終わる

8月のクーデターを起こしたのはKGB議長のウラジーミル・クリュチコフなど。KGBの正式名称はソ連国家保安委員会と言い、反体制派の取り締まりや、西側諸国のスパイ活動などをする機関です。そのほか、ヤナーエフ副大統領、パヴロフ首相などのソ連運営の中心人物が関与しました。

ところがクーデターそのものについては国民や軍部の支持を得ることはできず。海外からの批判も高まりました。クーデターの首謀者たちは逮捕されます。しかし、首謀者が側近だったこともあり、ゴルバチョフ政権の信頼は失墜しました。

ゴルバチョフの大統領辞任とソ連の崩壊

ゴルバチョフはソ連共産党の活動停止の大統領令を発令。ソ連共産党書記長を辞任するとともに、共産党の資産を凍結します。同時にエストニアとラトビアの独立も認めました。クーデターから10日後、ソ連共産党の活動は停止されました。

ゴルバチョフの政治的なライバルだったのがエリツィン。彼はソ連からロシアの脱退を表明しました。中核であるロシアのいないソ連は崩壊したのと同じ。ゴルバチョフの理想は民主化を進めながらソ連を維持すること。不本意な形で辞任することになりました。

ソ連の大統領を辞任したあと、ゴルバチョフはロシアの表舞台からは身を引きます。しかしながら世界的に評価が高く、人気もあったこともあり、講演の依頼はあとを絶ちませんでした。1991年にゴルバチョフは財団を設立。会長として環境問題に取り組むようになります。1996年のロシア大統領選挙に立候補。落選しました。ロシア社会民主党の党首として活動するものの2004年に辞任。政界を引退しました。

評価が分かれるゴルバチョフの実績

ゴルバチョフが亡くなったのは2022年8月、91歳でした。ゴルバチョフが亡くなったのは奇しくもロシアがウクライナを進攻している最中。世界ではゴルバチョフは改めて評価されました。ロシア国内では、ソ連を崩壊させた張本人とみなす人が多いとのこと。評価が分かれるとはいえ、ソ連をマルクス・レーニン主義から解放させ、国民に自国の未来は自分で考えることを促したことは間違いないでしょう。

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ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ソ連最後の指導者「ゴルバチョフ」によるロシア改革とは?人物像やその後の評価など元大学教員が5分でわかりやすく解説

ソ連の政策に問題提起することも

ゴルバチョフは、中央委員会でコルホーズによる中央集権的な農業システムの問題について指摘。さらに、ソ連によるアフガニスタン侵攻についても疑問を持ち始めます。ただし、すべてを疑問視するわけではありませんでした。

ポーランドでソ連批判が高まったとき、政府に取り締まりを要請したときは、ソ連政府の立場を支持しました。とはいえ改革はとして頭角をあらわしたゴルバチョフは次世代のリーダーとして注目されるように。将来の自由化改革の実行者とて期待されるようになります。

ゴルバチョフに対する海外の高い評価

ゴルバチョフは海外の要人と面会する機会も持つようになります。カナダでピエール・トルドー首相と会談したときは、のちにゴルバチョフと共に改革を牽引するアレクサンドル・ヤコブレフ駐カナダ大使と出会いました。また、イギリスでマーガレット・サッチャー首相と会談したときは意気投合。一緒に仕事ができるという言葉をもらいました。

ゴルバチョフは、閉鎖的なソ連に風穴を開ける存在と、海外で高く評価されるものの、国内の保守層から警戒されました。アンドロポフ書記長がゴルバチョフを後継者に指名。しかしながら保守層の反対により選出されませんでした。保守派のチェルネンコが選出されるものの、彼は病弱。結局、ゴルバチョフが代行することが増えました。

ソ連の指導者で、スターリンやレーニンを大統領と呼ぶことはありません。実はゴルバチョフは、ロシアに大統領選を導入した人物でもあります。ソ連はゴルバチョフの時代に崩壊しますので、ソ連時代唯一の大統領となりました。

ゴルバチョフは若手の新星として党書記長に就任

image by PIXTA / 89300553

チェルネンコは亡くなりゴルバチョフが書記長に就任。54歳のことでした。チェルネンコが高齢で病弱だったこともあり、若く意欲的なゴルバチョフに国民の期待は高まりました。ゴルバチョフは就任後に人事を一新。ゴルバチョフと対立していた者や、高齢の者を解任しました。

ゴルバチョフによるペレストロイカ

ソ連の共産党による一党独裁はゴルバチョフ就任の時点で60年を超えていました。そのため権力の集中や汚職が横行。そこで、書記長に就任したあと政治体制の改革を行います。それがペレストロイカ。最初は経済の立て直しが中心でしたが、徐々に政治の民主化が図られました。

ペレストロイカの内容は主に5点。軍事支出を削減して産業に投資すること、中央集権的な生産システムを変えること、技術の開発と実用化を進めて経済活動を引き上げること、労働者の働く意欲を高めて消費を刺激すること、海外との貿易を効果的に利用することです。ゴルバチョフはソ連の社会主義体制の範囲内で改革を行いました。

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