平氏と平家ってあるよな。1文字違いですが厳密には意味が違うらしいのです。有名なのは祇園精舎の鐘の声で始まる平家物語です。その平氏と戦ったのは源氏ですが、あまり源家とは言わないよな。平氏と平家は何が違い、どう生まれ、今はどうなっているのかをゲーム好きから歴史好きになって源平合戦にも詳しいプログラマでもあるライターのwoinaryと一緒に解説していきます。

ライター/woinary

某社で社内向け業務システムの開発、運用を30年近くやっていたシステム屋さん。現在はフリーランス。日本の戦国時代や鎌倉時代の歴史やガジェットやゲーム、ラノベが大好きなおっさんです。

平氏は平家のごく一部、平家だけじゃない平氏一族

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伝土佐光信 - 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, リンクによる

平家といえば思い出すのは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語ではないでしょうか。源氏との争いに勝利して繁栄を築いた平家一門が、その源氏の源頼朝らによって滅ぼされてしまうという物語です。

その平家ですが、平氏という呼び方もします。一方で、あまり源家という呼び方はしませんよね。ざっくり説明すると平家とは数多くある平氏の一族の一部に過ぎないのです。平氏と平家の関係についてまずは見ていきます。

平家:平清盛とその一族

最初にざっくり書きましたが、平家とは平氏の中の一部を指します。平家物語という名前からも分かるように、その主役である平清盛(たいらのきよもり)とその一族を主に平家と呼ぶのです。

特に清盛が有名なので平家と言えば清盛一族を指すことが多いですが、その礎を築いたのが祖父の平正盛(たいらのまさもり)。この正盛、忠盛(ただもり)、清盛の三代を中心とした一族のことを平家と呼ぶ場合もあります。その辺りの解釈は分かれますが、平清盛を中心として、彼を支えた一族が平家であると思えば確実です。

平氏:天皇家から別れた子孫全般

平家は平氏の一部と説明しましたが、それでは平氏とは何でしょう。平氏とは平安京時代の天皇の子供(親王)が臣下に下って平という姓(氏)を名乗ったのが始まりです。天皇には姓がありませんが、臣下に下ると姓が必要。平安京にあやかって「平」を名乗ったとされています。姓のことを氏とも言うので、平という氏=平氏なのです。

その平氏の中でも一番有名なのが桓武平氏。現在も残っている平氏の子孫のほとんどは桓武平氏の子孫になります。

平氏とは?実は天皇から別れた一族

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平氏とは天皇の子供、親王のさらに子供たちが臣下になることで平姓を名乗ったことから平氏と呼ばれています。いくつかの系統に分かれているので、平家がどこの系統になるのかも含めて確認していきましょう。

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4系統ある平氏、最大派閥が桓武平氏

50代桓武(かんむ)天皇には何人かの皇子がいました。その1人が葛原(かずらわら)親王です。その子である高棟(たかむね)王や孫である高望(たかもち)王を祖とするのが桓武平氏。その内、平高棟の子孫は京で公家になったので公家平氏または堂上平氏平高望の子孫は京を離れた地で勢力を広げたので武家平氏と呼ばれています。

一方、桓武天皇の孫にあたる54代仁明(にんみょう)天皇や、その子で55代文徳(もんとく)天皇、56代光孝(こうこう)天皇の子も臣下に下って平を名乗りました。それぞれ、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏と呼ばれています。この4系統が平氏です。

なお、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇の子孫の中には源を名乗った子孫もいます。そちらは仁明源氏、文徳源氏、光孝源氏です。

伊勢平氏と坂東平氏、さらに別れる桓武平氏

桓武平氏の内、高望王を祖とする高望流はその子供たちが各地方の有力者の娘を妻としてさらに勢力を伸ばします。例えば、高望王の三男の良将(よしまさ)の子が、関東で反乱を起こしたことで有名な平将門(たいらのまさかど)です。将門以外でも高望王の子孫たちは関東で勢力を広げており、坂東平氏と呼ばれています。

その坂東平氏の平貞盛(たいらのさだもり)の子である平維衡(たいらのこれひら)は伊勢国(現在の三重県)で勢力を拡大これが伊勢平氏です。その伊勢平氏の子孫の1人が清盛の祖父である平正盛になります。伊勢平氏の中のそのまた一部が「平家」と呼ばれたのです。

実は平氏同士の争い?源平合戦の舞台裏

源頼朝らが平家と戦った源平合戦は有名です。一般的には源氏と平家の戦いと言われていますよね。ただ、頼朝や弟の源範頼、義経の下で実際に戦ったのは坂東武者です。実はこの坂東武者の多くは坂東平氏の子孫を名乗っています。

高望王の子のうち、平良文(たいらのよしふみ)の子孫で千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、畠山氏、鎌倉氏、中村氏、大庭氏を名乗ったのが、坂東八平氏です。ここに高望王の子の平国香(たいらのくにか)の子孫である熊谷氏、北条氏などを加えた坂東武者たちが源氏軍の戦力。つまり、平家と源氏の戦いは、同じ桓武平氏の高望流の中の、伊勢平氏の一部である平家と坂東平氏との戦いであるとも言えます。

実は2通りの意味がある「平家」

平家は桓武平氏の中の伊勢平氏のそのまた一部である、平正盛、忠盛、清盛を中心とした一族と説明しました。しかし、平清盛の平家一門が栄華を極める前は違う平家があります。それは桓武平氏の中でも高棟王を祖とする高棟流の公家平氏(堂上平氏)です。

では、清盛の平家と縁がないかと言えばそうでもありません。実は平清盛の後妻である時子はこの高棟流平氏の子孫です。平家物語で「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を残したとされる平時忠(たいらのときただ)という人物がいます。彼は時子の弟であり、清盛の義弟です。2つの平家は清盛で結びついたことになります。

平氏と平家のその後

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平氏と平家の違いを、その成り立ちから確認してきました。では、源平合戦以後の平氏や平家はどうなったのでしょう。一般的には平家(平氏)は滅亡したと言われてますよね。実際のところを見ていきましょう。

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織田信長は平家の末裔?

三英傑の1人と言われる織田信長。彼は尾張(現在の愛知県)を拠点とした織田氏の出身です。この織田氏の発祥は現在の福井県越前市とされています。系図の上でのルーツは忌部親真(いみべのちかざね)です。その父親とされるのが平資盛(たいらのすけもり)。平清盛の孫になります。この系図が正しければ織田信長は平清盛の直系の子孫となり、平家の末裔になるのです。

ただしこれはあくまで系図の上でのこと。信長や秀吉や家康を始め、当時の多くの武将は源氏や平氏、藤原氏の末裔ということにしているので、本当に平家の末裔かどうかは誰にもわかりません。

他にも資盛の子孫を名乗る大名や武将がいます。それどころか、鎌倉時代の執権、北条義時、泰時、経時、時頼に仕えた平盛綱(たいらのもりつな)も資盛の子孫とも言われているのです。彼の子孫は鎌倉幕府で権力を握ります。平家を滅ぼした鎌倉幕府で、その平家の子孫が力を持つとは面白い話ですね。

現代まで続く平氏

平清盛を中心とした平家の子孫が現代まで残っているのかははっきりとはわかっていません。壇ノ浦の戦いで死んだとされている平家の武士たちや清盛の孫になる安徳天皇が実は生き延びたという伝説は各地に残っているからです。また、公家平氏の時忠の子孫は明治まで残り、能登半島にある江戸時代の屋敷が重要文化財になっています。

その他、坂東平氏の末裔は鎌倉時代、室町時代、江戸時代を生き残っています。伊勢平氏の子孫として有名なのが北条早雲を祖とする戦国時代の北条氏。鎌倉時代の北条氏は坂東平氏ですが、北条早雲は伊勢平氏の子孫と言われています。清盛の一族は壇ノ浦の戦いで亡くなりましたが、平家や平氏の子孫は今でも日本のあちこちに残っているのです。

平氏は数多くの子孫がいる、その内の平清盛一族が平家

平氏とは桓武天皇などの子供の子孫が皇族を離れて臣下になった際に名乗った姓(氏)です。京で公家になった公家平氏(堂上平氏)もいれば、各地で勢力を伸ばした坂東平氏、伊勢平氏もあります。その伊勢平氏の中の平正盛、忠盛、清盛三代を中心とした一族が平家です。

平家の直系の子孫は壇ノ浦の戦いで多くが亡くなりましたが、実は生き残ったという話も。系図の上では平家の子孫という大名、武将もいます。また、平家とは別の流れである公家平氏や坂東平氏、伊勢平氏には鎌倉、室町、戦国時代に活躍し、江戸時代や明治時代まで続いた武将や大名も。今でも平家や平氏の子孫が残っているわけです。

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文化・歴史雑学

平氏と平家の違いとは?成り立ちや歴史・子孫も鎌倉時代好きのプログラマーがわかりやすく解説

平氏と平家ってあるよな。1文字違いですが厳密には意味が違うらしいのです。有名なのは祇園精舎の鐘の声で始まる平家物語です。その平氏と戦ったのは源氏ですが、あまり源家とは言わないよな。平氏と平家は何が違い、どう生まれ、今はどうなっているのかをゲーム好きから歴史好きになって源平合戦にも詳しいプログラマでもあるライターのwoinaryと一緒に解説していきます。

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某社で社内向け業務システムの開発、運用を30年近くやっていたシステム屋さん。現在はフリーランス。日本の戦国時代や鎌倉時代の歴史やガジェットやゲーム、ラノベが大好きなおっさんです。

平氏は平家のごく一部、平家だけじゃない平氏一族

AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen.jpg
伝土佐光信 – 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, リンクによる

平家といえば思い出すのは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語ではないでしょうか。源氏との争いに勝利して繁栄を築いた平家一門が、その源氏の源頼朝らによって滅ぼされてしまうという物語です。

その平家ですが、平氏という呼び方もします。一方で、あまり源家という呼び方はしませんよね。ざっくり説明すると平家とは数多くある平氏の一族の一部に過ぎないのです。平氏と平家の関係についてまずは見ていきます。

平家:平清盛とその一族

最初にざっくり書きましたが、平家とは平氏の中の一部を指します。平家物語という名前からも分かるように、その主役である平清盛(たいらのきよもり)とその一族を主に平家と呼ぶのです。

特に清盛が有名なので平家と言えば清盛一族を指すことが多いですが、その礎を築いたのが祖父の平正盛(たいらのまさもり)。この正盛、忠盛(ただもり)、清盛の三代を中心とした一族のことを平家と呼ぶ場合もあります。その辺りの解釈は分かれますが、平清盛を中心として、彼を支えた一族が平家であると思えば確実です。

平氏:天皇家から別れた子孫全般

平家は平氏の一部と説明しましたが、それでは平氏とは何でしょう。平氏とは平安京時代の天皇の子供(親王)が臣下に下って平という姓(氏)を名乗ったのが始まりです。天皇には姓がありませんが、臣下に下ると姓が必要。平安京にあやかって「平」を名乗ったとされています。姓のことを氏とも言うので、平という氏=平氏なのです。

その平氏の中でも一番有名なのが桓武平氏。現在も残っている平氏の子孫のほとんどは桓武平氏の子孫になります。

平氏とは?実は天皇から別れた一族

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平氏とは天皇の子供、親王のさらに子供たちが臣下になることで平姓を名乗ったことから平氏と呼ばれています。いくつかの系統に分かれているので、平家がどこの系統になるのかも含めて確認していきましょう。

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