
2.二代目将軍就任の影に執権・北条氏の動きアリ

征夷大将軍となり、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝。さあ、これからだ、というときになって、源頼朝は落馬が原因で亡くなってしまいます。そうして、二代目将軍に就任したのが息子・源頼家でした。
二代目に代替わりはしたけれど、頼朝の息子なら大丈夫……と、思うかもしれませんが、そうは簡単にはいきません。二代目将軍となった源頼家は、妻の実家をエコヒイキするわ、父・頼朝が築き上げた封建制度をないがしろにするわと、御家人たちからの評判がとてつもなく悪いのです。
また、一方で執権の北条時政は二代目・源頼家の代に衰え、代わって頼家の妻の実家となる比企氏が外戚として取り立てられていました。このことによって北条時政と比企氏の対立が起こったのです。
執権・北条時政、源実朝を三代目に就任させる
北条氏と比企氏の対立は、比企氏が滅亡することで解消し、次いで源頼家が将軍の座を追われることになりました。そうして、三代目征夷大将軍となったのが頼家の弟で若干十二歳の「源実朝」でした。源実朝を擁立することで、北条時政はまた執権としての力を取り戻し、幼い源実朝よりも強い権威を持つことになります。
幼い将軍に代わって政治の舵を取った外祖父の北条時政。……この図式は平安時代でもあった形ですね。幼い天皇に代わって外戚の藤原氏が「摂政」となり、代わりに政権を握ったのです。こちらは「関白」と合わせて「摂関政治」といいました。
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まさかの親子対立!父・北条時政vs息子・北条義時&娘・北条政子
源実朝が将軍となりましたが、しかし、彼はあまり将軍に向いた人物ではなかったのです。源実朝は都の貴族のように和歌を愛し、また和歌の才能にあふれる人物でした。将軍家ではなく、都の貴族として生まれたらどんなによかったことでしょう。
残念なことに、源実朝の才能は御家人たちに受け入れられず、北条時政による殺害計画が立ち上がります。それを阻止したのが北条時政の息子・北条義時と北条政子です。
かくして、息子と娘に計画を阻まれた北条時政は失脚し、執権の座は北条義時へと継承されたのでした。
難を逃れたと思いきや……源実朝暗殺事件
北条時政の計画が阻止され、無事に生き延びた源実朝。しかし、彼の悲劇は終わりません。
1219年に武士としては初めて右大臣に任命された源実朝は、源氏の氏神を祀る鶴岡八幡宮へ参拝に向かうことになり……。その帰り道で源実朝は甥の公暁(くぎょう)によって刺殺されてしまうのです。
公暁は源頼家の次男であり、出家して政治から遠ざかることで命をながらえていました。ところが、源実朝が父の仇であると教えられ、この凶行に及んだのです。その結果、公暁は仇討ちこそ叶えられましたが、処刑されてしまいました。
源実朝暗殺犯の公暁を処刑で困ったことに!?
暗殺犯の公暁を処刑したことで、鎌倉幕府は非常に困ったことになります。暗殺された源実朝に子どもがいなかったのです。さらに、源頼家の最後の子どもだった公暁も処刑されたことで、初代将軍であり、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝の血筋がわずか三代で途絶えることになってしまったのでした。
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