現在でも京都から滋賀県にまたがる比叡山に存在する「比叡山延暦寺」を知っているか?実は千年以上前の平安時代に成立したとても長い歴史を持つ寺なんです。そして、歴史が長い分、比叡山延暦寺にまつわる歴史は数多くある。特に平安時代での成立と、戦国時代のエピソードが事欠かないな。
今回は「比叡山延暦寺」について、その設立や天台宗、そしてどんなことが起こったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の平安時代から、今回は「比叡山延暦寺」についてまとめた。

1.平城京から平安京へ。新しい都の新しい仏教「天台宗」

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663highland, CC 表示 2.5, リンクによる

比叡山の山全体を境内とする広大な「比叡山延暦寺」。山内は「東塔(とうどう)」と「西塔(さいとう)」、それに「横川(よかわ)」の三つに分かれます。特に東塔には伝教大師「最澄」が編んだ一乗止観院であり、現在では本堂となる「根本中堂」がある中心地です。

さて、最澄が開いた天台宗の総本山として有名な比叡山の延暦寺ですが、いったいどのような経緯で現代まで続いているのでしょうか?

厄災から逃れるために遷都!平安京のはじまり

仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代の538年。その後、仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想を持つようになり、日本に深く根付いた宗教となりました。

そうして、奈良時代から平安時代へ移行したのが、794年のこと。奈良時代の終わりごろには「道鏡事件」や「藤原種継暗殺事件」に加え「早良親王の祟り」など事件や災害など、不吉なことが立て続けに起こったのです。当時の天皇だった桓武天皇はさらなる凶事を避けるために、都を平城京から平安京へと改めることにしたのでした。

語呂合わせで覚えよう、奈良~平安時代

奈良時代は710年から始まり、平安時代は794年から開始します。このふたつの覚えやすい語呂合わせは、

・「な(7)んと(10)素敵な平城京」
・「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」

ついでなので、平安時代から鎌倉時代へ変わった「い(1)い(1)は(8)こ(5)作ろう鎌倉幕府」も覚えておきましょう。

なぜ?「南都六宗」を平城京から平安京へ移転させなかった理由

桓武天皇はこの遷都の折に平城京にあった「南都六宗」と言われる六つの仏教の宗派を、平安京へは移転させませんでした。

というのも、奈良時代に拡大した寺院勢力が朝廷の政治に干渉するようになったから、とされています。現代では「政教分離の原則」から政治に宗教を持ち込むことは禁止されていますね。けれど、奈良時代に「政教分離の原則」の原則はなく、僧侶が政治に関わることが可能でした。その結果起こったのが「道鏡事件」です。

桓武天皇はそういった経緯から平城京の寺院と朝廷との距離を物理的に置くために移転をさせなかったのではないかとされています

平安京では新しい宗派を!「天台宗」の誕生

平城京と南都六宗を離れ、平安京へと遷った桓武天皇。しかし、仏教は当時の日本にとってなくてはならないものとなっていました。

そこで桓武天皇は南都六宗に対抗できる新しい仏教を平安京に置くべく、僧侶を大陸の大国「唐」へ派遣して新たな宗派を持ち帰らせます。こうして京都から滋賀県へとまたがる比叡山に開かれたのが「天台宗」でした。

2.心機一転!新しい都と比叡山の最澄と天台宗

最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg
不明 - 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

桓武天皇が平安京で新しい宗派を作るにあたって声をかけたのが「最澄」でした。

最澄は正式に僧侶となってから比叡山に山林修行に入り、そこに一乗止観院という庵を建てて薬師如来を祀っていました。この一乗止観院こそのちの「比叡山延暦寺」のもとになった仏堂です。

一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇に見いだされ、「内供奉十禅師」のひとりに任命されます。「内供奉十禅師」は宮中で仏事を行う十人の僧侶に与えられる役職のことであり、最澄が由緒正しき僧侶として朝廷に認められた証でした。

唐の天台宗を持ち帰り、比叡山に開いた「最澄」

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「天台宗」はもともと「隋(唐の前の国)」の時代の「智顗(ちぎ)」という僧侶が天台山に国清寺を建てて広めた宗派でした。「書経の王」と言われる「法華経」をよりどころに瞑想によって悟りを開くのです。

時代が隋から唐へと変わり、最澄は天台宗をの教えを学ぶべく遣唐使に加わることにしました。そうして一年の留学をへて日本に天台宗を持ち帰ったのです。

天台宗の総本山となった比叡山延暦寺

最澄は比叡山の一乗止観院を拠点として活動していました。位置は現在の東塔・根本中堂のあたりであり、小規模な寺院です。そこに「延暦寺」と名前がついたのは最澄の没後のこと。

比叡山延暦寺は京都の北東「鬼門」に位置していました。「鬼門」は昔から鬼が出入りする方角と言われ、不吉な方角だったのです。そこに建つ比叡山延暦寺は鬼門から都を守る役割を持つことになったのでした。

\次のページで「すべての教えは「法華経につながっている」最澄の「法華一乗」」を解説!/

すべての教えは「法華経につながっている」最澄の「法華一乗」

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インドの大乗仏教において、悟りを開くための三つの教えと実践を乗り物に例えて「三乗」といいます。この三乗を包括したものが「法華経」なのだ、という思想を「法華一乗」といいました。噛み砕いて簡単に言うと、「どんな教えも最終的には法華経に繋がる」という考えです。

最澄が自ら名付けた「一乗止観院」の「一乗」は「法華一乗」の「一乗」でした。法華一乗の思想に従い、延暦寺には多種多様な経典が集まり、それらを学んで修行する場となったのです。

弟子たちの対立!派閥争いで園城寺建立

最澄の没後、天台宗における密教を弟子の「円仁」と「円珍」が唐で学んで整えました。

しかし、そのふたりが亡くなったあとのこと。ふたりが持ち帰った経典や仏画をもとに比叡山で研究が行われていましたが、円仁の弟子と円珍の弟子の間で解釈違いが起こってしまったのです。

解釈違いの争いは両者の溝を深め、最終的に円珍派の僧侶たち約1000人が延暦寺を出て行ってしまいます。そうして、麓に園城寺(おんじょうじ、三井寺とも)に入り、天台寺門宗の総本山となったのです。

対して、延暦寺に残る円仁派を「山門派」といいます。

3.戦う僧侶「僧兵」誕生!戦国時代の比叡山の苦悩

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平安京へと遷都した桓武天皇ですが、それと同時期に、かねてより進めていた東北の蝦夷(えみし)東征を中止させるとともに、軍隊を廃止してしまいます。つまり、国が常時出動させられる常駐の軍を持たなくなる、ということ。

しかし、ただ軍隊を廃止しただけなら、敵対勢力と近い要所や、各地に置かれた国庫などを守る人がいなくなってたいへんなことになりますよね。なので、軍隊を廃止する代りに「健児(こんでい)制」を導入して、各国の要所や国庫を守らせたのです。

「健児(こんでい)制」のメリット、デメリット

「健児制」は、地方官や農民の子弟のなかから武芸に秀でたものを選抜した「健児」を集め、各国の要所や国庫の守備に当たらせた制度です。健児制のおかげで農民たちは兵役の負担から解放されることとなり、農業に専念することができるようになりました。

しかし、健児に選ばれたものたちは警察ではありません。なので、個人間の揉め事に対応するなんてことはなく、さらに、大規模な反乱にも対応できる戦力はありませんでした。このため、当時の日本は実質的な無政府状態となったのです。

自分たちの財産は自分で守らなきゃいけない!

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軍隊がなくなり、治安が悪化した平安時代。都の平安京だけは「検非違使(けびいし)」という警察組織が設立されたことでなんとか治安が維持されていました。けれど、検非違使も現在の警察とは違うため、個人の土地や財産を守るには不十分だったのです。

寺院には寄進された荘園がありました。寄進された荘園は租税が免除(不輸の権)されていたり、国の使者の立ち入りを認めない(不入権)ことができたりと、持ち主の権利が強い収入源だったのです。

それだけの権限を持った土地ですから、誰だってほしいですよね?しかも、当時の警察機関は個人間の問題に親身になって助けてくれるわけではありません。当然、荘園を巡って争いが起こります。

荘園を守るために戦うしかない!戦う僧侶「僧兵」の誕生

寺院は寄進された広大な荘園を持っていました。比叡山の延暦寺も例外ではありません。もちろん、荘園を巡る争いも。大事な荘園を守るのは自分たちしかいません。それに、僧侶のなかには貴族や武家の出身者も少なくありませんでしたから、彼らは自衛のために武器を取ったのでした。この武装した僧侶を「僧兵」といいます。

国に意見を通すぞ!徒党を組んで「強訴」

さて、これまでお話した通り、平安京の警察組織はそこまで強いわけではありません。そんななか、僧兵たちが徒党を組んで都にやって来て、自分たちの要求を押し通す「強訴」がたびたび起こるようになりました。要求の内容は他の寺院より自分たちを優遇することだったり、自分たちの荘園への侵害に対する抗議などさまざまなものです。

しかし、この強訴に対して検非違使たちもただ武力で対抗すればよいというものではありません。なぜなら、武装した僧兵たちはお神輿を担いでいたから。お神輿は神様(当時は神仏習合していたので神様=仏様)の権威ですから、うかつに傷でもつけようものなら仏罰が降ると恐れて手を出せないのです。

特に比叡山延暦寺の僧兵たちは、平安時代後期に絶大な権力を誇った白河天皇にさえ「思い通りにいかないもの」と言わせるほど恐れられた存在だったといいます。

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織田信長との仲は最悪!?比叡山炎上!

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戦国時代に入っても比叡山延暦寺の僧兵たちは健在です。鎌倉時代には征夷大将軍・源頼朝にも要求を通し、室町時代には後醍醐天皇に味方して足利尊氏と対立するなど、歴史の大舞台にその名前を連ねました。

そして、戦国時代。織田信長が浅井長政・朝倉義景と対立したとき、延暦寺は浅井・朝倉連合軍に味方して織田信長と敵対します。

また、延暦寺と対立する一方、織田信長と園城寺の仲は良好であり、織田信長は園城寺の協力を得てとうとう「比叡山焼き討ち」を決行したのです。

織田信長の焼き討ちの結果、比叡山延暦寺の多くの施設が無くなったとされています。焼け落ちた延暦寺の復興が許されたのはそれから13年後、織田信長が「本能寺の変」で亡くなり、豊臣秀吉の時代になってから。僧兵を置かないことを条件にして、ようやくかなったのでした。

現在、ユネスコ世界遺産となった「比叡山延暦寺」

今から約1300年前に建立され、平安二宗の片翼を担うことになった天台宗の比叡山延暦寺。桓武天皇によって見い出された伝教大師・最澄が唐に渡って学んだ「天台宗」を持ち帰って日本で開いたことで広く知れるようになりました。しかし、最澄の没後、経典や仏画の解釈を巡って弟子たちが対立。一部は比叡山を下りて園城寺で天台寺門宗を開くことになります。

一方、比叡山に残ったのが天台山門宗。山門宗と寺門宗、それに延暦寺と園城寺も現代に残り、それぞれの総本山として栄えていますね。けれど、袂を分かってからしばらくはあまり良好な関係とは言えず、戦国時代などでは敵対する勢力にそれぞれついたことも。特に織田信長が台頭した時期に延暦寺は焼き討ちされて、多くの建物や僧たちが亡くなったとされています。復興後は現代まで続き、根本中堂は国宝に、その廻廊は重要文化財に指定、さらに1994年にユネスコの世界遺産に登録されました。

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平安時代日本史

3分で簡単「比叡山延暦寺」誰が開いた?平安時代から続く天台宗の総本山を歴史オタクがわかりやすく解説

現在でも京都から滋賀県にまたがる比叡山に存在する「比叡山延暦寺」を知っているか?実は千年以上前の平安時代に成立したとても長い歴史を持つ寺なんです。そして、歴史が長い分、比叡山延暦寺にまつわる歴史は数多くある。特に平安時代での成立と、戦国時代のエピソードが事欠かないな。
今回は「比叡山延暦寺」について、その設立や天台宗、そしてどんなことが起こったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の平安時代から、今回は「比叡山延暦寺」についてまとめた。

1.平城京から平安京へ。新しい都の新しい仏教「天台宗」

比叡山の山全体を境内とする広大な「比叡山延暦寺」。山内は「東塔(とうどう)」と「西塔(さいとう)」、それに「横川(よかわ)」の三つに分かれます。特に東塔には伝教大師「最澄」が編んだ一乗止観院であり、現在では本堂となる「根本中堂」がある中心地です。

さて、最澄が開いた天台宗の総本山として有名な比叡山の延暦寺ですが、いったいどのような経緯で現代まで続いているのでしょうか?

厄災から逃れるために遷都!平安京のはじまり

仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代の538年。その後、仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想を持つようになり、日本に深く根付いた宗教となりました。

そうして、奈良時代から平安時代へ移行したのが、794年のこと。奈良時代の終わりごろには「道鏡事件」や「藤原種継暗殺事件」に加え「早良親王の祟り」など事件や災害など、不吉なことが立て続けに起こったのです。当時の天皇だった桓武天皇はさらなる凶事を避けるために、都を平城京から平安京へと改めることにしたのでした。

語呂合わせで覚えよう、奈良~平安時代

奈良時代は710年から始まり、平安時代は794年から開始します。このふたつの覚えやすい語呂合わせは、

・「な(7)んと(10)素敵な平城京」
・「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」

ついでなので、平安時代から鎌倉時代へ変わった「い(1)い(1)は(8)こ(5)作ろう鎌倉幕府」も覚えておきましょう。

なぜ?「南都六宗」を平城京から平安京へ移転させなかった理由

桓武天皇はこの遷都の折に平城京にあった「南都六宗」と言われる六つの仏教の宗派を、平安京へは移転させませんでした。

というのも、奈良時代に拡大した寺院勢力が朝廷の政治に干渉するようになったから、とされています。現代では「政教分離の原則」から政治に宗教を持ち込むことは禁止されていますね。けれど、奈良時代に「政教分離の原則」の原則はなく、僧侶が政治に関わることが可能でした。その結果起こったのが「道鏡事件」です。

桓武天皇はそういった経緯から平城京の寺院と朝廷との距離を物理的に置くために移転をさせなかったのではないかとされています

平安京では新しい宗派を!「天台宗」の誕生

平城京と南都六宗を離れ、平安京へと遷った桓武天皇。しかし、仏教は当時の日本にとってなくてはならないものとなっていました。

そこで桓武天皇は南都六宗に対抗できる新しい仏教を平安京に置くべく、僧侶を大陸の大国「唐」へ派遣して新たな宗派を持ち帰らせます。こうして京都から滋賀県へとまたがる比叡山に開かれたのが「天台宗」でした。

2.心機一転!新しい都と比叡山の最澄と天台宗

最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg
不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる

桓武天皇が平安京で新しい宗派を作るにあたって声をかけたのが「最澄」でした。

最澄は正式に僧侶となってから比叡山に山林修行に入り、そこに一乗止観院という庵を建てて薬師如来を祀っていました。この一乗止観院こそのちの「比叡山延暦寺」のもとになった仏堂です。

一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇に見いだされ、「内供奉十禅師」のひとりに任命されます。「内供奉十禅師」は宮中で仏事を行う十人の僧侶に与えられる役職のことであり、最澄が由緒正しき僧侶として朝廷に認められた証でした。

唐の天台宗を持ち帰り、比叡山に開いた「最澄」

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「天台宗」はもともと「隋(唐の前の国)」の時代の「智顗(ちぎ)」という僧侶が天台山に国清寺を建てて広めた宗派でした。「書経の王」と言われる「法華経」をよりどころに瞑想によって悟りを開くのです。

時代が隋から唐へと変わり、最澄は天台宗をの教えを学ぶべく遣唐使に加わることにしました。そうして一年の留学をへて日本に天台宗を持ち帰ったのです。

天台宗の総本山となった比叡山延暦寺

最澄は比叡山の一乗止観院を拠点として活動していました。位置は現在の東塔・根本中堂のあたりであり、小規模な寺院です。そこに「延暦寺」と名前がついたのは最澄の没後のこと。

比叡山延暦寺は京都の北東「鬼門」に位置していました。「鬼門」は昔から鬼が出入りする方角と言われ、不吉な方角だったのです。そこに建つ比叡山延暦寺は鬼門から都を守る役割を持つことになったのでした。

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