ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ソ連の政治警察「秘密警察チェーカー」とは?創設の経緯とその後の展開について元大学教員が5分でわかりやすく解説

チェーカーによる残虐な拷問

チェーカーの拷問の方法も残虐化していきます。十字架にはりつけにされる、絞首刑にされる、クギを打ち付けられるなどしました。生きている状態で皮膚がはがされ、苦痛を伴いながら命を奪うこともありました。女性は処刑になる前に性的虐待を受けました。

ウクライナにもチェーカーが派遣され、なかには中国人チェーカーにより構成された部隊もありました。はりつけた状態でネズミを放ち、かじらせながら殺すという処刑をしていたことも分かっています。ロシア人が処刑するのを嫌がった場合、外国人のチェーカーが代わりを担いました。

アルトゥール・アルトゥゾフはチェーカー組織の初代トップ。ボリシェビキに入党して力を付けました。チェーカーのトップに登り詰めたあとは国内外でスパイ活動を展開。反ソ連の白軍の破壊、関係者の粛清にも関わりました。そんなアルトゥール・アルトゥゾフですが、チェーカー内部の抗争に敗北。1937年、最終的に死刑を言い渡され、その日のうちに執行されました。このようにチェーカー内部で粛清しあうことは、頻繁にあったようです。

チェーカーにより処刑された人々

image by PIXTA / 62865045

チェーカーによって、どれだけの人々が処刑されたのかは、はっきりとは分かりません。権限が拡大されたこともあり、報告されていないが処刑されているケースも多々あるからです。

チェーカーによる処刑人数は不明

チェーカーを創設したジェルジンスキーを補佐していた人物によると、チェーカーにより処刑された人の数は1万2千733人ほど。チェーカー内部の報告であるため、実際はそれ以上に処刑されていると推測できます。その後の研究により5万人は超えているという見積りも出されました。

ロシア革命前と比べるとどうでしょうか。ある研究によると、革命前後で処刑者数は5倍に膨れ上がっています。そこから、もしかすると処刑者数は50万人を超えるという見方もありますが定かではありません。

チェーカーは国を救うために処刑を容認

大量虐殺とも言える活動を展開したチェーカー。それだけの人々を虐殺しても、レーニンは動じませんでした。なぜなら、国を救うためにやむを得ない、正当な理由があると考えていたからです。そのためチェーカーの権限を独断で拡大していきました。

海外とくに西側諸国では、チェーカーとして活動する者を「チェキスト」と呼び、今では「汚れた者」という侮蔑語として定着しました。しかしながらロシア国内では「正しいコミュニスト」の代名詞。尊敬の念を込めてチェキストと呼ばれてきました。

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