今鏡は平安末期の歴史物語で、全10巻から構成されている。平安末期から南北朝に賭けて成立した歴史物語「四鏡」のひとつ。ありのままに写した書物という意味合いがある。

今鏡は単なる「むかしばなし」の域には収まらない。歴史物語としてどのような特徴があるのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、紫式部に仕えたと称する老女あやめを語り部とする今鏡の謎について調べてみた。

今鏡(いまかがみ)とは?

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今鏡とは、平安末期の歴史物語。全10巻から構成されています。作者は藤原為経(ためつね)という説が有力ですが詳しくは分かりません。成立は嘉応2年説が有力。150歳を超えた老女あやめの語りという体裁で、万寿2年から嘉応2年まで、後一条天皇から高倉天皇の時代を記しています。

今鏡の特徴は「ありのままに映す」

平安末期から南北朝に賭けて成立した歴史物語は4つ。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」の四鏡(しきょう)です。四鏡の中で今鏡の成立は二番目。三種の神器の一つに「八咫(やた)の鏡」があるように、古代において鏡は神聖なものでした。そこで「鏡のように物事をありのままに映し出す書物」と意味づけられました。

語り手のあやめは、大鏡に語り手として設定された大宅世継の子孫。源氏物語の作者紫式部に仕えたと称する老女です。その老女の昔語りを筆記したという形をとりました。大鏡の続きという意味で「続世継」、また現在の歴史という意味で小鏡、老女の語りという点から「つくも髪の物語」とも呼ばれます。

今鏡の文体である紀伝体とは?

今鏡は「紀伝体」で書かれています。紀伝体とは人物一人一人に焦点を当てて歴史を叙述する形式。伝記を集めたものです。帝王の伝記「本紀」、臣下の伝記「列伝」、部門別の記録を載せた「志」、年表・系譜の「表」から子構成。中国の歴史書の正史や大鏡が同じ形式を採用しています。特定の人物を知りたい場合はこの紀伝体がベスト。古事記や大日本史がこの体裁をとっています。

紀伝体に対する形式が「編年体」。起こった出来事を年代順に書いたもの。それぞれの時代や世相を知りたければ、この形が分かりやすいでしょう。日本書紀や栄花物語がこれに当たります。

数人の聞き手がいる今鏡

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今鏡は、老女の昔語りを何人かで聞きながら記述する形式をとっています。話される内容は、「帝紀」のほかに「列伝」として「藤原氏」「村上氏」「皇親」。最後の2巻が「雑史」となっています。

今鏡の語り手は150歳越えの老女

今鏡の語り手は、紫式部に仕えたと称する老女あやめ。150.歳を超えている老女です。彼女の昔語りを何人かで記述する形をとりました。紫式部が関わってくるのは、今鏡の作者が源氏物語に強い関心を持っていたからだと思われます。

今鏡は「かな」を多用。宮廷行事、衣装、しきたりなどが詳しく記述されています。作者は男性とする説がありますが、天皇近辺で仕えていた女性であってもおかしくありません。

\次のページで「今鏡は「打ち聞き」により記されている」を解説!/

今鏡は「打ち聞き」により記されている

第1巻から3巻は後一条天皇から高倉天皇までの帝紀「すべらぎ」。第4巻から6巻は藤原氏に関する「藤波」、第7巻は村上源氏に関する「村上の源氏」です。第8巻は諸皇子の列伝である「御子たち」、第9巻から10巻は風流譚・霊験譚「れいけんたん・昔語り・打聞」と分類されています。

すべて「打ち聞き」という形式。「打ち聞き」というのは「聞いたことを書きとめたもの」という意味です。150歳の老女の語りのため「嘘か真かは責任は持てませんが、案外事実かも知れませんよ」という形式で、責任逃れをしています。

平安時代から鎌倉初期にかけて、「打ち聞き」という形式が大流行。このような形式が多かったのは、当時の仏教では「妄語戒」(もうごかい)という教えがあったからです。それは、「ウソをついてはいけない」「作り話はいけない」という教え。「作り話はくだらない」という見方は平安時代にもありました。

崩壊寸前の宮廷の姿を残そうとした今鏡

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今鏡は、貴族社会における儀式や雅な生活の叙述にほとんどの部分を費やし、現実の政治的あるいは社会的変動には立ち入っていません。当時は既に壊れかけていた宮廷文化。それを、確かに存在するものとして描こうとしています。ここに今鏡の目指した世界観があるのでしょう。

抒情的な今鏡の文体

今鏡の文体の大きな特徴は抒情的であること。当時としては女性的な文体で、古い良き王朝時代を賛美しています。ただ、賛美する対象は文学や芸術など貴族生活の華麗な一面だけに限りました。

いっぽう、血なまぐさい政争にはほとんど触れていません。没落貴族の懐古趣味で貫かれており、社会の現実に目を向けていません。それが「今鏡」の目指した世界です。「懐古趣味」で貫かれていると言っていいでしょう。

今鏡と社会の変動

とはいえ、今鏡にも微かに社会に触れている箇所があります。それが「まことにいひ知らぬことも出で来て」という箇所。「ほんとうに言葉では表現できないことも起こって」という意味です。

また、「あさましき乱れの都の内に出で来にしかば世も変はりたるやうにて」という箇所も社会の変動のほのめかし。驚くばかり乱れきった都に入ってきましたら、世の中もすっかり変わってしまって、という意味です。

現実世界では、藤原摂関政治が崩壊、院政の時代となっていました。院政とは現役をリタイアした「元天皇」が政治の実権を握り、国政を執ることです。保元・平治の乱という二つの大動乱を経て、武士の時代となりました。今鏡は、現実には目を向けず、自分だけの「古い良き時代」のなかを生きているのです。

武士が力をつける時代に生まれた今鏡

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摂関政治は道長の死と共に翳りを見せ、地方政治は乱れます。自分の荘園を守るために、豪族は武士たちを抱えるようになりました。武士たちの頭になったのは都落ちした源氏や平氏の棟梁たち。税金を逃れるために出家した荒くれ男たちが神木を掲げて入京、暴れまわりました。

平安末期に出現した悪僧たち

平安末期の大きな特徴の一つは悪僧の乱暴ぶり。律令制によって僧は税金を免除されたため、農民は競って出家します。そうすれば、税金を免れ、貴族の支援を受けて暮らすことができました。このような僧が徒党を組み、都で暴れまわりました。

法皇や貴族たちは彼らを「悪僧」と罵りながらも、なすすべなし。彼らの要求を聞き入れました。寺同士の争いも多発。都は乱れきっていました。この混乱から都を守るために法皇は武士の力を借りるしかありませんでした。

混乱の時代に武士が勃興

東国でも多くの反乱が起こりました。貴族たちは身辺を武士に守らせ、趣味や和歌に明け暮れました。東国では源平の争いも相次ぎ、世の中は武士の力なくしては統治出来ない状態になっていました。

疫病が相次ぎ、富士山の噴火が多発。大暴風雨も発生、宇治橋が流出します。延暦寺の悪僧たちが清水寺を焼く事件も起こりました。都でも、武士たちは源氏と平氏に分かれ、朝廷の寵愛を競って、シーソーゲームのような争いを繰り広げました。

平家の滅亡を知らない今鏡

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天皇方と法皇方に分かれての皇統をめぐる争いに源平の武士が加わり、大きな乱がおこりました。保元の乱と平治の乱です。武士たちは親子兄弟が敵味方に分かれて戦い、最終的には、伊勢平氏の平清盛が太政大臣となりました。それにより平家は天下。高倉天皇および後白河法皇の治世下のことでした。

今鏡が愛する貴族社会の崩壊

保元の乱は、保元元年に起きた内乱。鳥羽天皇が亡くなったあと、皇位承継をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が対立。藤原忠通と藤原頼通兄弟の争いが加わって戦闘状態になります。後白河側が、源義友、平清盛ら武士の力を借りて勝利しました。

平治の乱は、平治元年に起きた内乱です。保元の乱のあと、平清盛は後白河上皇の信頼を受け昇進。これを不満とする源義朝は挙兵し、後白河上皇を幽閉しますが失敗。これにより平氏の全盛期となりました。

二つの乱の陰にある有仁親王

この騒乱の陰で取り残されたのが、後三条天皇の第3皇子の子である有仁親王。白川院にとっては皇位継承を脅かす存在でした。有仁は源氏に臣籍降下され、皇位承継のレースから脱落。白河天皇の白川院の血統が皇統として確立しました。

まさに有仁は「光源氏」的な存在。光源氏は臣籍降下されながら、したたかに政界を渡り歩き、ついには天皇を凌ぐ地位を獲得します。今鏡の作者はそのことを念頭に置き、今鏡の語り手の設定に反映させたのでしょう。

\次のページで「今鏡の作者と類推されている人たち 」を解説!/

しかし今鏡は、有仁をめぐる血なまぐさい政争には少しも触れません。「何事にもすぐれたる人にて、御心ばえもあてにおはして、昔はかかる人もおはしけむ。この世にはいとめづらかに、かくわざと物語などに作り出したらむやう」と高く評価。また、「光源氏などもかかる人をこそ申しさまほしくおぼえ給いひしか」と賛美する箇所もあります。

今鏡の作者と類推されている人たち

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作者は未詳。しかし、作者と伝えられている人たちには共通する特徴があります。貴族社会の生き残りであり、朝廷にも源平にも近づいて出世した、したたかな公卿たちでした。

1.藤原為経(ふじわらのためつね)

藤原為経は平安末期の歌人。僧侶であり貴族でもありました。道長の一門である藤原北家にルーツがあります。為経は済藤原定家の母との間に子をもうけますが、妻子を捨てて出家。法名を寂超とします。

歌を通して歌人西行とも親交を持ちました。その縁で後葉集の撰者としても活躍。歌風は「さびたるさま」と評価されました。今上天皇の直系の先祖という説もあります。

2.中山忠親(なかやまただちか)

平安末期から鎌倉初期にかけての公卿だったのが中山忠親。藤原北家の流れをくんでいます。平家一門と親しく平徳子(建礼門院)や後白河法皇の別当を務めました。別当とは執事のような立場です。

人柄は「有職故実に明るく年来礼儀作法の道も営む、当時すこぶるほまれあり」と賛美されました。平家一門が都落ちした後は昇進がストップ。そのあとは頼朝の信を得て、内大臣に就任するものの出家しました。中山家の祖とされています。

3.源通親(みなもとのみちちか)

源通親は村上源氏の流れにある人物。高倉天皇の側近として奉仕。天皇が退位して院政を執ることになったときに補佐しました。全国が動乱状態になったとき、天皇は病に倒れて亡くなります。

その時に通親が詠んだのが「惜しからぬ命をかへて類なき君が御世をも千代になさはや」という歌。歌人としての才能も高く、新古今和歌集の編纂にも関わりました。

今鏡は女性的文体を特徴としていますが、作者と類推されているのはみんな男性。3人に共通しているのは、名門貴族の出自であること。朝廷にも平家源氏にも取り入り、動乱の世を生き延びたことです。貴族社会は一見崩壊したように受け取られがち。しかし、文化的な優位性を利用して、皇室と武士社会の両方に近づき、鎌倉時代以降も特権的地位を失わなかったのでしょう。

今鏡は何をありのままに映しているのか?

今鏡は貴族が落ちぶれて武士が台頭する時代に書かれています。しかし、そのことにはほとんど触れていません。そこで詳述されているのは貴族の栄華。現実世界では消えゆくものでしたが、貴族の栄華を「ありのまま映す」ことで、永遠に残そうとしたのかもしれませんね。

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南北朝時代平安時代日本史

平安末期の歴史物語「今鏡」の特徴・構成・世界観などを元大学教員が5分でわかりやすく解説

今鏡は平安末期の歴史物語で、全10巻から構成されている。平安末期から南北朝に賭けて成立した歴史物語「四鏡」のひとつ。ありのままに写した書物という意味合いがある。

今鏡は単なる「むかしばなし」の域には収まらない。歴史物語としてどのような特徴があるのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、紫式部に仕えたと称する老女あやめを語り部とする今鏡の謎について調べてみた。

今鏡(いまかがみ)とは?

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今鏡とは、平安末期の歴史物語。全10巻から構成されています。作者は藤原為経(ためつね)という説が有力ですが詳しくは分かりません。成立は嘉応2年説が有力。150歳を超えた老女あやめの語りという体裁で、万寿2年から嘉応2年まで、後一条天皇から高倉天皇の時代を記しています。

今鏡の特徴は「ありのままに映す」

平安末期から南北朝に賭けて成立した歴史物語は4つ。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」の四鏡(しきょう)です。四鏡の中で今鏡の成立は二番目。三種の神器の一つに「八咫(やた)の鏡」があるように、古代において鏡は神聖なものでした。そこで「鏡のように物事をありのままに映し出す書物」と意味づけられました。

語り手のあやめは、大鏡に語り手として設定された大宅世継の子孫。源氏物語の作者紫式部に仕えたと称する老女です。その老女の昔語りを筆記したという形をとりました。大鏡の続きという意味で「続世継」、また現在の歴史という意味で小鏡、老女の語りという点から「つくも髪の物語」とも呼ばれます。

今鏡の文体である紀伝体とは?

今鏡は「紀伝体」で書かれています。紀伝体とは人物一人一人に焦点を当てて歴史を叙述する形式。伝記を集めたものです。帝王の伝記「本紀」、臣下の伝記「列伝」、部門別の記録を載せた「志」、年表・系譜の「表」から子構成。中国の歴史書の正史や大鏡が同じ形式を採用しています。特定の人物を知りたい場合はこの紀伝体がベスト。古事記や大日本史がこの体裁をとっています。

紀伝体に対する形式が「編年体」。起こった出来事を年代順に書いたもの。それぞれの時代や世相を知りたければ、この形が分かりやすいでしょう。日本書紀や栄花物語がこれに当たります。

数人の聞き手がいる今鏡

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今鏡は、老女の昔語りを何人かで聞きながら記述する形式をとっています。話される内容は、「帝紀」のほかに「列伝」として「藤原氏」「村上氏」「皇親」。最後の2巻が「雑史」となっています。

今鏡の語り手は150歳越えの老女

今鏡の語り手は、紫式部に仕えたと称する老女あやめ。150.歳を超えている老女です。彼女の昔語りを何人かで記述する形をとりました。紫式部が関わってくるのは、今鏡の作者が源氏物語に強い関心を持っていたからだと思われます。

今鏡は「かな」を多用。宮廷行事、衣装、しきたりなどが詳しく記述されています。作者は男性とする説がありますが、天皇近辺で仕えていた女性であってもおかしくありません。

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