今回は「比叡山延暦寺」について、その設立や天台宗、そしてどんなことが起こったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。
- 1.平城京から平安京へ。新しい都の新しい仏教「天台宗」
- 厄災から逃れるために遷都!平安京のはじまり
- 語呂合わせで覚えよう、奈良~平安時代
- なぜ?「南都六宗」を平城京から平安京へ移転させなかった理由
- 平安京では新しい宗派を!「天台宗」の誕生
- 2.心機一転!新しい都と比叡山の最澄と天台宗
- 唐の天台宗を持ち帰り、比叡山に開いた「最澄」
- 天台宗の総本山となった比叡山延暦寺
- すべての教えは「法華経につながっている」最澄の「法華一乗」
- 弟子たちの対立!派閥争いで園城寺建立
- 3.戦う僧侶「僧兵」誕生!戦国時代の比叡山の苦悩
- 「健児(こんでい)制」のメリット、デメリット
- 自分たちの財産は自分で守らなきゃいけない!
- 荘園を守るために戦うしかない!戦う僧侶「僧兵」の誕生
- 国に意見を通すぞ!徒党を組んで「強訴」
- 織田信長との仲は最悪!?比叡山炎上!
- 現在、ユネスコ世界遺産となった「比叡山延暦寺」
この記事の目次
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。得意分野の平安時代から、今回は「比叡山延暦寺」についてまとめた。
1.平城京から平安京へ。新しい都の新しい仏教「天台宗」
663highland, CC 表示 2.5, リンクによる
比叡山の山全体を境内とする広大な「比叡山延暦寺」。山内は「東塔(とうどう)」と「西塔(さいとう)」、それに「横川(よかわ)」の三つに分かれます。特に東塔には伝教大師「最澄」が編んだ一乗止観院であり、現在では本堂となる「根本中堂」がある中心地です。
さて、最澄が開いた天台宗の総本山として有名な比叡山の延暦寺ですが、いったいどのような経緯で現代まで続いているのでしょうか?
厄災から逃れるために遷都!平安京のはじまり
仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代の538年。その後、仏教の力で国を守る「鎮護国家」の思想を持つようになり、日本に深く根付いた宗教となりました。
そうして、奈良時代から平安時代へ移行したのが、794年のこと。奈良時代の終わりごろには「道鏡事件」や「藤原種継暗殺事件」に加え「早良親王の祟り」など事件や災害など、不吉なことが立て続けに起こったのです。当時の天皇だった桓武天皇はさらなる凶事を避けるために、都を平城京から平安京へと改めることにしたのでした。
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語呂合わせで覚えよう、奈良~平安時代
奈良時代は710年から始まり、平安時代は794年から開始します。このふたつの覚えやすい語呂合わせは、
・「な(7)んと(10)素敵な平城京」
・「鳴(7)く(9)よ(4)ウグイス平安京」
ついでなので、平安時代から鎌倉時代へ変わった「い(1)い(1)は(8)こ(5)作ろう鎌倉幕府」も覚えておきましょう。
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なぜ?「南都六宗」を平城京から平安京へ移転させなかった理由
桓武天皇はこの遷都の折に平城京にあった「南都六宗」と言われる六つの仏教の宗派を、平安京へは移転させませんでした。
というのも、奈良時代に拡大した寺院勢力が朝廷の政治に干渉するようになったから、とされています。現代では「政教分離の原則」から政治に宗教を持ち込むことは禁止されていますね。けれど、奈良時代に「政教分離の原則」の原則はなく、僧侶が政治に関わることが可能でした。その結果起こったのが「道鏡事件」です。
桓武天皇はそういった経緯から平城京の寺院と朝廷との距離を物理的に置くために移転をさせなかったのではないかとされています。
平安京では新しい宗派を!「天台宗」の誕生
平城京と南都六宗を離れ、平安京へと遷った桓武天皇。しかし、仏教は当時の日本にとってなくてはならないものとなっていました。
そこで桓武天皇は南都六宗に対抗できる新しい仏教を平安京に置くべく、僧侶を大陸の大国「唐」へ派遣して新たな宗派を持ち帰らせます。こうして京都から滋賀県へとまたがる比叡山に開かれたのが「天台宗」でした。
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2.心機一転!新しい都と比叡山の最澄と天台宗
不明 – 藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画, パブリック・ドメイン, リンクによる
桓武天皇が平安京で新しい宗派を作るにあたって声をかけたのが「最澄」でした。
最澄は正式に僧侶となってから比叡山に山林修行に入り、そこに一乗止観院という庵を建てて薬師如来を祀っていました。この一乗止観院こそのちの「比叡山延暦寺」のもとになった仏堂です。
一乗止観院で修行していた最澄は桓武天皇に見いだされ、「内供奉十禅師」のひとりに任命されます。「内供奉十禅師」は宮中で仏事を行う十人の僧侶に与えられる役職のことであり、最澄が由緒正しき僧侶として朝廷に認められた証でした。
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唐の天台宗を持ち帰り、比叡山に開いた「最澄」
「天台宗」はもともと「隋(唐の前の国)」の時代の「智顗(ちぎ)」という僧侶が天台山に国清寺を建てて広めた宗派でした。「書経の王」と言われる「法華経」をよりどころに瞑想によって悟りを開くのです。
時代が隋から唐へと変わり、最澄は天台宗をの教えを学ぶべく遣唐使に加わることにしました。そうして一年の留学をへて日本に天台宗を持ち帰ったのです。
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天台宗の総本山となった比叡山延暦寺
最澄は比叡山の一乗止観院を拠点として活動していました。位置は現在の東塔・根本中堂のあたりであり、小規模な寺院です。そこに「延暦寺」と名前がついたのは最澄の没後のこと。
比叡山延暦寺は京都の北東「鬼門」に位置していました。「鬼門」は昔から鬼が出入りする方角と言われ、不吉な方角だったのです。そこに建つ比叡山延暦寺は鬼門から都を守る役割を持つことになったのでした。
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