ロシア革命後にレーニンが創設したのがチェーカー。反革命を弾圧する政治警察のことです。ロシアのブルジョワ層を弾圧・粛清したチェーカーは、ソ連の国家運営組織のなかで大きな影響力を誇るようになる。

そんなチェーカーがどうして創設されたのか、活動の内容はその後の展開について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国であったロシアやソ連にも興味がある。今回はレーニンの時代に創設された政治警察であるチェーカーについて調べてみた。

ソビエト・ロシア初期に暗躍した政治警察チェーカー

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By Unknown author - Российский государственный военный архив, Public Domain, Link

1917年に十月革命が起こったあと、革命に反対するロシア帝国関係者によるストライキが全国に広がります。そこでレーニンが率いるボリシェヴィキは、反革命分子を抑え込む必要が生じました。そこで結成されたのが政治警察チェーカーです。

レーニンがチェーカーの組織化を命じる

ソビエト連邦の初代指導者であるウラジーミル・レーニンは、反革命の動きを封じるためフェリックス・ジェルジンスキーに対策を講じるように命令。このときレーニンが依頼したのは「サボタージュと反革命と闘うための例外的な手段を取る」ことです。

ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」を設立。人民委員会議にその草案を提出し、認められました。その員会のミッションは、反革命運動の監視と撲滅、反革命分子に対する裁判の実行、三部の委員会による予備審査です。

フランス革命をモデルに創設された

レーニンがフェリックス・ジェルジンスキーに求めたのはフランス革命時の革命裁判所検事のような立ち振る舞い。アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルを意識させました。そこで彼を「断固たるプロレタリア的ジャコバン」と命名、員会の組織化を命じました。

ジャコバンとはフランス革命期の政治結社のこと。ロベスピエールが中心になって活動し、フランス革命を主導したことでも知られています。フランス革命のプロレタリアート版が、レーニンにとってのロシア革命だったのかもしれません。

ロシア内戦により権限が広がるチェーカー

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By Лев Яковлевич Леонидов (1889 – 1952) [4] - РГАКФД, Шифр: Д-67 ч/б [2]; Музей политической истории России F.III-38054 [3], Public Domain, Link

十月革命のあと、西側諸国が反ボリシェヴィキを支援してロシア内戦が勃発します。それをきっかけにレーニンはチェーカーの権限を拡大。裁判所の決定を待つことなく危険とされる人物を逮捕したり投獄したりできるようにします。

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レーニンは死刑を復活

当初のチェーカーは少人数。100人に満たない人数で構成されていました。それが徐々に拡大。モスクワの反革命分子が立てこもっている家を組織的かつ計画的に襲撃し、520人を拘束することもありました。その後、レーニンはこれまで廃止されていた死刑を復活、粛清の準備を進めます。

ロシア皇帝ニコライ2世をはじめとするロマノフ家を処刑。それをきっかけに、粛清の対象は階級が基準となります。反革命の立場かどうか以上に、元ロシア帝国の関係者、貴族、富裕層などが粛清の基準とされました。

ロシア帝国時代の18世紀、女帝エリザヴェータの時代にロシアでは死刑は禁止されました。しかしながら、シベリアに流刑して強制労働をさせる、全財産を没収するなど、結果的に命が奪われるような刑は行われてきました。ロシア帝国末期は、革命的なグループに対して、死刑を執行することが増加。1917年の革命後、いちどは死刑を禁止しますが復活させます。死刑にされる人の数は相当数に及びました。

赤色テロによりチェーカーの活躍の場が広がる

1918年、社会革命党の蜂起の最中に、チェーカーのひとりが暗殺されます。そのあとレーニンの暗殺未遂騒動も起きました。そこでレーニンが宣言したのが「赤色テロ」の勃発。たくさんの人々が処刑されましたが、なかには反革命とは無関係の人もいました。

ロシア全土を襲った飢饉による生活苦で、1918年夏に農民が反乱。そのとき活躍したのがチェーカーです。見せしめのために富裕層が公開処刑。不満がくすぶる農民たちを恐怖政治により抑え込みました。

レーニンは「赤色テロ」や「白色テロ」という言葉をよく使います。赤色テロは革命勢力や反政府勢力などが起こすテロのこと。一方、白色テロは旧政権を支持する復古主義者が起こすテロのことです。レーニンはキャッチーな言葉を生み出す能力に長けており、それでたくさんの人民を動員してきたのかもしれませんね。

チェーカーによる処刑方法

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By Ivan Vladimirov - https://www.wikiart.org/en/ivan-vladimirov/all-works, Public Domain, Link

チェーカーは、強力な権限を手に入れて残酷な処刑を行ったと言われています。帝政時代のブルジョワジーは、チェーカーにとって「人民の敵」あるいは「反革命分子」。処刑する際もきちんとした取り調べを行うことはなし。冤罪も多数ありました。

内部の対立が激化するチェーカー

反乱に関わった軍人は無条件で処刑。一般の人も些細な理由で拘束されました。チェーカーのあいだの信頼関係も崩れ、内部で処刑しあうことも少なくありませんでした。処刑される恐怖のために、チェーカー自身も怯えながら活動するようになりました。

チェーカーのミッションはロシア民族主義を払拭すること。それが反革命の意識と結びついていると考えられていたからです。そのためチェーカーとして活動するのはロシア人以外も多数。とくにポーランド人やユダヤ人を補充するようになり、そこで頭角を現す者もいました。

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チェーカーによる残虐な拷問

チェーカーの拷問の方法も残虐化していきます。十字架にはりつけにされる、絞首刑にされる、クギを打ち付けられるなどしました。生きている状態で皮膚がはがされ、苦痛を伴いながら命を奪うこともありました。女性は処刑になる前に性的虐待を受けました。

ウクライナにもチェーカーが派遣され、なかには中国人チェーカーにより構成された部隊もありました。はりつけた状態でネズミを放ち、かじらせながら殺すという処刑をしていたことも分かっています。ロシア人が処刑するのを嫌がった場合、外国人のチェーカーが代わりを担いました。

アルトゥール・アルトゥゾフはチェーカー組織の初代トップ。ボリシェビキに入党して力を付けました。チェーカーのトップに登り詰めたあとは国内外でスパイ活動を展開。反ソ連の白軍の破壊、関係者の粛清にも関わりました。そんなアルトゥール・アルトゥゾフですが、チェーカー内部の抗争に敗北。1937年、最終的に死刑を言い渡され、その日のうちに執行されました。このようにチェーカー内部で粛清しあうことは、頻繁にあったようです。

チェーカーにより処刑された人々

image by PIXTA / 62865045

チェーカーによって、どれだけの人々が処刑されたのかは、はっきりとは分かりません。権限が拡大されたこともあり、報告されていないが処刑されているケースも多々あるからです。

チェーカーによる処刑人数は不明

チェーカーを創設したジェルジンスキーを補佐していた人物によると、チェーカーにより処刑された人の数は1万2千733人ほど。チェーカー内部の報告であるため、実際はそれ以上に処刑されていると推測できます。その後の研究により5万人は超えているという見積りも出されました。

ロシア革命前と比べるとどうでしょうか。ある研究によると、革命前後で処刑者数は5倍に膨れ上がっています。そこから、もしかすると処刑者数は50万人を超えるという見方もありますが定かではありません。

チェーカーは国を救うために処刑を容認

大量虐殺とも言える活動を展開したチェーカー。それだけの人々を虐殺しても、レーニンは動じませんでした。なぜなら、国を救うためにやむを得ない、正当な理由があると考えていたからです。そのためチェーカーの権限を独断で拡大していきました。

海外とくに西側諸国では、チェーカーとして活動する者を「チェキスト」と呼び、今では「汚れた者」という侮蔑語として定着しました。しかしながらロシア国内では「正しいコミュニスト」の代名詞。尊敬の念を込めてチェキストと呼ばれてきました。

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チェーカーからKGBへ

image by PIXTA / 91778444

チェーカーはソ連内部にあるさまざまな組織と統合され、形を変えながら存続します。このようにして、チェーカーの国家保安機能は内務省に含まれてしましたが、再び独立しました。それが、国家保安委員会(KGB)です。KGBは、最高権力者と並ぶほどの権力を持っているとされました。

チェーカーからスパイ活動を引き継いだKGB

KGBはチェーカー時代の任務の多くを引き継ぎました。その任務は多岐にわたりますが、簡単に言うとスパイ活動です。そのひとつが資本主義諸国、とくに西側のNATO参加国。また、ソ連の体制を揺るがすスパイ、工作活動、テロ組織を壊滅させることもミッションとしました。反ソ連の人々の取り締まりも同様です。

KGBのもうひとつの重要な任務が国境の整備。ソ連の西方の国々は、西欧諸国の影響を受けやすく、その拡大をとどめることは必須でした。その活動の既定を作成したのがソ連共産党政治局。ソ連の政策の内容を決定し、それを管理する組織です。中央委員会の幹部により構成されました。

冷戦時代はCIAと並ぶ力を持ったKGB

チョーカーからKGBと形を変えたものの、その影響力は健在です。東西の冷戦時代は、アメリカ合衆国のCIA、中央情報局と肩を並べるほどの力を持ちました。KGBのスタッフは、主に西側諸国に派遣され、重要機密情報の収集に関わりました。

しかしながらソ連の崩壊によりKGBも解体されます。チョーカー時代からはぐくまれてきた機能は、複数の機関に分散。現在あるのはロシア連邦保安庁やロシア対外情報庁。国境任務については、ロシア国境軍に引き継がれました。

KGBにはさまざまな部署があり、その分野に長けたエリートが集められました。とくにスパイ活動を行う諜報部門は高い専門性が求められました。KGBの人事採用担当者は、優秀な人物がいる大学や企業に赴き、直接ヘッドハンティングすることもあったようです。とくに法学部の出身者が有利とされました。また、ソ連が掲げる目標に心酔しており、外見は個性がなく目立たないものがベター。芸術家やスポーツ選手などのインテリ層が採用されるケースも多かったようですよ。

チェーカーの伝統は今でも続く

チェーカーは、ロシア革命後に、反体制勢力を抑圧するために組織化されました。レーニンの傘下にあったとされますが、実際は国家を左右するほどの強大な影響力を持っていました。チェーカーの影響力を抑えたいという人もいましたが、それは叶わず。その影響力はKGBに改組されたあとも続きます。ソ連崩壊後、チェーカーの伝統は形をかえて存続。ロシアのウクライナ進攻では、ロシア兵がやりたい放題で、拷問や虐殺をしているという報道がありますが、もしかしたらチェーカーの伝統が残っているのかもしれません。軍事行動が行われたら、どんなことが行われているのか、注意して見ていくことも大切です。

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ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ソ連の政治警察「秘密警察チェーカー」とは?創設の経緯とその後の展開について元大学教員が5分でわかりやすく解説

ロシア革命後にレーニンが創設したのがチェーカー。反革命を弾圧する政治警察のことです。ロシアのブルジョワ層を弾圧・粛清したチェーカーは、ソ連の国家運営組織のなかで大きな影響力を誇るようになる。

そんなチェーカーがどうして創設されたのか、活動の内容はその後の展開について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国であったロシアやソ連にも興味がある。今回はレーニンの時代に創設された政治警察であるチェーカーについて調べてみた。

ソビエト・ロシア初期に暗躍した政治警察チェーカー

1917年に十月革命が起こったあと、革命に反対するロシア帝国関係者によるストライキが全国に広がります。そこでレーニンが率いるボリシェヴィキは、反革命分子を抑え込む必要が生じました。そこで結成されたのが政治警察チェーカーです。

レーニンがチェーカーの組織化を命じる

ソビエト連邦の初代指導者であるウラジーミル・レーニンは、反革命の動きを封じるためフェリックス・ジェルジンスキーに対策を講じるように命令。このときレーニンが依頼したのは「サボタージュと反革命と闘うための例外的な手段を取る」ことです。

ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」を設立。人民委員会議にその草案を提出し、認められました。その員会のミッションは、反革命運動の監視と撲滅、反革命分子に対する裁判の実行、三部の委員会による予備審査です。

フランス革命をモデルに創設された

レーニンがフェリックス・ジェルジンスキーに求めたのはフランス革命時の革命裁判所検事のような立ち振る舞い。アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルを意識させました。そこで彼を「断固たるプロレタリア的ジャコバン」と命名、員会の組織化を命じました。

ジャコバンとはフランス革命期の政治結社のこと。ロベスピエールが中心になって活動し、フランス革命を主導したことでも知られています。フランス革命のプロレタリアート版が、レーニンにとってのロシア革命だったのかもしれません。

ロシア内戦により権限が広がるチェーカー

Lenin, Trotsky and Voroshilov with Delegates of the 10th Congress of the Russian Communist Party (Bolsheviks).jpg
By Лев Яковлевич Леонидов (1889 – 1952) [4]РГАКФД, Шифр: Д-67 ч/б [2]; Музей политической истории России F.III-38054 [3], Public Domain, Link

十月革命のあと、西側諸国が反ボリシェヴィキを支援してロシア内戦が勃発します。それをきっかけにレーニンはチェーカーの権限を拡大。裁判所の決定を待つことなく危険とされる人物を逮捕したり投獄したりできるようにします。

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