
ロシアの歴史のなかでは珍しく融和主義的な思想を持っていたゴルバチョフ。その仕事や人物像、その後の評価などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- ミハイル・ゴルバチョフとはどんな人物?
- コルホーズの農民の息子として生まれたゴルバチョフ
- 成績が優秀だったゴルバチョフ
- 政治家として頭角をあらわすゴルバチョフ
- ソ連の政策に問題提起することも
- ゴルバチョフに対する海外の高い評価
- ゴルバチョフは若手の新星として党書記長に就任
- ゴルバチョフによるペレストロイカ
- もうひとつの改革の柱、グラスノスチ
- 冷戦を集結に導いたゴルバチョフ
- INF条約により特定の兵器の使用が制限
- 東ヨーロッパの独立に関するゴルバチョフの態度
- ゴルバチョフはクーデターをきっかけに失脚
- クーデターは失敗に終わる
- ゴルバチョフの大統領辞任とソ連の崩壊
- 評価が分かれるゴルバチョフの実績
この記事の目次

ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国であるロシアやソ連の歴史にも興味がある。プーチン政権下のロシアは今、ウクライナ進攻により国際的に批判を浴びている。それにより再評価されているのがゴルバチョフ。気になったので調べてみた。
ミハイル・ゴルバチョフとはどんな人物?
By Series: Reagan White House Photographs, 1/20/1981 – 1/20/1989 Collection: White House Photographic Collection, 1/20/1981 – 1/20/1989 – https://catalog.archives.gov/id/75855905, Public Domain, Link
正式な名前はミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ。1931年に生まれました。ソ連の最後の最高指導者としてさまざまな改革に取り組みますがソ連は解体。ゴルバチョフ自身はクーデターにより失脚しました。
コルホーズの農民の息子として生まれたゴルバチョフ
ゴルバチョフは、スタヴロポリ地方のコルホーズの農民の息子として誕生。コルホーズとは農業集団のことで、複数の農民が連合して経営する団体のこと。ロシアで独裁的に改革を進めたスターリンによる政策のひとつです。スターリンの大粛清では、おじいさんが破壊活動の疑いをかけられて投獄されました。
1941年6月、ナチス・ドイツとの独ソ戦がはじまると、ゴルバチョフのお父さんは兵にとられ、家族は働き手を失います。家族が住んでいたスタヴロポリ地方は、一時期ナチス・ドイツに占領されることも。お父さんは、戦死したという通知が来るものの無事に家族のもとに帰還しました。
成績が優秀だったゴルバチョフ
ゴルバチョフは決して裕福ではありませんでしたが成績は優秀。学校では成績優秀者として表彰されました。18歳のときに、卓越した能力がある民間人に与えられる労働赤旗勲章を授与されます。モスクワ大学の法学部には推薦により入学しました。
大学を卒業したあとゴルバチョフはソビエト連邦検察庁の国家試験を受験しますが不合格。故郷に戻って共産党の青年組織であるコムソモールで活動するようになります。そこから、農業行政官、地区書記、コムソモール第一書記、地方党委員会第一書記などを経て、党中央委員ととんとん拍子に出世しました。
ゴルバチョフは大学でその後に大きな影響を与える二人の人物に出会っています。ひとりが妻となるライサ。モスクワ大学哲学科の学生でした。もうひとりがズデネク・ムリナーシ。のちにチェコの政治家となり「プラハの春」を推進した人物です。
政治家として頭角をあらわすゴルバチョフ

着々と政治家とし実績を積んだゴルバチョフは、1978年に党中央委農業担当書記となり、拠点をモスクワに移します。このときゴルバチョフは、自分の家族の仕事場であったコルホーズの仕組みに疑問を抱くようになりました。
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