前九年の役とは、平安時代後期に今の東北地方陸奥国で起こった戦乱。そこに至るまでの経緯は長く複雑です。1051年に源頼義が奥州征伐に向かい、豪族安倍氏が1062年に滅亡するまでが約12年。そこから、「奥州12年合戦」とも呼ばれていた。

前九年の役はどうして起こったのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、奥州藤原氏のルーツである安倍氏が滅ぼされるまでの前九年の役についてまとめてみた。

前九年の役とは「外国」との戦い

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前九年の役が「乱」と呼ばれず、「役」(えき)と呼ばれることには、大きな意味があります。「乱」は国内の戦い、「役」は外国との戦いのこと。つまり当時の東北地方は朝廷から見ると外国に等しい存在でした。

もともと蝦夷の地だった陸奥

陸奥は古来、蝦夷と呼ばれる人々が住んでいました。朝廷は、金と馬を産出するこの肥沃な土地を、喉から手が出るほど欲していました。そこで何度も遠征。しかしながら、蝦夷は簡単には屈しませんでした。朝廷の執拗な遠征の末、蝦夷は大和朝廷の臣下に下ります。実際の統治は蝦夷に委ねるという条件つきでした。

朝廷は陸奥の蝦夷王国を征服したと解釈。一方、蝦夷は今までの権利は守ったと捉えました。大和朝廷は名誉を得て、蝦夷王国は権利を守ったと言えるでしょう。朝廷が蝦夷の族長たちに与えたのが「俘囚」(ふしゅう)という名称。それにより自治が許されたのです。

俘囚たちのあいだで高まる独立心

朝廷は岩手辺りにある陸奥国に鎮守府という城砦を置き、軍隊を常駐させました。ところが鎮守府に赴任した将軍は、陸奥で略奪行為を働きます。陸奥の国司がそれを朝廷に報告しました。そこで朝廷は鎮守府に将軍を派遣するのを中止。俘囚の長である安倍氏に統治を任せました。

安倍氏は代々陸奥の俘囚の長。陸奥の六郡を支配していました。蝦夷の古代王国は形を変えて存続します。表向きは大和朝廷に服従していました。しかし、血統的にも文化的にも、蝦夷はヤマト人に迎合しませんでした。

前九年の役の前に東北を治めた安倍氏とは

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蝦夷差別が当然だった時代に「安倍氏は朝廷に対して反乱を起こした悪者」とされてきました。安倍氏との戦いを望んだのは、安倍氏平定に向かった源頼義側であったという説もあります。前九年の役のきっかけは安倍氏の無礼な行為。それも源頼義側のでっちあげとされています。

反逆者に仕立て上げられた安倍氏

安倍氏は陸奥の俘囚の長。安倍忠頼の時代には、衣川以北の北上川をはさむ一帯、奥六郡を支配していました。今の胆沢、和賀、江刺、紫波、稗貫、岩手あたりです。孫の頼良はその勢力図を衣川以南まで拡大。大和から派遣されてきた国司の命令に従わなくなりました。

貢物も差し出さなくなった安倍氏。朝廷から派遣されてきた役人たちによる乱暴や搾取があまりにもひどく、それに反抗してのことでした。朝廷にとって俘囚は内民。日本人として位置付けていませんでした。この差別意識が、安倍氏一族を反逆者に仕立て上げたのかもしれません。

陸奥守だった藤原登任が安倍頼良を攻めたものの敗北。そこで朝廷は、坂東武士を従えていた源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命、安倍征伐に向かわせました。ところが安倍頼良は源頼義をもてなし、馬や金を贈って機嫌をとります。さらには、自分の名前が源頼義と同じ「よりよし」だと失礼にあたると配慮。頼時と改名します。

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阿久利川事件から戦闘開始

源頼義が阿久利川近くに泊まった時、お付きの藤原光貞らが襲われました。頼義はその犯人を安倍頼時の長男である貞任によるものと断言。それに対して安倍頼時は、息子の無実を主張します。そこで源頼義のあいだで戦闘が起こりました。

これは安倍頼時による「乱」と言えるのでしょうか。ややこじつけ感があります。安倍頼時は5年のあいだ源頼義に忠誠を尽くしてきました。身をゆだねて帰服した安倍氏が、このタイミングで反乱する必要はありません。そこから阿久利川事件は源頼義によるでっちあげとも言われています。

源頼義は、蝦夷をひどく蔑んでおりい、「養蚕を知らない愚民」と馬鹿にしていました。そのため、どうにかして安倍氏を成敗したいと思っていました。しかし安倍氏の戦略は平和外交。何もないまま任務が終わろうとしていました。そこで、とにかく武勇を立てたかった源頼義は、出羽の俘囚である清原家に応援を依頼。わざと戦闘を起こしたという説もあります。

治安が悪化する最中に起こった前九年の役

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平安中期の終わりから末期にかけて、徒党を組んで朝廷に直訴したり寺同士で争ったりと、都では僧の乱暴狼藉が相次いでいました。興福寺の僧による東大寺の破壊、延暦寺の僧による園城寺の焼き打ちの際も、貴族たちには無力。武士の手を借りて乗り切っていました。

治安を収めるために武士団の台頭

この時期に台頭したのが武士。武士という字は奈良時代にもあり、平安時代には武者(むしゃ)もしくは兵(つわもの)と呼ばれていました。主な任務は宮中の護衛。のちの武士とは意味合いが異なります。ただ、武力を使うという点は共通していました。

地方では反乱が多発、盗賊が暴れ回っていました。自分の荘園や財産を守るために諸国の豪族たちは自ら武士化。あるいは、武士団を雇うようになりました。藤原摂関家によって権力から締め出された源氏や平氏は、皇族の系統であるものの都落ちし、豪族と結びついて武士化しました。

名門武士団、平氏・源氏の台頭

名門貴族の流れを組む源氏や平氏を党首とすることは、豪族たちにとっても名誉なこと。喜んで迎え入れました。一方、中央の貴族たちは社会崩壊の危機を前にしながら、政治能力はまるでなし。日夜、歌、管弦などの風流な行事に明け暮れていました。

地方の豪族たちは武力を持っても、中央貴族や朝廷とのつながりを求めます。自分たちのブランド力を高めることがその理由。中央で冷遇されていた貴族たちは積極的に武士の党首に。藤原氏から締め出されると自ら地方に下りました。

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貴族たちだって、なんの手も打たずに、風流な遊びを楽しんでいるだけでは、権力を維持することできません。豪族と落ちぶれた貴族は、自分の権威を拡大させるため利用しあっていたのでしょう。武士化した貴族のなかで最も成功したのが、あの有名な源氏と平氏でした。

東北征服の野望で激化した前九年の役

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Saigen Jiro - 投稿者自身による著作物, CC0, リンクによる

東国の戦乱は次第に北上。同時に源氏の野望は、東北そして陸奥国に広がっていきました。前九年の役も、後に勃発する後三年の役も、東北を征服するという野望がもたらしたもの。源氏はどんな手を使ってでも東北で戦乱を起こしたかったのでしょう。

前九年の役の背後にある陰謀

野心を秘めて東北に赴いた源頼義ですが、安倍氏の力は強大でした。そのため前九年の役は、中断しながらも長期化します。頼義は今の秋田県辺りの出羽国の俘囚である清原氏の力を借りることに。ついに安倍氏を滅ぼしました。

さらに清原氏では内紛が起こったため、源氏の独り勝ち状態になります。そして源氏は東国から東北にかけて、確固たる地位を築くに至りました。現実は源頼義が自分の野望を達成しようと引き起こした一方的な戦乱。ところが、いつのまにか「俘囚の安倍氏が反乱を起こした」と言い換えられました。

安倍氏は滅びましたが、完全に消滅したわけではありません。安倍氏の血を引いているのが同じく俘囚の藤原氏。奥州藤原氏のルーツにあたる集団です。安倍一族の無念を晴らすために、今度は藤原氏と源氏の闘いが勃発しました。

奥州藤原氏の登場

奥州藤原氏の始祖が藤原経清。その息子が清衡です。父子は、中尊寺を建立したとき、中尊寺に鐘楼を備えました。無実の汚名を着せられた安倍一族の霊を慰めるために建てられたのが中尊寺でした。

源頼義については、勝利したものの私的な戦いに過ぎないと朝廷にスルーされます。頼義のしつこい働きかけによりようやく恩賞を与えられました。部下に恩賞は一切なし。そこで頼義は、自腹を切って部下に恩賞を与えました。頼義と部下たちとの間に強い絆が生まれ、独特の主従関係が築かれました。

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中尊寺を建立した理由について「鐘声の、地を動かすごとに、冤霊をして浄土に導かん」と述べたとのこと。冤霊とは無実の罪を受けて死んだ人の魂。奥州藤原氏にとって前九年の役は、一族が無実の罪で滅ぼされた、因縁の争乱だったのでしょう。奥州藤原氏も、安倍氏の伝統を引き継ぎ、東北地方で独自の基盤を作っていきました。

前九年の役と共に広がる末法思想

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Sergeisemenov - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

前九年の役と同時代、世の中は末法思想に染まっていました。末法思想とは、現世を「とるに足らないもの」と見なして、死後の世界に希望を持つ考え方です。人々は阿弥陀さまの名を唱え、その姿を念じました。それにより極楽浄土へ往生できるという思想は、貴族たちの心もとらえました。

この世にあるのは天変地異と戦乱

1052年は末法に入る年。仏の世界が遠くなり、仏さまの教えも修行も役に立たなくなると信じられていました。それを裏付けるように天変地異と戦乱が相次ぎます。貴族たちはそれを、仏の教えが消滅したことによると考えました。そして貴族たちは自分の別荘をお寺にします。

関白の藤原頼通は、父の道長から受け継いだ別荘を寺に改めて平等院と名付けました。毎日、数百人の人足が強制労働。100名以上の仏師により仏が彫られました。瓦や材木は諸国の寄進により賄われました。それでも材料が不足すると、民家の屋根板をはがして補います。

都の内外では新しい社会秩序を求める動き

仏の力にすがるものの現実は甘くありません。摂関家や皇族の屋敷を不審者がたびたび放火。強盗に襲われる事件も多発します。都の内外では、新しい社会秩序を求める動きが目立ち始めました。時代が変化するなか、次の世を担う存在として武士が台頭してきたのです。

庶民のあいだでは猿楽や田楽が大流行しました。猿楽は音楽付きの見世物小屋のようなもの。田楽は、もともと田植え作業の伴奏の音楽でした。人気に乗じて、猿楽田楽を生業にする芸人も登場。市中を狂ったように歩き回りました。

前九年の役を語るものとして絵巻物が残っています。それが「前九年合戦絵巻」。伝わっているのは二巻のみです。国立民族博物館にある巻は、逸脱している部分が多いものの、合戦の初期のころの様子がよく分かります。「前九年合戦絵巻」は、13世紀半ばごろ、鎌倉時代に成立したとされる作品。古風な作風が特徴的です。

前九年の役は中央集権化の始まり

平安時代の終わりまでの日本の統治体制は多様でした。いわゆる自治区のようなところが存在していたのです。ただ、それは同時に、いつ反乱が起こってもおかしくない緊張を感じさせるものでした。そこで朝廷は、力ずくて中央集権化していったのでしょう。東北には独自の統治体制があり、その最後の権力者だったのが安倍氏。その集団を滅ぼし、日本の中央集権化を加速させたのが、前九年の役だったのかもしれませんね。

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平安時代日本史鎌倉時代

平安時代の東北地方の覇権争い「前九年の役」の経緯と影響について元大学教員が5分でわかりやすく解説

阿久利川事件から戦闘開始

源頼義が阿久利川近くに泊まった時、お付きの藤原光貞らが襲われました。頼義はその犯人を安倍頼時の長男である貞任によるものと断言。それに対して安倍頼時は、息子の無実を主張します。そこで源頼義のあいだで戦闘が起こりました。

これは安倍頼時による「乱」と言えるのでしょうか。ややこじつけ感があります。安倍頼時は5年のあいだ源頼義に忠誠を尽くしてきました。身をゆだねて帰服した安倍氏が、このタイミングで反乱する必要はありません。そこから阿久利川事件は源頼義によるでっちあげとも言われています。

源頼義は、蝦夷をひどく蔑んでおりい、「養蚕を知らない愚民」と馬鹿にしていました。そのため、どうにかして安倍氏を成敗したいと思っていました。しかし安倍氏の戦略は平和外交。何もないまま任務が終わろうとしていました。そこで、とにかく武勇を立てたかった源頼義は、出羽の俘囚である清原家に応援を依頼。わざと戦闘を起こしたという説もあります。

治安が悪化する最中に起こった前九年の役

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平安中期の終わりから末期にかけて、徒党を組んで朝廷に直訴したり寺同士で争ったりと、都では僧の乱暴狼藉が相次いでいました。興福寺の僧による東大寺の破壊、延暦寺の僧による園城寺の焼き打ちの際も、貴族たちには無力。武士の手を借りて乗り切っていました。

治安を収めるために武士団の台頭

この時期に台頭したのが武士。武士という字は奈良時代にもあり、平安時代には武者(むしゃ)もしくは兵(つわもの)と呼ばれていました。主な任務は宮中の護衛。のちの武士とは意味合いが異なります。ただ、武力を使うという点は共通していました。

地方では反乱が多発、盗賊が暴れ回っていました。自分の荘園や財産を守るために諸国の豪族たちは自ら武士化。あるいは、武士団を雇うようになりました。藤原摂関家によって権力から締め出された源氏や平氏は、皇族の系統であるものの都落ちし、豪族と結びついて武士化しました。

名門武士団、平氏・源氏の台頭

名門貴族の流れを組む源氏や平氏を党首とすることは、豪族たちにとっても名誉なこと。喜んで迎え入れました。一方、中央の貴族たちは社会崩壊の危機を前にしながら、政治能力はまるでなし。日夜、歌、管弦などの風流な行事に明け暮れていました。

地方の豪族たちは武力を持っても、中央貴族や朝廷とのつながりを求めます。自分たちのブランド力を高めることがその理由。中央で冷遇されていた貴族たちは積極的に武士の党首に。藤原氏から締め出されると自ら地方に下りました。

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