
しかし今鏡は、有仁をめぐる血なまぐさい政争には少しも触れません。「何事にもすぐれたる人にて、御心ばえもあてにおはして、昔はかかる人もおはしけむ。この世にはいとめづらかに、かくわざと物語などに作り出したらむやう」と高く評価。また、「光源氏などもかかる人をこそ申しさまほしくおぼえ給いひしか」と賛美する箇所もあります。
1.藤原為経(ふじわらのためつね)
藤原為経は平安末期の歌人。僧侶であり貴族でもありました。道長の一門である藤原北家にルーツがあります。為経は済藤原定家の母との間に子をもうけますが、妻子を捨てて出家。法名を寂超とします。
歌を通して歌人西行とも親交を持ちました。その縁で後葉集の撰者としても活躍。歌風は「さびたるさま」と評価されました。今上天皇の直系の先祖という説もあります。
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2.中山忠親(なかやまただちか)
平安末期から鎌倉初期にかけての公卿だったのが中山忠親。藤原北家の流れをくんでいます。平家一門と親しく平徳子(建礼門院)や後白河法皇の別当を務めました。別当とは執事のような立場です。
人柄は「有職故実に明るく年来礼儀作法の道も営む、当時すこぶるほまれあり」と賛美されました。平家一門が都落ちした後は昇進がストップ。そのあとは頼朝の信を得て、内大臣に就任するものの出家しました。中山家の祖とされています。
3.源通親(みなもとのみちちか)
源通親は村上源氏の流れにある人物。高倉天皇の側近として奉仕。天皇が退位して院政を執ることになったときに補佐しました。全国が動乱状態になったとき、天皇は病に倒れて亡くなります。
その時に通親が詠んだのが「惜しからぬ命をかへて類なき君が御世をも千代になさはや」という歌。歌人としての才能も高く、新古今和歌集の編纂にも関わりました。
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今鏡は女性的文体を特徴としていますが、作者と類推されているのはみんな男性。3人に共通しているのは、名門貴族の出自であること。朝廷にも平家源氏にも取り入り、動乱の世を生き延びたことです。貴族社会は一見崩壊したように受け取られがち。しかし、文化的な優位性を利用して、皇室と武士社会の両方に近づき、鎌倉時代以降も特権的地位を失わなかったのでしょう。
今鏡は何をありのままに映しているのか?
今鏡は貴族が落ちぶれて武士が台頭する時代に書かれています。しかし、そのことにはほとんど触れていません。そこで詳述されているのは貴族の栄華。現実世界では消えゆくものでしたが、貴族の栄華を「ありのまま映す」ことで、永遠に残そうとしたのかもしれませんね。