日本史鎌倉時代

3分で簡単「執権政治」二番手なのに最高権力者?鎌倉幕府にいったい何が起こった?歴史オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。平安時代の貴族中心の政治から一転して武士たちが世の中を担うようになった鎌倉時代。最初こそ征夷大将軍たる源頼朝が指導していたわけだが、彼の死後、鎌倉幕府は怒涛の変化を余儀なくされる。そして、政治の実質的トップが将軍から「執権」に代わったんだ。だが、いったいどうして将軍を差し置いて別の人間がトップに立ったんだろうな?
今回は「執権政治」への移り変わりの経緯と、その実績を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の鎌倉時代から、「執権政治」とそれを担った執権たちについてまとめた。

1.歴史一変!貴族社会から武士中心の政治へ

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「1185(イイハコ)作ろう、鎌倉幕府」で覚える1185年からはじまる「鎌倉時代」。それまで平安京の天皇と貴族たちが中心となって日本を動かしてきた世の中からガラリと変わって、武士が日本を担う時代となりました。

武士たちのトップに立ったのは先の源平合戦(治承・寿永の乱)を治めた「源頼朝」。関東の鎌倉に幕府を置き、朝廷からの勅許によって実質的な支配権を得ます。その後、源頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命(1192年)され、すべての武家の棟梁となったのです。

トップは征夷大将軍、「執権」は二番手だった

政治の中心も平安京から関東の鎌倉へと移り、システムも徐々に変わっていきます。まず、鎌倉幕府の旗頭として立った源頼朝、すなわち、征夷大将軍が幕府のトップです。そして、その次が将軍を補佐する「執権」でした。その下に、幕府に使える御家人(武士)たちが連なるのです。

鎌倉幕府最初の執権は、源頼朝の正室「北条政子」の父で、頼朝の舅にあたる「北条時政」が勤めました。

御恩と奉公、win-winの関係!鎌倉幕府の「封建制度」

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御家人たちはいわば鎌倉幕府に勤めている会社員なので、お給料が発生します。そのお給料の出所となったのが「封建制度」。将軍から賜った土地を将軍の代わりに統治して、そこから上がる税金が収入源となったのです。お互いに利益が成立するこの主従関係は「御恩と奉公」とも呼ばれます。

\次のページで「2.二代目将軍就任の影に執権・北条氏の動きアリ」を解説!/

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