ロシアのプーチン大統領のウクライナ進攻により注目されることが増えたのがウラジーミル・レーニン。プーチンの言動には「反レーニン」が潜んでいるとも言われているぞ。ロシア革命の立役者のひとりであったウラジーミル・レーニンとはどんな人物だったのでしょうか。

ウラジーミル・レーニンの人物像、思想、後世に与えた影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国として世界に影響を与えてきたロシアが今、大きく揺らいでいる。ウクライナ進攻はどうして行われているのか、その背景を探るためにウラジーミル・レーニンについて調べてみることにした。

ソビエト連邦の初代指導者ウラジーミル・レーニンの幼少期

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ウラジーミル・レーニンはソビエト連邦の初代指導者。ロシア革命を導いた政治家であり哲学者でもあります。社会主義国家を樹立させたマルクス主義者。経済や政治思想に関わる著作もたくさん残しました。彼の思想は「マルクス・レーニン主義」と言われ、後世に少なからず影響を残しました。

元農奴の父親を持つウラジーミル・レーニン

レーニンの父親の名前はイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ。帝政ロシア元農奴の家系に生まれました。農奴とは、移動や結婚の自由を許されない、土地に縛られた農民のこと。貧しい家の生まれでしたが、頭脳明晰な父親は大学で物理学を学び、最下層を脱出しました。

レーニンの母となるマリアと結婚。マリアは裕福な家の生まれでした。父親はキリスト教に改宗。レーニンも生後6日で洗礼を受けました。父親はロシア正教徒、母親はルーテル教会の信徒。父親は敬虔な信者でしたが、母親は形だけの信者でした。ふたりともリベラルな考えを持っており、農奴制についても廃止を支持してしました。

父親の死後に信仰を捨てたウラジーミル・レーニン

1886年1月に父親が脳内出血によって亡くなると、レーニンの言動にも変化があらわれます。攻撃的になり信仰も捨てました。学業は順調で、中高等学校を断トツの成績で卒業しました。大学では法学を学ぶものの、学生運動に関わって警察に拘束。退学を余儀なくされます。

追放中にレーニンが読みふけったのが革命小説。故郷に戻ったあとも革命サークルに入るなど思想を固めていきます。このときに出会ったのがカール・マルクスの『資本論』。マルクスとエンゲルスにより発表された『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けたのもレーニンです。

ロシア革命で頭角をあらわすウラジーミル・レーニン

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By Nadezhda Konstantinovna Krupskaya (1869-1939) - http://www.marxists.org/archive/lenin/photo/1895-1917/1897-1.htm, Public Domain, Link

1905年、血の日曜日事件が起こり、ロシア帝国全土で革命の波が広がります。中心的な役割を果たした革命家のひとりがウラジーミル・レーニン。労働者と農民による民主的な独裁の実現を訴えました。

ウラジーミル・レーニンが支持する労農同盟

労働者と農民による民主的な独裁とは、労農同盟と呼ばれるマルクス主義の用語。労働者と農民がそれぞれの階級的な利益を擁護しあうという考え方です。レーニンは農奴の家系に連なる生まれであることから、農民の地位を向上させるこマルクス主義に惹きつけられてのでしょう。

第一次世界大戦中、レーニンは自身の社会主義思想を『帝国主義論』としてまとめ上げます。帝国主義に発展した資本主義は腐敗し、次のステージにある社会主義に取って代わられる運命にあると主張。ロシア革命の正当化を試みました。

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ボリシェビキを指導するためにロシアに帰還

1917年2月、二月革命が首都ペトログラードで勃発、ロシア皇帝ニコライ2世は退位しました。レーニンは妻と共にオーストリア=ハンガリー帝国領にいましたが、ボリシェビキを指導するためにロシアに帰還。ロシア臨時政府を批判する演説を行いました。

レーニンが主張したのは、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国との和解、ソビエトの権力強化、産業の国有化、国家による土地の収用など。レーニンの「すべての権力をソビエトへ」というスローガンは革命を加速させるために大々的に利用されました。

大ロシア主義を破壊したのがウラジーミル・レーニン

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プーチン大統領のウクライナ進攻の根底にあるのは「大ロシア主義」。ロシア人が他の国や民族に対して優位に立つという考え方です。同様にロシア皇帝のニコライ2世は、バルカン半島のスラヴ系民族が団結する「汎スラヴ主義」を利用して、オーストリア・ハンガリーに対抗しました。

第一次世界大戦により困窮したのが農民

ロシア軍を総動員してオーストリア・ハンガリーに対抗することで国民の生活は困窮。近代化が遅れていたこともあり、戦争の長期化で被害がふくれあがりました。亡くなる兵士の数も多く、軍隊の損害は膨らむ一方。そこで働き盛りの農民が兵士として大量に動員されました。

その結果、農民の生活は困窮化。都市には食べ物が届かなくなりました。そんななか生まれたのが社会主義国家を樹立するという構想。レーニンは「大ロシア主義」を徹底的に破壊し、それぞれの国や民族に自治権を与え、ソ連として「連邦化」したのです。

第一次世界大戦からの離脱がレーニンの方針

そしてレーニンたちは戦争離脱を試みます。ドイツおよびオーストリア=ハンガリーに対して休戦を提案。第一次世界大戦の終結に向けてブレスト=リトフスク条約を締結します。1917年から1921年にかけてのウクライナとの戦争も停止。ウクライナはソビエト連邦の構成国になりました。

条約締結の結果、ロシアの規模は一気に縮小。旧ロシア帝国の人口の26パーセントがドイツ帝国に移ります。農業用地、産業、鉄や石炭の埋蔵地の多くも失いました。レーニンの判断を批判するボリシェビキも多く、人民委員会議を離れる者も続出しました。

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ウラジーミル・レーニンの社会主義国家の運営

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ウラジーミル・レーニンはソ連発足後、さまざまな改革を行います。それは自身で構想したマルクス主義に戻づく国家を構築することでもありました。世界史上初めて発足した社会主義国家。独裁性も強まっていきます。

土地、労働、生活の平等を目指す

ウラジーミル・レーニンの改革の大きな柱のひとつが土地の国有化です。広域な土地を所有し、農奴を縛り付けていた貴族の土地を国が買収。ロシア正教会の土地もはく奪しました。それらを農民に再分配しました。

労働者を苦しめていた労働時間も制限。8時間までと定めます。また、子どもが教育を受ける機会も均等に与えられると約束しました。社会主義の理想は「平等」。そこで男女平等の政策も進められ、離婚に関する制約も撤廃。女性の意思があれば妊娠中絶することも合法化されました。

宗教と反革命に対しては厳しい姿勢を貫く

ウラジーミル・レーニンは、敬虔な正教徒であった父親の影響もあって、宗教に嫌悪感を抱いていました。そこで徹底した無神論を貫きます。個人の信仰心は許容するものの宗教の組織化はNG。教会と国家の分離が宣言されました。学校で宗教教育を行うことも禁止されました。

同時に反革命組織の解体も徹底します。「チェーカー」という反革命取り締まり組織を創設し、反ボリシェヴィキ勢力を抑え込みました。飢饉の際は農民の反乱を防ぐために富裕層を絞首刑にするなど独裁的な一面もありました。

独裁色を強めるウラジーミル・レーニン

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1918年9月に人民委員会議は反政府勢力を組織的に弾圧することを決定。数多くの人が犠牲になります。主に富裕層やロシア帝国の元関係者が粛清の対象となりました。政府の敵と見なされた人が次々と処刑。その被害者は14万人に及ぶという研究結果もあります。

秘密裡で行われた大規模な粛清

レーニンは粛清する際、文書のなかの記号などで指示を出すのみ。処刑される際に立ち会うこともなく、一定の距離を保っていました。レーニン個人ではなく人民委員会議の方針という形をとり続けました。

大規模な処刑はすべてのボリシェヴィキに支持されてわけではありません。チェーカーの権限を制限する動きも見られましたが、実際はそのまま活動を続けました。1920年ごろになるとチェーカーの影響力が大きくなり、国の最高権力に等しい力を持つ存在となります。

ヨーロッパ諸国の革命を支援するための準備も進める

レーニンはヨーロッパ諸国でも革命が巻き起こると予想。まずはハンガリーの共産主義政権の樹立を援護します。ドイツの社会主義者による蜂起をみて、国際共産主義組織である「コミンテルン」を創設する大会をモスクワで行いました。そこでレーニンは、ヨーロッパのブルジョワ政権の転覆を呼びかけます。

マルクス主義では資本主義の次のステージが社会主義。しかしレーニンは、資本主義を飛ばして直接社会主義に移行するべきであると訴えました。レーニンが狙ったのは世界的な革命。しかし、ハンガリーの共産主義政権は転覆され、ドイツの蜂起も消滅。実現には至りませんでした。

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晩年のウラジーミル・レーニンとその後

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By Isaak Brodsky - Self-photographed, shakko, Public Domain, Link

1923年3月、脳卒中発作の影響により話すことができなくなったレーニン。右半身も麻痺し、言葉の理解もままならなくなりました。動脈硬化が悪化、昏睡状態の末に亡くなりました。レーニンの遺体は、モスクワの中心部にある「赤の広場」に移送され、霊廟に安置されます。

個人崇拝に利用され続けたウラジーミル・レーニン

ソ連ではレーニン存命中から個人崇拝が始まっていましたが、亡くなったあとさらに加速。レーニンを讃えるために各地で銅像が建てられました。切手やポスターもレーニンだらけ。建物や道路もレーニンにまつわる名前に改称されます。宗教の創始者であるかのように崇拝されました。

レーニンの個人崇拝は社会主義化した各国にも波及します。レーニンの個人崇拝が徹底されたのがウクライナ。数千もの銅像が建てられました。キエフなどの都市のレーニン像は銅製、地方の学校や工場にはセメント製の像が建てられたのです。

ソ連が崩壊したあとに破壊されるレーニン像

ソ連をまとめ上げるために死後も利用されてきたレーニン。ソ連が崩壊したあと、構成国はレーニン像を破壊し始めます。巨大なレーニン像はひっくり返され、粉々にされました。地下室に捨てられる、ひっくり返ったまま放置されるなど、かつての威厳は跡形もなくなりました。

しかしながら、ロシアでは今でもレーニンの存在感は一定数あります。名前を冠した通りは健在。レーニン広場には巨大なレーニン像が立っています。プーチン大統領が国民投票をレーニンの誕生日に実施しようとしたこともありました。かつての栄光として、ソ連時代を懐かしむ風潮はあるようです。

死後にソ連の維持のために利用されたレーニン

ソ連の求心力として徹底的に利用され、その崩壊後は徹底的に破壊されたレーニンの存在。とはいえ、レーニンがソ連のトップにいたのはほんのわずかの期間です。実は、権力を持っている期間よりも、偶像として利用されている期間のほうが長いのは皮肉なことですね。プーチン大統領はソ連崩壊がトラウマになっており、レーニンに複雑な感情を持っていると言われています。とはいえ、賛否はあるものの、短い期間で一気にロシア社会そして世界を変えた点は評価できるでしょう。

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ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ソビエト連邦の初代指導者「ウラジーミル・レーニン」はどんな人物?思想や後世への影響も元大学教員が5分でわかりやすく解説

ロシアのプーチン大統領のウクライナ進攻により注目されることが増えたのがウラジーミル・レーニン。プーチンの言動には「反レーニン」が潜んでいるとも言われているぞ。ロシア革命の立役者のひとりであったウラジーミル・レーニンとはどんな人物だったのでしょうか。

ウラジーミル・レーニンの人物像、思想、後世に与えた影響について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アメリカと並ぶ大国として世界に影響を与えてきたロシアが今、大きく揺らいでいる。ウクライナ進攻はどうして行われているのか、その背景を探るためにウラジーミル・レーニンについて調べてみることにした。

ソビエト連邦の初代指導者ウラジーミル・レーニンの幼少期

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ウラジーミル・レーニンはソビエト連邦の初代指導者。ロシア革命を導いた政治家であり哲学者でもあります。社会主義国家を樹立させたマルクス主義者。経済や政治思想に関わる著作もたくさん残しました。彼の思想は「マルクス・レーニン主義」と言われ、後世に少なからず影響を残しました。

元農奴の父親を持つウラジーミル・レーニン

レーニンの父親の名前はイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ。帝政ロシア元農奴の家系に生まれました。農奴とは、移動や結婚の自由を許されない、土地に縛られた農民のこと。貧しい家の生まれでしたが、頭脳明晰な父親は大学で物理学を学び、最下層を脱出しました。

レーニンの母となるマリアと結婚。マリアは裕福な家の生まれでした。父親はキリスト教に改宗。レーニンも生後6日で洗礼を受けました。父親はロシア正教徒、母親はルーテル教会の信徒。父親は敬虔な信者でしたが、母親は形だけの信者でした。ふたりともリベラルな考えを持っており、農奴制についても廃止を支持してしました。

父親の死後に信仰を捨てたウラジーミル・レーニン

1886年1月に父親が脳内出血によって亡くなると、レーニンの言動にも変化があらわれます。攻撃的になり信仰も捨てました。学業は順調で、中高等学校を断トツの成績で卒業しました。大学では法学を学ぶものの、学生運動に関わって警察に拘束。退学を余儀なくされます。

追放中にレーニンが読みふけったのが革命小説。故郷に戻ったあとも革命サークルに入るなど思想を固めていきます。このときに出会ったのがカール・マルクスの『資本論』。マルクスとエンゲルスにより発表された『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けたのもレーニンです。

ロシア革命で頭角をあらわすウラジーミル・レーニン

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By Nadezhda Konstantinovna Krupskaya (1869-1939) – http://www.marxists.org/archive/lenin/photo/1895-1917/1897-1.htm, Public Domain, Link

1905年、血の日曜日事件が起こり、ロシア帝国全土で革命の波が広がります。中心的な役割を果たした革命家のひとりがウラジーミル・レーニン。労働者と農民による民主的な独裁の実現を訴えました。

ウラジーミル・レーニンが支持する労農同盟

労働者と農民による民主的な独裁とは、労農同盟と呼ばれるマルクス主義の用語。労働者と農民がそれぞれの階級的な利益を擁護しあうという考え方です。レーニンは農奴の家系に連なる生まれであることから、農民の地位を向上させるこマルクス主義に惹きつけられてのでしょう。

第一次世界大戦中、レーニンは自身の社会主義思想を『帝国主義論』としてまとめ上げます。帝国主義に発展した資本主義は腐敗し、次のステージにある社会主義に取って代わられる運命にあると主張。ロシア革命の正当化を試みました。

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