今回は、中曽根内閣を取り上げていこう。

「戦後政治の総決算」や「ロン・ヤス外交」などで注目を浴びた中曽根内閣だったな。しかし、中曽根内閣による最も印象的な政策は、「三公社の民営化」ではないでしょうか。

中曽根内閣が三公社を民営化させた理由や、中曽根内閣の功績などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中曽根内閣が成立するまで

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まずは、中曽根内閣が成立するまでの過程を簡単に振り返りましょう。

28歳で衆議院議員に

中曽根康弘は、1918(大正7)年に群馬県高崎市で生まれました。東京帝国大学を卒業後、中曽根は内務省に入省。戦時中は海軍に入隊しましたが、終戦後は再び内務省に戻っています。1947(昭和22)年、中曽根は衆議院議員総選挙に出馬すると、当時全国で最年少の28歳で初当選しました

日本民主党の議員として初当選を果たした中曽根は、国民民主党や改進党に党籍を変えたのち、1955(昭和30)年の保守合同で自由民主党の議員に。1959(昭和34)年には、科学技術庁長官として初入閣します。また、その頃の中曽根は原子力関連法案の議員立法に尽力し、原子力の平和利用へ道筋をつけました。

三角大福中

1966(昭和41)年に中曽根派を立ち上げると、中曽根は佐藤栄作内閣で運輸大臣・防衛庁長官・自民党総務会長を歴任。やがて、同じく派閥を率いていた三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の4人と並び称されるようになります。5人は頭文字を取って、「三角大福中」と呼ばれるようになりました。

のちに「三角大福中」は、5人全員が総理大臣となります。中曽根が総理となったのは、5人の中では最後でした。しかし、田中内閣で通商産業大臣、三木内閣では自民党幹事長に就任福田内閣では2度目となる総務会長を務めるなど、政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。

中曽根内閣の誕生と隆盛

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中曽根内閣が誕生すると、約5年にわたり政権を維持します。その様子を見ていくことにしましょう。

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「戦後政治の総決算」をスローガンに

中曽根は、1982(昭和57)年に自民党総裁選挙で2度目の立候補をします。その時は、田中角栄の後押しを受けたこともあり、総裁選挙に勝ちました。その後に成立した第1次中曽根内閣では、田中派の議員が重要ポストを占めたため、「田中曽根内閣」「角影(かくえい)内閣」などど揶揄されるようになります。

中曽根は、施政方針演説で「戦後政治の総決算」をスローガンに掲げ、従来の制度や仕組みを見直すことを宣言しました。そのことが、三公社の民営化などにつながったのです。しかし、田中がロッキード事件で有罪判決を受けたのが原因で、参議院選挙で自民党は敗北。田中色を排除する形で、中曽根は内閣改造に踏み切りました

大統領型首相

中曽根は日本の内閣総理大臣という立場にありながら、トップダウン型のいわゆる「大統領型首相」という方式を志向しました。臨調(臨時行政調査会)や臨教審(臨時教育審議会)などといった諮問機関を設置。そこに中曽根のブレーンを送り込み、積極的に指針などを提言しました。

しかし、中曽根は強力なリーダーシップをアピールしようとしたため、強い口調の発言が問題視されることもありました。日本の防衛問題について中曽根が、日本を「不沈空母」に見立てて発言し、憲法9条の専守防衛から逸脱していると非難を受けました。他にも問題となった発言はありましたが、当時は現代のようにSNSは普及していませんでした。

ロンとヤス

中曽根内閣では、従来GNPの1%以内とされてきた日本の防衛費枠を撤廃。防衛や外交で強気に出る姿勢を示しました。また、1983(昭和58)年に中曽根が訪米して、日米関係の修復に努めます。当時のアメリカ大統領であるレーガンを中曽根が「ロン」と呼び、自らを「ヤス」と呼ばせることで、お互いが親密であることを示したのです。

その一方で、中曽根内閣は靖国神社参拝をめぐり、中国から抗議を受けます。中曽根以前にも、日本の現役総理が靖国神社を参拝したことがありました。しかし、中曽根が総理として公式に靖国神社を参拝したため、抗議を受けることになったのです。現在でも、靖国神社参拝で外交問題になることがあります。

中曽根内閣の代表的政策「三公社民営化」とは?

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では、中曽根内閣の主要政策といえる「三公社民営化」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

「小さな政府」を目指す

「戦後政治の総決算」の一環として、中曽根内閣は行財政改革に踏み切ります。行革審(行政改革推進審議会)の答申を受けて、さまざまな規制緩和に着手しました。その中の1つの目標が、「小さな政府」を目指すことです。公的なサービスは政府の関与を無くして、民間に委ねる方針に転換させました

日本航空(JAL)は、創業以来長らく半官半民で経営された企業でした。中曽根内閣の時代になり、他の特殊法人などと同様に、日本航空も民営化されます。1987(昭和62)年に完全民営化を果たし、日本航空株式会社となりました。その後、JALは一時経営破綻しましたが、現在は再生しています。

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1.電電公社からNTTへ

電信電話事業を行う特殊法人として、1952(昭和27)年に電電公社(日本電信電話公社)が設立されました。しかし、中曽根内閣は、1985(昭和60)年に電気通信事業法を制定。電気通信事業への新規参入や通信端末の自由化などを図ります。電信電話公社は廃止され、日本電信電話株式会社(NTT)が立ち上げられました

現在のNTTは、NTT東日本と西日本や、NTTドコモなどに分かれています。日本電信電話株式会社がNTTグループの持株会社です。その一方で、携帯電話事業に、KDDI・ソフトバンク・楽天モバイルなどがドコモ以外に参入。値引きやサービスの競争が繰り広げられています。

2.専売公社からJTへ

1949(昭和24)年、大蔵省の外局だった専売局が、日本専売公社という外郭団体として独立。タバコや塩などの製造や販売を行っていました。当時、タバコや塩は専売制となっており、専売公社以外がタバコや塩を製造・販売することができませんでした中曽根内閣が、専売制を見直すことになります。

1985(昭和60)年、日本専売公社のタバコ事業を引き継ぐ形で日本たばこ産業株式会社(JT)が設立されました。近年のJTは、医薬品や加工食品なども製造していますが、タバコの世界シェアは現在でもトップ3を維持しています。なお、塩の販売は1997(平成9)年に専売制が廃止され、原則自由化されました

3.国鉄からJRへ

かつては鉄道省が国有鉄道を経営していましたが、1949(昭和24)年に国鉄(日本国有鉄道)が発足しました。しかし、国鉄は毎年のように赤字決算となり、債務が膨れ上がります。そのため、国鉄は分割民営化して、債務を日本国有鉄道清算事業団が引き継ぐ形を取ったのです。

1987年に、国鉄はJRへと形を変えました。現在のJRは、北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州からなる6つの旅客事業会社と、1つの貨物事業会社などからなります。国鉄時代の1964(昭和39)年に開業した新幹線は、北海道から九州まで路線が広がりました。しかし、全国にある不採算路線など、JRに懸念されることは少なくありません

中曽根内閣の終焉とその後

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およそ5年にわたる中曽根政権にも、終わりの時が訪れます。ここからは、中曽根内閣の終焉から中曽根康弘の政界引退までを一気に見てみましょう。

売上税法案の廃案

1986(昭和61)年の衆参同日選挙で自民党が圧勝した結果、第3次中曽根内閣が発足します。しかし、翌年になり、中曽根内閣の支持率が急激に低下しました。原因は、売上税を導入しようと試みたからでした。衆参同日選挙の遊説中に、中曽根が「大型間接税はやらない」と言ったことが、さらに内閣の支持を失うきっかけとなりました。

売上税とは間接税の一種で、現在課税されている消費税と同じようなものだといって良いでしょう。結局、売上税法案が廃案となった1987(昭和62)年に、中曽根は退陣後継を竹下登に託しました。なお、消費税(税率3%)が導入されたのは、1989(平成元)年4月の竹下内閣の時でした。

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リクルート事件

中曽根は竹下登に後継を託しましたが、竹下内閣はリクルート疑惑で窮地に陥ります。リクルートコスモス社の未公開株が政治家や官僚に譲渡され、便宜の供与を求めた賄賂として利用されました。政・官・財の各界から多くの逮捕者が出たリクルート事件は、戦後最大の贈収賄事件となったのです。

中曽根もリクルート事件への関与が取り沙汰されて、国会で証人喚問を受けます中曽根は立件されませんでしたが、政治責任を取る形で自民党を離党しました。1989(平成元)年6月、政治的混乱を招いた責任を取り、竹下内閣は総辞職中曽根派に属していた宇野宗佑が後継総理となりました

中曽根康弘の政界引退

中曽根はリクルート事件での道義的責任を取るため、1989(平成元)年に自民党を離党しましたが、2年後には復党しました。その後は総選挙の比例区名簿で1位を確約されたこともあり、着実に当選回数を積み重ねます。しかし、自民党は2000(平成12)年より比例区の定年制を導入していました。

中曽根は総理大臣経験者だったこともあり、定年制の対象とはなっていませんでした。しかし、2003(平成14)年の総選挙に出馬しようとした中曽根に、当時の小泉純一郎総理が引退を勧告。一度は中曽根が反発しましたが、結局は勧告を受け入れました。そのために連続当選は20回で止まり、中曽根は政界を引退することとなったのです。

中曽根内閣の強いリーダーシップで三公社の民営化は実現した

「戦後政治の総決算」を掲げて総理大臣となった中曽根康弘は、数々の行財政改革に着手します。中でも顕著だったのが、電電公社・専売公社・国鉄からなる、三公社の民営化でした。三公社は、それぞれNTT・JT・JRへと組織を変え、今に至っています。中曽根の強いリーダーシップと実行力がなければ、三公社の民営化は早々に実現できなかったでしょう。

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中曽根内閣が実現させた三公社民営化とは?民営化した理由や中曽根内閣の功績も行政書士試験合格ライターが分かりやすくわかりやすく解説

今回は、中曽根内閣を取り上げていこう。

「戦後政治の総決算」や「ロン・ヤス外交」などで注目を浴びた中曽根内閣だったな。しかし、中曽根内閣による最も印象的な政策は、「三公社の民営化」ではないでしょうか。

中曽根内閣が三公社を民営化させた理由や、中曽根内閣の功績などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中曽根内閣が成立するまで

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まずは、中曽根内閣が成立するまでの過程を簡単に振り返りましょう。

28歳で衆議院議員に

中曽根康弘は、1918(大正7)年に群馬県高崎市で生まれました。東京帝国大学を卒業後、中曽根は内務省に入省。戦時中は海軍に入隊しましたが、終戦後は再び内務省に戻っています。1947(昭和22)年、中曽根は衆議院議員総選挙に出馬すると、当時全国で最年少の28歳で初当選しました

日本民主党の議員として初当選を果たした中曽根は、国民民主党や改進党に党籍を変えたのち、1955(昭和30)年の保守合同で自由民主党の議員に。1959(昭和34)年には、科学技術庁長官として初入閣します。また、その頃の中曽根は原子力関連法案の議員立法に尽力し、原子力の平和利用へ道筋をつけました。

三角大福中

1966(昭和41)年に中曽根派を立ち上げると、中曽根は佐藤栄作内閣で運輸大臣・防衛庁長官・自民党総務会長を歴任。やがて、同じく派閥を率いていた三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の4人と並び称されるようになります。5人は頭文字を取って、「三角大福中」と呼ばれるようになりました。

のちに「三角大福中」は、5人全員が総理大臣となります。中曽根が総理となったのは、5人の中では最後でした。しかし、田中内閣で通商産業大臣、三木内閣では自民党幹事長に就任福田内閣では2度目となる総務会長を務めるなど、政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。

中曽根内閣の誕生と隆盛

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中曽根内閣が誕生すると、約5年にわたり政権を維持します。その様子を見ていくことにしましょう。

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