昭和初期に軟弱と呼ばれた「幣原外交」とは?その詳細や果たした役割などを歴史好きライターがわかりやすく解説
幣原喜重郎が中心となって行った外交は、国際協調を重要視したものです。しかし、当時の日本では「軟弱外交」と批判されてしまった。なぜそのようなことになったのか、知りたい人は多いでしょう。
幣原外交の詳しい内容や果たした役割などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
日英同盟により参戦
1902(明治35)年に、有効期限5年で日英同盟が調印。その後、日本が日露戦争で善戦したことなどが理由で、1905(明治38)年と1911(明治44)年には期限が延長されます。当初、日英同盟の適用範囲は中国と朝鮮だけでしたが、改訂によりインドまで拡大されました。
また、改訂では同盟国の一方が他国と交戦した場合はもう一方も助けるために参戦するよう義務付けられています。1914(大正3)年に日本が第一次世界大戦に参戦したのは、日英同盟を結んでいたからでした。日本が戦闘に加わることはほとんどありませんでしたが、戦勝国として名を連ねました。
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対華21カ条要求
日英同盟により第一次世界大戦に参戦した日本は、中国にあるドイツの権益を日本に継承させるよう要求します。その頃の欧米諸国は、第一次世界大戦の真っ最中でアジアに目が向く余裕はありませんでした。さらに、中国が辛亥革命が起こった後で混乱していたため、日本がその機に乗じて要求を突きつけたのです。
5項21カ条からなる要求は、日英同盟の範囲を超え、中国に対して強硬的なものでした。ドイツの権益とは関係がない鉄道敷設権や、中国政府での日本人の雇用なども要求していたのです。中国は反発しましたが、日本は要求の一部を削除して最後通牒を発し、中国に承諾させました。それ以降、中国では反日運動が激化します。
パリ講和会議
1919(大正8)年から、第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれました。世界から30カ国以上集まりましたが、会議を先導したのは、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本のいわゆる五大国でした。日本からは、西園寺公望元首相や牧野伸顕元外相らが出席しました。
パリ講和会議では、ドイツに対する措置などが話し合われ、合意が成立。ヴェルサイユ講和条約が調印され、第一次世界大戦は終結しました。また、アメリカのウィルソン大統領は十四か条の平和原則を示し、新たな外交理念を提唱します。ウィルソンが提唱したことは、その後の国際連盟設立につながりました。
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「幣原外交」を生んだ幣原喜重郎とは
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ところで、「幣原外交」の生みの親である幣原喜重郎とは、どのような人物なのでしょうか。ここでは、幣原の前半生を駆け足で見ていくことにしましょう。
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