ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ソ連の政治警察「秘密警察チェーカー」とは?創設の経緯とその後の展開について元大学教員が5分でわかりやすく解説

レーニンは死刑を復活

当初のチェーカーは少人数。100人に満たない人数で構成されていました。それが徐々に拡大。モスクワの反革命分子が立てこもっている家を組織的かつ計画的に襲撃し、520人を拘束することもありました。その後、レーニンはこれまで廃止されていた死刑を復活、粛清の準備を進めます。

ロシア皇帝ニコライ2世をはじめとするロマノフ家を処刑。それをきっかけに、粛清の対象は階級が基準となります。反革命の立場かどうか以上に、元ロシア帝国の関係者、貴族、富裕層などが粛清の基準とされました。

ロシア帝国時代の18世紀、女帝エリザヴェータの時代にロシアでは死刑は禁止されました。しかしながら、シベリアに流刑して強制労働をさせる、全財産を没収するなど、結果的に命が奪われるような刑は行われてきました。ロシア帝国末期は、革命的なグループに対して、死刑を執行することが増加。1917年の革命後、いちどは死刑を禁止しますが復活させます。死刑にされる人の数は相当数に及びました。

赤色テロによりチェーカーの活躍の場が広がる

1918年、社会革命党の蜂起の最中に、チェーカーのひとりが暗殺されます。そのあとレーニンの暗殺未遂騒動も起きました。そこでレーニンが宣言したのが「赤色テロ」の勃発。たくさんの人々が処刑されましたが、なかには反革命とは無関係の人もいました。

ロシア全土を襲った飢饉による生活苦で、1918年夏に農民が反乱。そのとき活躍したのがチェーカーです。見せしめのために富裕層が公開処刑。不満がくすぶる農民たちを恐怖政治により抑え込みました。

レーニンは「赤色テロ」や「白色テロ」という言葉をよく使います。赤色テロは革命勢力や反政府勢力などが起こすテロのこと。一方、白色テロは旧政権を支持する復古主義者が起こすテロのことです。レーニンはキャッチーな言葉を生み出す能力に長けており、それでたくさんの人民を動員してきたのかもしれませんね。

チェーカーによる処刑方法

チェーカーは、強力な権限を手に入れて残酷な処刑を行ったと言われています。帝政時代のブルジョワジーは、チェーカーにとって「人民の敵」あるいは「反革命分子」。処刑する際もきちんとした取り調べを行うことはなし。冤罪も多数ありました。

内部の対立が激化するチェーカー

反乱に関わった軍人は無条件で処刑。一般の人も些細な理由で拘束されました。チェーカーのあいだの信頼関係も崩れ、内部で処刑しあうことも少なくありませんでした。処刑される恐怖のために、チェーカー自身も怯えながら活動するようになりました。

チェーカーのミッションはロシア民族主義を払拭すること。それが反革命の意識と結びついていると考えられていたからです。そのためチェーカーとして活動するのはロシア人以外も多数。とくにポーランド人やユダヤ人を補充するようになり、そこで頭角を現す者もいました。

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