
日本初!武士のための法律「御成敗式目」
北条義時の跡を継ぎ、1224年に三代目の執権となったのは息子・北条泰時。彼は1232年に日本ではじめての武士のための武士による法律「御成敗式目」を制定します。それまでの法律は朝廷の貴族たちが作ったものだけだったのです。
御成敗式目は源頼朝以来の先例や武士社会の慣習、道徳をもとに作られました。本当に武士のための法律ですね。その中でも特に大事なのは、「将軍から賜った土地の保証」など先述した封建制度に関するものがしっかりと明文化されているところです。
ただし、御成敗式目は武家のためのものですから、武家のものたちに限って適用されます。都の貴族や荘園などは、朝廷の法律が適用されたのです。
また、鎌倉時代以降も御成敗式目は武家社会の法律の手本とされ、室町から戦国時代にいたるまでずっと有効な法律になったのでした。
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「執権」の変化?移動する権力と「得宗専制」
執権が幕府の実権を握り続けましたが、権力の持ち主は変わり続けるもの。「執権」の地位にも変化が訪れます。それは四代目執権・北条時頼が病気のため義兄の時頼に執権の座を譲ったときのこと。北条時頼は執権を引退して出家したにもかかわらず、依然として幕府の実権を握り続けたのです。いわば、五代目執権は先代・北条時頼のかいらいとなってしまったんですね。
このことから執権が本来持っていた権力が、「得宗(とくそう、北条氏嫡流の当主)」に移動しました。あらゆる権力が執権ではなく、得宗に集中したためこれを「得宗専制」といいます。
形だけの最高職「執権」と、本当の権力者「得宗」。これだけみると、かつての天皇と摂関家、あるいは天皇と院と同じような形で政治が運営されているように見えますね。
蒙古襲来!鎌倉幕府の滅亡カウントダウン
150年におよぶ執権政治の終わりは、まさかの国外からの侵略でした。このころ、大陸では遊牧民族のモンゴルを「チンギス=ハン」が率いてアジアの大半とヨーロッパの一部を含むモンゴル帝国を築きあげていたのです。
モンゴルが日本へやってきたのは、チンギス=ハンの孫・フビライ=ハンの時代。1274年と1281年の二度に渡って北九州へ襲来(元寇)したのです。鎌倉幕府は大苦戦を強いられたのち、辛くも追い返すことに成功します。ところが、元寇をもとに起こった武士たちの財政難をきっかけに不満が膨れ上がり、朝廷が再び倒幕計画を立ち上げたのです。そこに参加していたのが、のちに室町幕府を立ち上げる足利尊氏でした。鎌倉幕府最後の執権は九代目・北条高時。鎌倉に攻め入る討幕軍に破れ、一族郎党とともに自刃して執権政治の最期を迎えました。
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日本初!武士による武士のための「執権政治」
天皇が日本を統一していった古墳時代以降、長い間天皇と貴族による貴族社会が中心になっていました。それを変えたのが源頼朝から続く幕府と、武家社会です。しかし、源頼朝の死から一変して、「執権」北条家の台頭します。北条義時は頼朝の子息たちがいなくなったあとも、遠い血縁にあたる藤原頼経を呼び寄せて将軍とし、幼い将軍に代わって幕府の権力を掌握しました。こうして二番手であったはずの執権による「執権政治」がはじまったのです。執権政治下では日本初の武士のための法律「御成敗式目」が制定され、のちに続く武家社会の手本となりました。