かつて存在していた社会主義国家であるソビエト連邦。それが崩壊する瞬間をリアルタイムで見た人は徐々に少なくなっている。

ソビエト連邦とはどんな国家だったのか。軍事力と科学技術力に焦点を当てて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アメリカと肩を並べた大国であったソ連にも興味がある。そこで、そもそもソビエト連邦とは何だったのか調べてみることにした。

世界初の社会主義国家、ソビエト連邦

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L.Y. Leonidov - http://belregnews.ru/wp-content/uploads/2012/08/im.2012.08.11-10.07.31.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

正式名称はソビエト社会主義共和国連邦。ソビエト連邦あるいはソ連と呼ばれることもあります。ソビエト連邦は世界で初めての社会主義国家。ソビエト連邦共産党の一党独裁がしかれました。

ソビエト連邦の初代指導者はレーニン

ソビエト連邦の初代指導者が、ボリシェヴィキを率いたウラジーミル・レーニン。ロマノフ王朝が支配するロシア帝国を倒して樹立しました。とはいえ、反ボリシェヴィキ勢力も多く、しばらくのあいだは内戦が続きました。

反ボリシェヴィキの最大派閥となるのが白軍。そこでレーニンはボリシェヴィキ側を赤軍と位置づけ、赤色テロを展開しました。内戦で打ち勝ったボリシェヴィキは、ロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシを統合。ソ連を樹立しました。

党書記長スターリンの独裁

レーニンが脳卒中により亡くなったあと、党書記長として力を発揮したのがにヨシフ・スターリンです。レーニン時代も反革命勢力の粛清はありましたが、スターリンはそれをさらに激化させました。

ソビエト連邦の工業化を一気に進め、農業や農場の集団化も加速させました。すべての農民をコルホーズに組み込み、富裕者層の撲滅を図ります。無理な集団化の影響により飢餓を引き起こしたと批判されることもありました。

冷戦期に軍事力を増強させたソビエト連邦

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ソビエト連邦は、高度な軍事力を持っているとされています。軍事力を一気に増強させたのは東西冷戦時代。スターリンが亡くなったあと権力を持ったニキータ・フルシチョフによる指導体制の時代です。

フルシチョフはスターリンの体制を批判

フルシチョフは、スターリンが亡くなったあと、彼の体制を大々的に批判します。フルシチョフはスターリン時代の粛清を告発、そこからの決別を宣言しました。それをきっかけに反体制が勃発。しかしフルシチョフはそれを鎮圧します。

多くの犠牲者を出したのがハンガリー動乱。全国規模で行われた民衆によるデモ行進です。ソ連軍の指示によりハンガリー政府が民衆を鎮圧しました。ハンガリーでは、このときの鎮圧については、長らく語られてきませんでした。

フルシチョフが率いるソ連は、ハンガリーの運動を「反革命」と断定。徹底的に弾圧します。スターリン派であるカーダールをトップに据えて親ソ政権を樹立。ハンガリーがソ連から独立したら、東ヨーロッパに反革命の波が広がると危惧して政権に関与しました。カーダールの政権は1980年代まで続きました。ハンガリー動乱は現在「国民革命」の先駆けとして再評価されています。

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軍事の拡張も進められる

フルシチョフ時代に一貫して進められたのが軍事の拡張です。核兵器の配置が進められたのもこのころでした。核兵器の危機が世界に知られるようになったのがキューバ危機。ソ連がキューバに核ミサイル基地を作っていると、アメリカがカリブ海域を封鎖したことにより勃発しました。

ソ連とアメリカのあいだで核戦争が起こるのではと、世界中に緊張が走りました。キューバ危機は雪解けするものの、ソ連とアメリカの代理戦争は継続。そのあいだも核兵器の開発は進められてきました。

ソビエト連邦がこだわったのが西側への対抗

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ソビエト連邦は、アメリカや西ヨーロッパ諸国など「西側」に対抗するため、軍事力の増強に邁進しました。核兵器を搭載できる爆撃機や弾道ミサイル、潜水艦、戦車などを開発します。

ワルシャワ条約機構による軍事同盟

社会主義国家の宗主として、同盟国を軍事的に守ることもミッションとしました。そこで立ち上げられたのがワルシャワ条約機構。同盟国に基地を置き、武器や戦車などを大量に輸出。反乱などがあったときは鎮圧を助けました。

ワルシャワ条約機構の同盟国には、武器や戦車のほかに将校も派遣。軍事訓練も行いました。アフリカなどの非社会主義国家も水面下で支援。その影響もあって、第三世界を中心にソ連時代の武器が流出しており、それが治安を悪化させています。

ソビエト連邦が熱心に行った核開発

ソビエト連邦は、とくにアメリカと対抗するため、核開発を熱心に行いました。冷戦が過熱する最中、超大型水素爆弾であるAN602を製造しました。ツァーリ・ボンバと呼ばれるこの水素爆弾は、単一兵器として世界最大の威力があるとされています。

爆発実験を行うことを指示したのがフルシチョフ。ソ連がドイツから東ドイツを切り離し、ベルリンの壁を作り出したときでした。さらにキューバ危機の勃発。このまま核戦争になるのではないかと、世界中の人々は恐れました。

東西冷戦が終わったあと、アメリカとソ連は第一次戦略兵器削減条約を結んでいます。それにより段階的に核兵器が削減されることになりました。しかし、旧ソ連の構成国であったロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシに核兵器が残されていることが問題視されました。本来は廃棄されるべきものですが、ソ連崩壊後の不安定な情勢もあり、そのままになってしまいました。現在も日本を含めた各国の協力のもと、廃棄作業が進められています。

ソビエト連邦を襲った核ミサイル発射の誤報

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米ソの対立が頂点に達していたとき、アメリカから核ミサイルが発射されたという誤報が流れたことがあります。それをソ連が真に受けていたら、核戦争が本当に起こるかもしれない状況になりました。

\次のページで「核ミサイル発射警告衛星ネットワークのエラー」を解説!/

核ミサイル発射警告衛星ネットワークのエラー

当時のソ連は、核ミサイル発射警告衛星ネットワークを完成させたばかりでした。それは「オコ」というもので「目」を意味するシステム。アメリカから核ミサイルが発射されると、すぐにそれを捉えられるものでした。

1983年9月26日の深夜、アメリカからミサイルが発射されたことを伝える警報が鳴ります。メインスクリーンに戦闘準備を命じる文字が表示。30分後にミサイルがソ連に到達するとされました。実は、このサイレンはエラーによるものでした。

スタニスラフ・ペトロフの機転で危機を回避

このシステムの警報を信じるなら、ソ連は戦闘態勢に入るのが自然な流れです。このときオコを管理していたのはソ連防空軍の中佐だったスタニスラフ・ペトロフ。彼は、サイレンが鳴ったことに驚くものの、ミサイルの数が少なすぎることに違和感を持ちます。

そのまま核ミサイルの発射を上層部に報告したら、おそらく戦争になっていました。しかし、ペトロフの機転によりエラーに気づきます。本来あるはずのデータが不足しているなどから、誤報であることが判明。核戦争の危機は回避されました。

航空宇宙技術を発展させたソビエト連邦

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SiefkinDR - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

核兵器の開発に加え、ソ連が力を入れたのが航空宇宙技術の開発です。ソ連がライバルとしたのがアメリカ。宇宙開発は、武器を使わないある種の戦争として、国の威信をかけて行われました。

世界初の人工衛星スプートニク1号

1957年、ソ連が世界で初めて打ち上げた世界初の人工衛星がスプートニク1号です。この成功によりアメリカや西側諸国は衝撃を受けました。それは「スプートニク・ショック」と呼ばれ、宇宙開発戦争の始まりとなりました。

「スプートニク・ショック」により設立されたのがNASA。宇宙開発に関わる技術者の養成を本格的に始めました。スプートニク1号が打ち上げられた1ヶ月後、スプートニク2号が打ち上げらます。スプートニク3号は打ち上げに失敗しました。

人類初の有人宇宙飛行にも成功

人工衛星は無人による打ち上げですが、人を乗せて宇宙に行くことも、世界で初めて成功しています。このとき登場したのがソ連の軍人でありパイロットでもあるユーリ・ガガーリン。ボストーク3KA-2で宇宙を飛行することに成功しました。

宇宙を飛んでいるあいだ、ガガーリンは中尉から少佐に昇進。2階級飛ばして出世しました。これは、ソ連関係者はガガーリンは生きて帰れないと思ったからです。しかしながらガガーリンはパラシュートで脱出、無事に帰還しました。

ソビエト連邦の崩壊

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Series: Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989 Collection: White House Photographic Collection, 1/20/1981 - 1/20/1989 - https://catalog.archives.gov/id/75854433, パブリック・ドメイン, リンクによる

1988年ごろからソビエト連邦の内部は分裂。ソ連はさまざまな国をまとめていましたが、脱退を画策する国が出現。さらにクーデーター等が多発し、まとまりがなくなっていきます。

\次のページで「ベルリンの壁の崩壊により加速」を解説!/

ベルリンの壁の崩壊により加速

1948年6月にソ連がベルリン封鎖を行うと、1949年に西側が西ドイツをつくります。それに対抗するようにソ連が東ドイツの樹立を宣言。長らくドイツは東西で分裂したままでした。しかしながら東ドイツは、西ドイツと比べると貧しく、東ドイツの住民の国外逃走が多発しました。

そこでフルシチョフが作ったのがベルリンの壁。しかしながら1989年、ソ連からの独立を求める機運が強まり、ベルリンの壁が強行的に破壊されました。それにより東西に分かれていた国境が開放されます。ソ連崩壊を一気に推し進めました。

ゴルバチョフ共産党書記長の辞任

ゴルバチョフが共産党書記長になったのはソ連が崩壊寸前だったころ。社会主義を徹底することに限界を感じたゴルバチョフは自由化を進めていきます。ソ連の遅れている点を認めて、立て直し政策の「ペレストロイカ」を推進しました。

ドイツの統合については国内の問題であると容認。それに反発する強硬派に命を狙われます。共産党のリーダーだったボリス・エリツィンはゴルバチョフを拘束。自由にする代わりにその地位をはく奪させました。それによりソ連は解体の道を進みます。

ゴルバチョフの愛称は「ゴルビー」。ソ連がらみの指導者のなかでは、唯一国際的に愛されました。ソ連の指導者時代、徹底的に融和政策をすすめました。第2次大戦後、シベリアに抑留されていた旧日本軍人の名誉も回復。1991年には日本を公式に訪問し、北方領土問題の解決にも尽力しました。それはソ連の指導者として初めてのこと。亡くなるまで、プーチン政権による民主化の弾圧についても政治の外から警告を鳴らし続けました。

ソビエト連邦は本当に消滅したの?

ソビエト連邦は制度上は消滅しましたが、その栄光を懐かしむロシア国民も多いそうです。ソ連はいろいろな混乱はあったものの、超大国として威厳を放ってしました。解体後、旧ソ連国は決して裕福になっていません。ソ連に対する郷愁を強く抱いているのがロシア連邦大統領のウラジミール・プーチン。ソ連時代の「強いロシア」の復活を熱望しています。そういう意味では、ソ連はまだロシアに残っていると言ってもいいかもしれません。

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ソビエト連邦ロシアロシア革命ロマノフ朝世界史

世界初の社会主義国家「ソビエト連邦」とは?その軍事力や科学技術力について元大学教員が5分でわかりやすく解説

かつて存在していた社会主義国家であるソビエト連邦。それが崩壊する瞬間をリアルタイムで見た人は徐々に少なくなっている。

ソビエト連邦とはどんな国家だったのか。軍事力と科学技術力に焦点を当てて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アメリカと肩を並べた大国であったソ連にも興味がある。そこで、そもそもソビエト連邦とは何だったのか調べてみることにした。

世界初の社会主義国家、ソビエト連邦

19191107-lenin second anniversary october revolution moscow.jpg
L.Y. Leonidov – http://belregnews.ru/wp-content/uploads/2012/08/im.2012.08.11-10.07.31.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

正式名称はソビエト社会主義共和国連邦。ソビエト連邦あるいはソ連と呼ばれることもあります。ソビエト連邦は世界で初めての社会主義国家。ソビエト連邦共産党の一党独裁がしかれました。

ソビエト連邦の初代指導者はレーニン

ソビエト連邦の初代指導者が、ボリシェヴィキを率いたウラジーミル・レーニン。ロマノフ王朝が支配するロシア帝国を倒して樹立しました。とはいえ、反ボリシェヴィキ勢力も多く、しばらくのあいだは内戦が続きました。

反ボリシェヴィキの最大派閥となるのが白軍。そこでレーニンはボリシェヴィキ側を赤軍と位置づけ、赤色テロを展開しました。内戦で打ち勝ったボリシェヴィキは、ロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシを統合。ソ連を樹立しました。

党書記長スターリンの独裁

レーニンが脳卒中により亡くなったあと、党書記長として力を発揮したのがにヨシフ・スターリンです。レーニン時代も反革命勢力の粛清はありましたが、スターリンはそれをさらに激化させました。

ソビエト連邦の工業化を一気に進め、農業や農場の集団化も加速させました。すべての農民をコルホーズに組み込み、富裕者層の撲滅を図ります。無理な集団化の影響により飢餓を引き起こしたと批判されることもありました。

冷戦期に軍事力を増強させたソビエト連邦

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ソビエト連邦は、高度な軍事力を持っているとされています。軍事力を一気に増強させたのは東西冷戦時代。スターリンが亡くなったあと権力を持ったニキータ・フルシチョフによる指導体制の時代です。

フルシチョフはスターリンの体制を批判

フルシチョフは、スターリンが亡くなったあと、彼の体制を大々的に批判します。フルシチョフはスターリン時代の粛清を告発、そこからの決別を宣言しました。それをきっかけに反体制が勃発。しかしフルシチョフはそれを鎮圧します。

多くの犠牲者を出したのがハンガリー動乱。全国規模で行われた民衆によるデモ行進です。ソ連軍の指示によりハンガリー政府が民衆を鎮圧しました。ハンガリーでは、このときの鎮圧については、長らく語られてきませんでした。

フルシチョフが率いるソ連は、ハンガリーの運動を「反革命」と断定。徹底的に弾圧します。スターリン派であるカーダールをトップに据えて親ソ政権を樹立。ハンガリーがソ連から独立したら、東ヨーロッパに反革命の波が広がると危惧して政権に関与しました。カーダールの政権は1980年代まで続きました。ハンガリー動乱は現在「国民革命」の先駆けとして再評価されています。

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