前九年の役はどうして起こったのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、奥州藤原氏のルーツである安倍氏が滅ぼされるまでの前九年の役についてまとめてみた。
前九年の役とは「外国」との戦い
前九年の役が「乱」と呼ばれず、「役」(えき)と呼ばれることには、大きな意味があります。「乱」は国内の戦い、「役」は外国との戦いのこと。つまり当時の東北地方は朝廷から見ると外国に等しい存在でした。
もともと蝦夷の地だった陸奥
陸奥は古来、蝦夷と呼ばれる人々が住んでいました。朝廷は、金と馬を産出するこの肥沃な土地を、喉から手が出るほど欲していました。そこで何度も遠征。しかしながら、蝦夷は簡単には屈しませんでした。朝廷の執拗な遠征の末、蝦夷は大和朝廷の臣下に下ります。実際の統治は蝦夷に委ねるという条件つきでした。
朝廷は陸奥の蝦夷王国を征服したと解釈。一方、蝦夷は今までの権利は守ったと捉えました。大和朝廷は名誉を得て、蝦夷王国は権利を守ったと言えるでしょう。朝廷が蝦夷の族長たちに与えたのが「俘囚」(ふしゅう)という名称。それにより自治が許されたのです。
俘囚たちのあいだで高まる独立心
朝廷は岩手辺りにある陸奥国に鎮守府という城砦を置き、軍隊を常駐させました。ところが鎮守府に赴任した将軍は、陸奥で略奪行為を働きます。陸奥の国司がそれを朝廷に報告しました。そこで朝廷は鎮守府に将軍を派遣するのを中止。俘囚の長である安倍氏に統治を任せました。
安倍氏は代々陸奥の俘囚の長。陸奥の六郡を支配していました。蝦夷の古代王国は形を変えて存続します。表向きは大和朝廷に服従していました。しかし、血統的にも文化的にも、蝦夷はヤマト人に迎合しませんでした。
前九年の役の前に東北を治めた安倍氏とは
蝦夷差別が当然だった時代に「安倍氏は朝廷に対して反乱を起こした悪者」とされてきました。安倍氏との戦いを望んだのは、安倍氏平定に向かった源頼義側であったという説もあります。前九年の役のきっかけは安倍氏の無礼な行為。それも源頼義側のでっちあげとされています。
反逆者に仕立て上げられた安倍氏
安倍氏は陸奥の俘囚の長。安倍忠頼の時代には、衣川以北の北上川をはさむ一帯、奥六郡を支配していました。今の胆沢、和賀、江刺、紫波、稗貫、岩手あたりです。孫の頼良はその勢力図を衣川以南まで拡大。大和から派遣されてきた国司の命令に従わなくなりました。
貢物も差し出さなくなった安倍氏。朝廷から派遣されてきた役人たちによる乱暴や搾取があまりにもひどく、それに反抗してのことでした。朝廷にとって俘囚は内民。日本人として位置付けていませんでした。この差別意識が、安倍氏一族を反逆者に仕立て上げたのかもしれません。
陸奥守だった藤原登任が安倍頼良を攻めたものの敗北。そこで朝廷は、坂東武士を従えていた源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命、安倍征伐に向かわせました。ところが安倍頼良は源頼義をもてなし、馬や金を贈って機嫌をとります。さらには、自分の名前が源頼義と同じ「よりよし」だと失礼にあたると配慮。頼時と改名します。
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