
今鏡は「打ち聞き」により記されている
第1巻から3巻は後一条天皇から高倉天皇までの帝紀「すべらぎ」。第4巻から6巻は藤原氏に関する「藤波」、第7巻は村上源氏に関する「村上の源氏」です。第8巻は諸皇子の列伝である「御子たち」、第9巻から10巻は風流譚・霊験譚「れいけんたん・昔語り・打聞」と分類されています。
すべて「打ち聞き」という形式。「打ち聞き」というのは「聞いたことを書きとめたもの」という意味です。150歳の老女の語りのため「嘘か真かは責任は持てませんが、案外事実かも知れませんよ」という形式で、責任逃れをしています。
平安時代から鎌倉初期にかけて、「打ち聞き」という形式が大流行。このような形式が多かったのは、当時の仏教では「妄語戒」(もうごかい)という教えがあったからです。それは、「ウソをついてはいけない」「作り話はいけない」という教え。「作り話はくだらない」という見方は平安時代にもありました。
崩壊寸前の宮廷の姿を残そうとした今鏡

今鏡は、貴族社会における儀式や雅な生活の叙述にほとんどの部分を費やし、現実の政治的あるいは社会的変動には立ち入っていません。当時は既に壊れかけていた宮廷文化。それを、確かに存在するものとして描こうとしています。ここに今鏡の目指した世界観があるのでしょう。
抒情的な今鏡の文体
今鏡の文体の大きな特徴は抒情的であること。当時としては女性的な文体で、古い良き王朝時代を賛美しています。ただ、賛美する対象は文学や芸術など貴族生活の華麗な一面だけに限りました。
いっぽう、血なまぐさい政争にはほとんど触れていません。没落貴族の懐古趣味で貫かれており、社会の現実に目を向けていません。それが「今鏡」の目指した世界です。「懐古趣味」で貫かれていると言っていいでしょう。
今鏡と社会の変動
とはいえ、今鏡にも微かに社会に触れている箇所があります。それが「まことにいひ知らぬことも出で来て」という箇所。「ほんとうに言葉では表現できないことも起こって」という意味です。
また、「あさましき乱れの都の内に出で来にしかば世も変はりたるやうにて」という箇所も社会の変動のほのめかし。驚くばかり乱れきった都に入ってきましたら、世の中もすっかり変わってしまって、という意味です。
現実世界では、藤原摂関政治が崩壊、院政の時代となっていました。院政とは現役をリタイアした「元天皇」が政治の実権を握り、国政を執ることです。保元・平治の乱という二つの大動乱を経て、武士の時代となりました。今鏡は、現実には目を向けず、自分だけの「古い良き時代」のなかを生きているのです。
武士が力をつける時代に生まれた今鏡

摂関政治は道長の死と共に翳りを見せ、地方政治は乱れます。自分の荘園を守るために、豪族は武士たちを抱えるようになりました。武士たちの頭になったのは都落ちした源氏や平氏の棟梁たち。税金を逃れるために出家した荒くれ男たちが神木を掲げて入京、暴れまわりました。
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平安末期に出現した悪僧たち
平安末期の大きな特徴の一つは悪僧の乱暴ぶり。律令制によって僧は税金を免除されたため、農民は競って出家します。そうすれば、税金を免れ、貴族の支援を受けて暮らすことができました。このような僧が徒党を組み、都で暴れまわりました。
法皇や貴族たちは彼らを「悪僧」と罵りながらも、なすすべなし。彼らの要求を聞き入れました。寺同士の争いも多発。都は乱れきっていました。この混乱から都を守るために法皇は武士の力を借りるしかありませんでした。
混乱の時代に武士が勃興
東国でも多くの反乱が起こりました。貴族たちは身辺を武士に守らせ、趣味や和歌に明け暮れました。東国では源平の争いも相次ぎ、世の中は武士の力なくしては統治出来ない状態になっていました。
疫病が相次ぎ、富士山の噴火が多発。大暴風雨も発生、宇治橋が流出します。延暦寺の悪僧たちが清水寺を焼く事件も起こりました。都でも、武士たちは源氏と平氏に分かれ、朝廷の寵愛を競って、シーソーゲームのような争いを繰り広げました。
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平家の滅亡を知らない今鏡

天皇方と法皇方に分かれての皇統をめぐる争いに源平の武士が加わり、大きな乱がおこりました。保元の乱と平治の乱です。武士たちは親子兄弟が敵味方に分かれて戦い、最終的には、伊勢平氏の平清盛が太政大臣となりました。それにより平家は天下。高倉天皇および後白河法皇の治世下のことでした。
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今鏡が愛する貴族社会の崩壊
保元の乱は、保元元年に起きた内乱。鳥羽天皇が亡くなったあと、皇位承継をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が対立。藤原忠通と藤原頼通兄弟の争いが加わって戦闘状態になります。後白河側が、源義友、平清盛ら武士の力を借りて勝利しました。
平治の乱は、平治元年に起きた内乱です。保元の乱のあと、平清盛は後白河上皇の信頼を受け昇進。これを不満とする源義朝は挙兵し、後白河上皇を幽閉しますが失敗。これにより平氏の全盛期となりました。
二つの乱の陰にある有仁親王
この騒乱の陰で取り残されたのが、後三条天皇の第3皇子の子である有仁親王。白川院にとっては皇位継承を脅かす存在でした。有仁は源氏に臣籍降下され、皇位承継のレースから脱落。白河天皇の白川院の血統が皇統として確立しました。
まさに有仁は「光源氏」的な存在。光源氏は臣籍降下されながら、したたかに政界を渡り歩き、ついには天皇を凌ぐ地位を獲得します。今鏡の作者はそのことを念頭に置き、今鏡の語り手の設定に反映させたのでしょう。
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