平安時代の貴族中心の政治から一転して武士たちが世の中を担うようになった鎌倉時代。最初こそ征夷大将軍たる源頼朝が指導していたわけですが、彼の死後、鎌倉幕府は怒涛の変化を余儀なくされる。そして、政治の実質的トップが将軍から「執権」に代わったんです。ですが、いったいどうして将軍を差し置いて別の人間がトップに立ったんでしょうな?
今回は「執権政治」への移り変わりの経緯と、その実績を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の鎌倉時代から、「執権政治」とそれを担った執権たちについてまとめた。

1.歴史一変!貴族社会から武士中心の政治へ

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「1185(イイハコ)作ろう、鎌倉幕府」で覚える1185年からはじまる「鎌倉時代」。それまで平安京の天皇と貴族たちが中心となって日本を動かしてきた世の中からガラリと変わって、武士が日本を担う時代となりました。

武士たちのトップに立ったのは先の源平合戦(治承・寿永の乱)を治めた「源頼朝」。関東の鎌倉に幕府を置き、朝廷からの勅許によって実質的な支配権を得ます。その後、源頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命(1192年)され、すべての武家の棟梁となったのです。

トップは征夷大将軍、「執権」は二番手だった

政治の中心も平安京から関東の鎌倉へと移り、システムも徐々に変わっていきます。まず、鎌倉幕府の旗頭として立った源頼朝、すなわち、征夷大将軍が幕府のトップです。そして、その次が将軍を補佐する「執権」でした。その下に、幕府に使える御家人(武士)たちが連なるのです。

鎌倉幕府最初の執権は、源頼朝の正室「北条政子」の父で、頼朝の舅にあたる「北条時政」が勤めました。

御恩と奉公、win-winの関係!鎌倉幕府の「封建制度」

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御家人たちはいわば鎌倉幕府に勤めている会社員なので、お給料が発生します。そのお給料の出所となったのが「封建制度」。将軍から賜った土地を将軍の代わりに統治して、そこから上がる税金が収入源となったのです。お互いに利益が成立するこの主従関係は「御恩と奉公」とも呼ばれます。

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2.二代目将軍就任の影に執権・北条氏の動きアリ

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征夷大将軍となり、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝。さあ、これからだ、というときになって、源頼朝は落馬が原因で亡くなってしまいます。そうして、二代目将軍に就任したのが息子・源頼家でした。

二代目に代替わりはしたけれど、頼朝の息子なら大丈夫……と、思うかもしれませんが、そうは簡単にはいきません。二代目将軍となった源頼家は、妻の実家をエコヒイキするわ、父・頼朝が築き上げた封建制度をないがしろにするわと、御家人たちからの評判がとてつもなく悪いのです。

また、一方で執権の北条時政は二代目・源頼家の代に衰え、代わって頼家の妻の実家となる比企氏が外戚として取り立てられていました。このことによって北条時政と比企氏の対立が起こったのです。

執権・北条時政、源実朝を三代目に就任させる

北条氏と比企氏の対立は、比企氏が滅亡することで解消し、次いで源頼家が将軍の座を追われることになりました。そうして、三代目征夷大将軍となったのが頼家の弟で若干十二歳の「源実朝」でした。源実朝を擁立することで、北条時政はまた執権としての力を取り戻し、幼い源実朝よりも強い権威を持つことになります。

幼い将軍に代わって政治の舵を取った外祖父の北条時政。……この図式は平安時代でもあった形ですね。幼い天皇に代わって外戚の藤原氏が「摂政」となり、代わりに政権を握ったのです。こちらは「関白」と合わせて「摂関政治」といいました。

まさかの親子対立!父・北条時政vs息子・北条義時&娘・北条政子

源実朝が将軍となりましたが、しかし、彼はあまり将軍に向いた人物ではなかったのです。源実朝は都の貴族のように和歌を愛し、また和歌の才能にあふれる人物でした。将軍家ではなく、都の貴族として生まれたらどんなによかったことでしょう。

残念なことに、源実朝の才能は御家人たちに受け入れられず、北条時政による殺害計画が立ち上がります。それを阻止したのが北条時政の息子・北条義時と北条政子です。

かくして、息子と娘に計画を阻まれた北条時政は失脚し、執権の座は北条義時へと継承されたのでした。

難を逃れたと思いきや……源実朝暗殺事件

北条時政の計画が阻止され、無事に生き延びた源実朝。しかし、彼の悲劇は終わりません。

1219年に武士としては初めて右大臣に任命された源実朝は、源氏の氏神を祀る鶴岡八幡宮へ参拝に向かうことになり……。その帰り道で源実朝は甥の公暁(くぎょう)によって刺殺されてしまうのです。

公暁は源頼家の次男であり、出家して政治から遠ざかることで命をながらえていました。ところが、源実朝が父の仇であると教えられ、この凶行に及んだのです。その結果、公暁は仇討ちこそ叶えられましたが、処刑されてしまいました。

源実朝暗殺犯の公暁を処刑で困ったことに!?

暗殺犯の公暁を処刑したことで、鎌倉幕府は非常に困ったことになります。暗殺された源実朝に子どもがいなかったのです。さらに、源頼家の最後の子どもだった公暁も処刑されたことで、初代将軍であり、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝の血筋がわずか三代で途絶えることになってしまったのでした。

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3.執権・北条義時の妙案「鎌倉幕府を途絶えさせないための摂家将軍と宮将軍」

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源頼朝の血筋が途絶え、将軍の継承者がいなくなってしまった鎌倉幕府。しかし、ここで幕府を継続させるために二代目執権・北条義時は知恵を絞ります。

鎌倉に将軍がいなければ連れて来ればいい。そう考えた北条義時は、源頼朝と遠いながらも血縁関係のある都の摂関家の子・藤原頼経を鎌倉へ連れてきて将軍にして幕府の継続を可能にしたのです。藤原頼経は摂家の出身だったことから、次代の藤原頼嗣のふたりを「摂家将軍」と呼びます。また、頼経、頼嗣父子ののちに将軍についた皇族出身を「宮将軍」といいました。

この当時の藤原頼経は二歳。まだまだ赤ちゃんですね。当然ながら、政治なんてできません。なので、将軍の次の権力を誇る執権が代わりに政治を動かすことになります。

こうして、執権は幕府の実権を掌握し、「執権政治」の体制を整えたのでした。

実際の「執権」の権力はどのくらい?

鎌倉幕府には政治の中心となる下記の三つの役所がありました。

・御家人を取り締まる「侍所(さむらいどころ)」
・財政管理の「政所(まんどころ)」
・裁判を行う「問注所(もんちゅうじょ)」

源実朝が将軍に就任した折に、北条時政は財政管理の政所の別当(長官)に就任していました。さらに、二代目の北条義時の代には侍所の別当となり、「執権」は財政と御家人の統制のふたつの権限を握って事実上の最高職となります。さらに「執権」を世襲する北条氏は、幕府のなかで独裁的な力を持つようになりました。

頼朝の血筋なくして幕府継続は許されない?承久の乱勃発

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藤原頼経を征夷大将軍として鎌倉幕府を継続させようと北条義時や北条政子が画策する一方、それを面白く思わない勢力がありました。幕府成立からこれまで京の都で大人しくせざるを得なかった天皇と貴族です。特に後鳥羽上皇は武士を中心にして回る鎌倉幕府を快く思っていませんでしたから、これをチャンスと見て北条義時追討の院宣を下しました。

鎌倉の武士対京都の天皇・貴族の武力衝突は免れません。また、天皇が敵ということで、鎌倉方の武士たちの気持ちも揺らぎます。しかし、その揺らぎを一喝したのが「尼将軍」と呼ばれた北条政子でした。北条政子は御家人たちを一致団結させて朝廷との戦いに挑み、見事に勝利したのです。

承久の乱後、後鳥羽上皇は流罪となり、京都には朝廷を見張る「六波羅探題」が設置されました。

\次のページで「日本初!武士のための法律「御成敗式目」」を解説!/

日本初!武士のための法律「御成敗式目」

北条義時の跡を継ぎ、1224年に三代目の執権となったのは息子・北条泰時。彼は1232年に日本ではじめての武士のための武士による法律「御成敗式目」を制定します。それまでの法律は朝廷の貴族たちが作ったものだけだったのです。

御成敗式目は源頼朝以来の先例や武士社会の慣習、道徳をもとに作られました。本当に武士のための法律ですね。その中でも特に大事なのは、「将軍から賜った土地の保証」など先述した封建制度に関するものがしっかりと明文化されているところです。

ただし、御成敗式目は武家のためのものですから、武家のものたちに限って適用されます。都の貴族や荘園などは、朝廷の法律が適用されたのです。

また、鎌倉時代以降も御成敗式目は武家社会の法律の手本とされ、室町から戦国時代にいたるまでずっと有効な法律になったのでした。

「執権」の変化?移動する権力と「得宗専制」

執権が幕府の実権を握り続けましたが、権力の持ち主は変わり続けるもの。「執権」の地位にも変化が訪れます。それは四代目執権・北条時頼が病気のため義兄の時頼に執権の座を譲ったときのこと。北条時頼は執権を引退して出家したにもかかわらず、依然として幕府の実権を握り続けたのです。いわば、五代目執権は先代・北条時頼のかいらいとなってしまったんですね。

このことから執権が本来持っていた権力が、「得宗(とくそう、北条氏嫡流の当主)」に移動しました。あらゆる権力が執権ではなく、得宗に集中したためこれを「得宗専制」といいます。

形だけの最高職「執権」と、本当の権力者「得宗」。これだけみると、かつての天皇と摂関家、あるいは天皇と院と同じような形で政治が運営されているように見えますね。

蒙古襲来!鎌倉幕府の滅亡カウントダウン

150年におよぶ執権政治の終わりは、まさかの国外からの侵略でした。このころ、大陸では遊牧民族のモンゴルを「チンギス=ハン」が率いてアジアの大半とヨーロッパの一部を含むモンゴル帝国を築きあげていたのです。

モンゴルが日本へやってきたのは、チンギス=ハンの孫・フビライ=ハンの時代。1274年と1281年の二度に渡って北九州へ襲来(元寇)したのです。鎌倉幕府は大苦戦を強いられたのち、辛くも追い返すことに成功します。ところが、元寇をもとに起こった武士たちの財政難をきっかけに不満が膨れ上がり、朝廷が再び倒幕計画を立ち上げたのです。そこに参加していたのが、のちに室町幕府を立ち上げる足利尊氏でした。鎌倉幕府最後の執権は九代目・北条高時。鎌倉に攻め入る討幕軍に破れ、一族郎党とともに自刃して執権政治の最期を迎えました。

日本初!武士による武士のための「執権政治」

天皇が日本を統一していった古墳時代以降、長い間天皇と貴族による貴族社会が中心になっていました。それを変えたのが源頼朝から続く幕府と、武家社会です。しかし、源頼朝の死から一変して、「執権」北条家の台頭します。北条義時は頼朝の子息たちがいなくなったあとも、遠い血縁にあたる藤原頼経を呼び寄せて将軍とし、幼い将軍に代わって幕府の権力を掌握しました。こうして二番手であったはずの執権による「執権政治」がはじまったのです。執権政治下では日本初の武士のための法律「御成敗式目」が制定され、のちに続く武家社会の手本となりました。

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日本史鎌倉時代

3分で簡単「執権政治」二番手なのに最高権力者?鎌倉幕府にいったい何が起こった?歴史オタクがわかりやすく解説

平安時代の貴族中心の政治から一転して武士たちが世の中を担うようになった鎌倉時代。最初こそ征夷大将軍たる源頼朝が指導していたわけですが、彼の死後、鎌倉幕府は怒涛の変化を余儀なくされる。そして、政治の実質的トップが将軍から「執権」に代わったんです。ですが、いったいどうして将軍を差し置いて別の人間がトップに立ったんでしょうな?
今回は「執権政治」への移り変わりの経緯と、その実績を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の鎌倉時代から、「執権政治」とそれを担った執権たちについてまとめた。

1.歴史一変!貴族社会から武士中心の政治へ

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「1185(イイハコ)作ろう、鎌倉幕府」で覚える1185年からはじまる「鎌倉時代」。それまで平安京の天皇と貴族たちが中心となって日本を動かしてきた世の中からガラリと変わって、武士が日本を担う時代となりました。

武士たちのトップに立ったのは先の源平合戦(治承・寿永の乱)を治めた「源頼朝」。関東の鎌倉に幕府を置き、朝廷からの勅許によって実質的な支配権を得ます。その後、源頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命(1192年)され、すべての武家の棟梁となったのです。

トップは征夷大将軍、「執権」は二番手だった

政治の中心も平安京から関東の鎌倉へと移り、システムも徐々に変わっていきます。まず、鎌倉幕府の旗頭として立った源頼朝、すなわち、征夷大将軍が幕府のトップです。そして、その次が将軍を補佐する「執権」でした。その下に、幕府に使える御家人(武士)たちが連なるのです。

鎌倉幕府最初の執権は、源頼朝の正室「北条政子」の父で、頼朝の舅にあたる「北条時政」が勤めました。

御恩と奉公、win-winの関係!鎌倉幕府の「封建制度」

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御家人たちはいわば鎌倉幕府に勤めている会社員なので、お給料が発生します。そのお給料の出所となったのが「封建制度」。将軍から賜った土地を将軍の代わりに統治して、そこから上がる税金が収入源となったのです。お互いに利益が成立するこの主従関係は「御恩と奉公」とも呼ばれます。

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