
3.執権・北条義時の妙案「鎌倉幕府を途絶えさせないための摂家将軍と宮将軍」

源頼朝の血筋が途絶え、将軍の継承者がいなくなってしまった鎌倉幕府。しかし、ここで幕府を継続させるために二代目執権・北条義時は知恵を絞ります。
鎌倉に将軍がいなければ連れて来ればいい。そう考えた北条義時は、源頼朝と遠いながらも血縁関係のある都の摂関家の子・藤原頼経を鎌倉へ連れてきて将軍にして幕府の継続を可能にしたのです。藤原頼経は摂家の出身だったことから、次代の藤原頼嗣のふたりを「摂家将軍」と呼びます。また、頼経、頼嗣父子ののちに将軍についた皇族出身を「宮将軍」といいました。
この当時の藤原頼経は二歳。まだまだ赤ちゃんですね。当然ながら、政治なんてできません。なので、将軍の次の権力を誇る執権が代わりに政治を動かすことになります。
こうして、執権は幕府の実権を掌握し、「執権政治」の体制を整えたのでした。
実際の「執権」の権力はどのくらい?
鎌倉幕府には政治の中心となる下記の三つの役所がありました。
・御家人を取り締まる「侍所(さむらいどころ)」
・財政管理の「政所(まんどころ)」
・裁判を行う「問注所(もんちゅうじょ)」
源実朝が将軍に就任した折に、北条時政は財政管理の政所の別当(長官)に就任していました。さらに、二代目の北条義時の代には侍所の別当となり、「執権」は財政と御家人の統制のふたつの権限を握って事実上の最高職となります。さらに「執権」を世襲する北条氏は、幕府のなかで独裁的な力を持つようになりました。
頼朝の血筋なくして幕府継続は許されない?承久の乱勃発

藤原頼経を征夷大将軍として鎌倉幕府を継続させようと北条義時や北条政子が画策する一方、それを面白く思わない勢力がありました。幕府成立からこれまで京の都で大人しくせざるを得なかった天皇と貴族です。特に後鳥羽上皇は武士を中心にして回る鎌倉幕府を快く思っていませんでしたから、これをチャンスと見て北条義時追討の院宣を下しました。
鎌倉の武士対京都の天皇・貴族の武力衝突は免れません。また、天皇が敵ということで、鎌倉方の武士たちの気持ちも揺らぎます。しかし、その揺らぎを一喝したのが「尼将軍」と呼ばれた北条政子でした。北条政子は御家人たちを一致団結させて朝廷との戦いに挑み、見事に勝利したのです。
承久の乱後、後鳥羽上皇は流罪となり、京都には朝廷を見張る「六波羅探題」が設置されました。
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