中尊寺を建立した理由について「鐘声の、地を動かすごとに、冤霊をして浄土に導かん」と述べたとのこと。冤霊とは無実の罪を受けて死んだ人の魂。奥州藤原氏にとって前九年の役は、一族が無実の罪で滅ぼされた、因縁の争乱だったのでしょう。奥州藤原氏も、安倍氏の伝統を引き継ぎ、東北地方で独自の基盤を作っていきました。
前九年の役と共に広がる末法思想
Sergeisemenov – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
前九年の役と同時代、世の中は末法思想に染まっていました。末法思想とは、現世を「とるに足らないもの」と見なして、死後の世界に希望を持つ考え方です。人々は阿弥陀さまの名を唱え、その姿を念じました。それにより極楽浄土へ往生できるという思想は、貴族たちの心もとらえました。
こちらの記事もおすすめ
5分でわかる「末法思想」いつから始まった?今も末法の世?歴史オタクがわかりやすく解説
この世にあるのは天変地異と戦乱
1052年は末法に入る年。仏の世界が遠くなり、仏さまの教えも修行も役に立たなくなると信じられていました。それを裏付けるように天変地異と戦乱が相次ぎます。貴族たちはそれを、仏の教えが消滅したことによると考えました。そして貴族たちは自分の別荘をお寺にします。
関白の藤原頼通は、父の道長から受け継いだ別荘を寺に改めて平等院と名付けました。毎日、数百人の人足が強制労働。100名以上の仏師により仏が彫られました。瓦や材木は諸国の寄進により賄われました。それでも材料が不足すると、民家の屋根板をはがして補います。
都の内外では新しい社会秩序を求める動き
仏の力にすがるものの現実は甘くありません。摂関家や皇族の屋敷を不審者がたびたび放火。強盗に襲われる事件も多発します。都の内外では、新しい社会秩序を求める動きが目立ち始めました。時代が変化するなか、次の世を担う存在として武士が台頭してきたのです。
庶民のあいだでは猿楽や田楽が大流行しました。猿楽は音楽付きの見世物小屋のようなもの。田楽は、もともと田植え作業の伴奏の音楽でした。人気に乗じて、猿楽田楽を生業にする芸人も登場。市中を狂ったように歩き回りました。
前九年の役を語るものとして絵巻物が残っています。それが「前九年合戦絵巻」。伝わっているのは二巻のみです。国立民族博物館にある巻は、逸脱している部分が多いものの、合戦の初期のころの様子がよく分かります。「前九年合戦絵巻」は、13世紀半ばごろ、鎌倉時代に成立したとされる作品。古風な作風が特徴的です。
前九年の役は中央集権化の始まり
平安時代の終わりまでの日本の統治体制は多様でした。いわゆる自治区のようなところが存在していたのです。ただ、それは同時に、いつ反乱が起こってもおかしくない緊張を感じさせるものでした。そこで朝廷は、力ずくて中央集権化していったのでしょう。東北には独自の統治体制があり、その最後の権力者だったのが安倍氏。その集団を滅ぼし、日本の中央集権化を加速させたのが、前九年の役だったのかもしれませんね。