今回は、西山事件について学んでいこう。

西山事件は知る権利の判例として有名です。「取材の自由にも一定の制約がある」とされた判例となっている。なぜそのような判決が出たのか、詳しく知りたい人は多いでしょう。

西山事件の経過や裁判の内容、知る権利の他の有名判例について、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

西山事件の背景となった沖縄返還協定とは?

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まずは、西山事件の背景となった沖縄返還協定について、署名されるまでの道筋を見ていくことにしましょう。

沖縄復帰運動

1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約により、日本は朝鮮の独立を承認し、台湾や澎湖諸島の放棄を規定しました。その一方で、沖縄や小笠原諸島はアメリカの信託統治が予定され、日本とは切り離された状態が続くことになります。沖縄の住民は、日本本土へ行くのにもパスポートが必要でした。

1950年代初頭から、沖縄では日本への復帰運動が繰り返し行われました。1956(昭和31)年には、軍用地をめぐりアメリカと沖縄住民の間で緊張が走り、島ぐるみ闘争と呼ばれるほどでした。1960(昭和35)年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、毎年4月に集会やデモ行進が行われるようになります。

沖縄復帰への協議

1964(昭和39)年より総理大臣となった佐藤栄作は、就任当初から沖縄の本土復帰に意欲を示していました。1969(昭和44)年に佐藤は渡米して、ニクソン大統領と日米首脳会談に臨みます。その席で沖縄の本土復帰について話し合われ、両首脳は沖縄の本土復帰に合意しました。

しかし、1970(昭和45)年に入り、日米安全保障条約の延長を反対する安保闘争が激化。さらに反対派は、沖縄の本土復帰に理解を示しつつも、安保条約と沖縄復帰がセットになることを憂慮して反発したのです。それでも、沖縄復帰は進められ、1971(昭和46)年に沖縄返還協定が調印されました

沖縄返還協定の内容は?

沖縄返還協定は、正しくは「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」といいます。沖縄返還協定では、琉球諸島と大東諸島が返還されました。それらには、尖閣諸島も含むとされています。1972(昭和47)年に沖縄返還協定は発効し、沖縄県が復活したのです。

沖縄返還協定では、沖縄を日本に返還するとともに、従来と同様に沖縄の土地を米軍基地として提供することが定められました。また、沖縄でも、日米安保条約を始めとする日米間の条約や協定を適用。地権者に対して、アメリカ側から土地の原状回復費として400万ドルが支払われることが発表されました

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西山事件の経緯

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では、西山事件とはいったいどのようなものだったのでしょうか。事件の経緯を振り返ってみましょう。

社会党による密約問題の暴露

1972(昭和47)年、衆議院の予算委員会で、日本社会党の議員が政府を追及します。議員は、とあるルートから資料を入手していました。それは、外務省が打電した極秘の電報をコピーしたものでした。コピーには、沖縄返還協定について話し合われた内容が書かれていました

その内容は、本来アメリカが沖縄の地権者などへ支払うべき補償費を、日本が支払うというもの。400万ドルを日本が肩代わりするというものでした。政府はコピーが外務省から漏洩したものであると認めました。しかし、アメリカと日本の間に密約があったことは認めませんでした

記者と事務官の逮捕

沖縄返還協定においてアメリカと日本の間に密約があったとする情報を、社会党の議員に提供したのは、事件の名前にもなっている西山という男性の新聞記者でした。しかし、新聞記者の情報入手先が問題視されます。記者は外務省の女性事務官と必要以上に親密な仲となり、事務官から情報を得ていたのです。

2人が不倫関係だったことは、ほどなくして発覚します。そして、国家公務員法の守秘義務に違反したとして、2人は逮捕されました。その数日前までは、アメリカと日本にあった密約の存在が問題となっていましたが、報道の中心は2人の関係や公務員の機密漏洩へと移ったのです。

西山事件の判決

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西山事件では、どのような判決が出たのでしょうか。ここでは、一審と二審・最高裁判決に分けて見ていくことにしましょう。

西山事件の一審判決

西山事件の一審では、被告の1人である記者の判決は無罪でした記者の取材方法は相当性を欠くとした上で、取材の目的には正当性が認められました。外交での交渉内容の秘密が守られる利益と、取材活動による外交交渉の民主的コントロールや国民的利益とを比較して、秘密が守られる利益はさほど大きくないと判断されたのです。

その一方で、事務官には執行猶予付きの有罪判決が下されました事務官の漏洩行為は報道機関の公共的な使命に奉仕するものではなく、正当なものとは認められなかったのです。事務官は一審判決が出た後、控訴はせずに無罪を争うことはしませんでした。西山事件は検察側が控訴して、記者の裁判が続くことになります。

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西山事件の二審と最高裁判決

一審判決が出た後、記者と事務官はそれぞれの職場を辞めました。元記者となった被告には、第二審で執行猶予付きの有罪判決が下されます。判決が覆された理由は、元記者の取材方法でした。元事務官をそそのかして国家公務員法違反になる行動を取らせたことが、違法であると判断されたのです。

最高裁判決でも、元記者は有罪となりました。まず、外交での交渉内容は秘密を保持するのに値するものと認定。一方で、元記者の行為は正当な取材活動の範囲を逸脱するものであり、報道の自由は無制限ではないという判断を下しました。それ以降、この判決が知る権利にも一定の制約を受けるという判例として知られるようになります

西山事件のその後

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21世紀に入ってからも、西山事件に関連する出来事が起きます。果たして、どのようなことが起きたのでしょうか。

アメリカで密約文書が発見される

2000(平成12)年にアメリカで公開された文書には、沖縄返還協定でアメリカと日本との間に密約があったことを裏付けるものがありました西山事件の当事者となった元記者は、国家賠償請求訴訟を提起。密約の存在を知りながら違法に起訴されたとして、国を訴えたのです。

元記者の訴えは、最高裁判決で退けられました。損害賠償請求については、除斥期間を過ぎたものと認定。請求権が消滅したものとして、棄却判決が出されました密約文書を公開しないという当時の日本政府が下した決定も、妥当なものだったと判断されています。

情報公開法の制定

行政機関の保有する情報の公開に関する法律」、通称情報公開法は、2001(平成13)年から施行されました。日本の行政機関が保有する行政文書を、国民が開示を求めることを認めた法律です。この法律でいう「行政文書」とは、行政機関の職員が職務の上で作成や取得した文書・図画・電磁的記録などを指します。

ただし、すべての行政文書の公開を求めることができるわけではありません国の安全に関する情報や、国民に誤解や混乱をもたらすおそれのある情報などについては、非公開とすることができると定められました。公開請求した者は、行政機関の公開内容に不服がある時などには、情報公開審査会に不服申し立てができます

知る権利や報道の自由について争われた他の有名判例

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ここからは、「知る権利」や「報道の自由」について判断が下された、有名な判例を3つ見ていくことにしましょう。

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博多駅テレビフィルム提出命令事件

1968(昭和43)年、アメリカの原子力空母が佐世保港に寄港するのを阻止するため博多駅で下車した学生と、機動隊が激突地元のテレビ局がその様子を取材していました裁判所は証拠として取材テープを提出するよう、テレビ局に命じます。しかし、命令が憲法第21条に違反するものとして、テレビ局が取り消しを訴えました

判決では、報道のための取材の自由に対して、「憲法第21条の精神に照らし十分尊重に値する」などど判断されています。その一方で、公正な裁判の実現など憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることがあるのも否定できないとされました。

法廷メモ訴訟

アメリカのレペタ弁護士は、日本で裁判を傍聴していました研究のためにメモを取りたいと裁判所に許可を求めましたが、認められませんでした。そこでレペタ弁護士は、精神的苦痛を受けたとして、国家賠償請求を提訴しました。なお、この裁判は「レペタ事件」「レペタ訴訟」などとも呼ばれています。

判決は、レペタ弁護士の請求を棄却しました裁判長が法廷警察権などを行使することが違法でないと判断したためです。しかし、憲法21条1項の精神に照らして、傍聴人がメモを取る行為は尊重されるべきとしました。この判決以降、法廷でメモを取るのは特段の事情がある場合だけを除いて認められるようになったのです。

TBSビデオテープ押収事件

TBSのドキュメンタリー番組で、暴力団による債権取り立ての様子が放映されました。その番組をきっかけに、番組で紹介された暴力団員が逮捕されます。裁判所が未放映分のビデオテープを証拠として押収しましたが、TBS側が押収取り消しを申し立てました

判決は棄却ビデオテープに証拠としての価値があり、その一方で、ビデオテープの押収が報道の機会を奪われるものではないと判断されたのです。さらに、番組の取材方法も問題となっています。犯罪者の協力による取材では、取材の自由を保護する必要性が乏しいと結論付けられました

西山事件により知る権利にも一定の制約があると判断された

西山事件では、日米間の密約が明るみに出た反面、記者の行き過ぎた取材方法が問題となります。事件に関わった記者と外務省の事務官は逮捕されました。裁判では、報道機関に他人の権利や自由を侵害する特権はなく、報道の自由が無制限ではないと結論付けられたのです。西山事件の裁判結果は、「知る権利にも一定の制約がある」という判例になりました。

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現代社会

知る権利の判例で有名な「西山事件」とは?事件の経過や他の有名判例などを行政書士試験合格ライターが分かりやすくわかりやすく解説

今回は、西山事件について学んでいこう。

西山事件は知る権利の判例として有名です。「取材の自由にも一定の制約がある」とされた判例となっている。なぜそのような判決が出たのか、詳しく知りたい人は多いでしょう。

西山事件の経過や裁判の内容、知る権利の他の有名判例について、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

西山事件の背景となった沖縄返還協定とは?

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まずは、西山事件の背景となった沖縄返還協定について、署名されるまでの道筋を見ていくことにしましょう。

沖縄復帰運動

1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約により、日本は朝鮮の独立を承認し、台湾や澎湖諸島の放棄を規定しました。その一方で、沖縄や小笠原諸島はアメリカの信託統治が予定され、日本とは切り離された状態が続くことになります。沖縄の住民は、日本本土へ行くのにもパスポートが必要でした。

1950年代初頭から、沖縄では日本への復帰運動が繰り返し行われました。1956(昭和31)年には、軍用地をめぐりアメリカと沖縄住民の間で緊張が走り、島ぐるみ闘争と呼ばれるほどでした。1960(昭和35)年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、毎年4月に集会やデモ行進が行われるようになります。

沖縄復帰への協議

1964(昭和39)年より総理大臣となった佐藤栄作は、就任当初から沖縄の本土復帰に意欲を示していました。1969(昭和44)年に佐藤は渡米して、ニクソン大統領と日米首脳会談に臨みます。その席で沖縄の本土復帰について話し合われ、両首脳は沖縄の本土復帰に合意しました。

しかし、1970(昭和45)年に入り、日米安全保障条約の延長を反対する安保闘争が激化。さらに反対派は、沖縄の本土復帰に理解を示しつつも、安保条約と沖縄復帰がセットになることを憂慮して反発したのです。それでも、沖縄復帰は進められ、1971(昭和46)年に沖縄返還協定が調印されました

沖縄返還協定の内容は?

沖縄返還協定は、正しくは「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」といいます。沖縄返還協定では、琉球諸島と大東諸島が返還されました。それらには、尖閣諸島も含むとされています。1972(昭和47)年に沖縄返還協定は発効し、沖縄県が復活したのです。

沖縄返還協定では、沖縄を日本に返還するとともに、従来と同様に沖縄の土地を米軍基地として提供することが定められました。また、沖縄でも、日米安保条約を始めとする日米間の条約や協定を適用。地権者に対して、アメリカ側から土地の原状回復費として400万ドルが支払われることが発表されました

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