
今回は「執権政治」への移り変わりの経緯と、その実績を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。
- 1.歴史一変!貴族社会から武士中心の政治へ
- トップは征夷大将軍、「執権」は二番手だった
- 御恩と奉公、win-winの関係!鎌倉幕府の「封建制度」
- 2.二代目将軍就任の影に執権・北条氏の動きアリ
- 執権・北条時政、源実朝を三代目に就任させる
- まさかの親子対立!父・北条時政vs息子・北条義時&娘・北条政子
- 難を逃れたと思いきや……源実朝暗殺事件
- 源実朝暗殺犯の公暁を処刑で困ったことに!?
- 3.執権・北条義時の妙案「鎌倉幕府を途絶えさせないための摂家将軍と宮将軍」
- 実際の「執権」の権力はどのくらい?
- 頼朝の血筋なくして幕府継続は許されない?承久の乱勃発
- 日本初!武士のための法律「御成敗式目」
- 「執権」の変化?移動する権力と「得宗専制」
- 蒙古襲来!鎌倉幕府の滅亡カウントダウン
- 日本初!武士による武士のための「執権政治」
この記事の目次

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の鎌倉時代から、「執権政治」とそれを担った執権たちについてまとめた。
1.歴史一変!貴族社会から武士中心の政治へ

「1185(イイハコ)作ろう、鎌倉幕府」で覚える1185年からはじまる「鎌倉時代」。それまで平安京の天皇と貴族たちが中心となって日本を動かしてきた世の中からガラリと変わって、武士が日本を担う時代となりました。
武士たちのトップに立ったのは先の源平合戦(治承・寿永の乱)を治めた「源頼朝」。関東の鎌倉に幕府を置き、朝廷からの勅許によって実質的な支配権を得ます。その後、源頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命(1192年)され、すべての武家の棟梁となったのです。
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トップは征夷大将軍、「執権」は二番手だった
政治の中心も平安京から関東の鎌倉へと移り、システムも徐々に変わっていきます。まず、鎌倉幕府の旗頭として立った源頼朝、すなわち、征夷大将軍が幕府のトップです。そして、その次が将軍を補佐する「執権」でした。その下に、幕府に使える御家人(武士)たちが連なるのです。
鎌倉幕府最初の執権は、源頼朝の正室「北条政子」の父で、頼朝の舅にあたる「北条時政」が勤めました。
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御恩と奉公、win-winの関係!鎌倉幕府の「封建制度」

御家人たちはいわば鎌倉幕府に勤めている会社員なので、お給料が発生します。そのお給料の出所となったのが「封建制度」。将軍から賜った土地を将軍の代わりに統治して、そこから上がる税金が収入源となったのです。お互いに利益が成立するこの主従関係は「御恩と奉公」とも呼ばれます。
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