阿久利川事件から戦闘開始
源頼義が阿久利川近くに泊まった時、お付きの藤原光貞らが襲われました。頼義はその犯人を安倍頼時の長男である貞任によるものと断言。それに対して安倍頼時は、息子の無実を主張します。そこで源頼義のあいだで戦闘が起こりました。
これは安倍頼時による「乱」と言えるのでしょうか。ややこじつけ感があります。安倍頼時は5年のあいだ源頼義に忠誠を尽くしてきました。身をゆだねて帰服した安倍氏が、このタイミングで反乱する必要はありません。そこから阿久利川事件は源頼義によるでっちあげとも言われています。
源頼義は、蝦夷をひどく蔑んでおりい、「養蚕を知らない愚民」と馬鹿にしていました。そのため、どうにかして安倍氏を成敗したいと思っていました。しかし安倍氏の戦略は平和外交。何もないまま任務が終わろうとしていました。そこで、とにかく武勇を立てたかった源頼義は、出羽の俘囚である清原家に応援を依頼。わざと戦闘を起こしたという説もあります。
治安が悪化する最中に起こった前九年の役
平安中期の終わりから末期にかけて、徒党を組んで朝廷に直訴したり寺同士で争ったりと、都では僧の乱暴狼藉が相次いでいました。興福寺の僧による東大寺の破壊、延暦寺の僧による園城寺の焼き打ちの際も、貴族たちには無力。武士の手を借りて乗り切っていました。
治安を収めるために武士団の台頭
この時期に台頭したのが武士。武士という字は奈良時代にもあり、平安時代には武者(むしゃ)もしくは兵(つわもの)と呼ばれていました。主な任務は宮中の護衛。のちの武士とは意味合いが異なります。ただ、武力を使うという点は共通していました。
地方では反乱が多発、盗賊が暴れ回っていました。自分の荘園や財産を守るために諸国の豪族たちは自ら武士化。あるいは、武士団を雇うようになりました。藤原摂関家によって権力から締め出された源氏や平氏は、皇族の系統であるものの都落ちし、豪族と結びついて武士化しました。
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名門武士団、平氏・源氏の台頭
名門貴族の流れを組む源氏や平氏を党首とすることは、豪族たちにとっても名誉なこと。喜んで迎え入れました。一方、中央の貴族たちは社会崩壊の危機を前にしながら、政治能力はまるでなし。日夜、歌、管弦などの風流な行事に明け暮れていました。
地方の豪族たちは武力を持っても、中央貴族や朝廷とのつながりを求めます。自分たちのブランド力を高めることがその理由。中央で冷遇されていた貴族たちは積極的に武士の党首に。藤原氏から締め出されると自ら地方に下りました。
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