現代社会

芦田均内閣が倒れた原因となった「昭和電工事件」とは?事件の概要や戦後の政権交代などを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説

芦田内閣の崩壊

昭和電工事件での逮捕は、芦田内閣にも及ぶことになります。1948(昭和23)年10月6日に、日本社会党の書記長で、芦田内閣の副総理などを務めた西尾末広が逮捕されました。西尾は証人喚問で賄賂性を否定しましたが、収賄の容疑で逮捕されたのです。

西尾が逮捕された日の翌日である10月7日に、芦田は内閣の総辞職を決断します。内閣から逮捕者が出た以上は、やむを得ないことでした。また。芦田自身も、西尾の献金問題で証人喚問を受けていました発足からわずか8ヶ月で、芦田内閣は倒れたことになります

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昭和電工事件が起きた原因として、GHQの陰謀だったとする説もあるようだな。それによると、GHQの内部で抗争が起きて、対立するメンバーを排除するために発生したというものだ。しかし、それが真実だとする確証はない。陰謀があったのかどうかか、今となっては知る由もないぞ。

昭和電工事件の影響は?

image by iStockphoto

多くの逮捕者を出した昭和電工事件ですが、はたしてどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

有罪となったのは2名

昭和電工事件の責任を取って芦田内閣は総辞職しますが、さらに芦田にも事件の捜査が及びます。その結果、芦田は逮捕され、収賄の罪で起訴されました。しかし、事件当時は外務大臣だった芦田に、昭和電工への便宜を図る職務権限はなかったとの判断が下されます。芦田には無罪が言い渡されました

昭和電工事件では、政界や財界を合わせて60名以上が起訴。大規模な事件であることが判明したため、裁判は長期化します。すべてが結審するまでに15年近くを要しましたが、結局有罪判決を受けたのは、日野原社長と栗栖総務長官の2名だけでした。さらに、2名とも執行猶予付きの判決が下され、実刑を受けた者はいませんでした。

第2次吉田内閣の成立

芦田内閣が総辞職した後、誰が次の総理となるのか注目が集まりました。この時に第1党だったのが、昭和電工事件の間に結成された民主自由党でした。当然ですが、総裁を務めていた吉田茂が総理大臣の最有力候補となるはずです。しかし、民主自由党の内部では、幹事長の山崎猛を擁立する動きが生まれます

山崎を総理に押す声は上がりましたが、当の山崎はこれを固辞議員を辞職するという形で態度をはっきりとさせました。党内が分裂しかけましたが、結局は第2次吉田内閣が生まれます。その後吉田は長期政権を維持することとなり、サンフランシスコ講和条約の締結などを実現させ、1955(昭和30)年まで総理であり続けました

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この記事では「昭和電工事件」で統一したが、実は「昭電疑獄」(昭和電工疑獄事件とも)という名前もあるぞ。「昭電」は昭和電工を略したもの、「疑獄」は「有罪か無罪か判しにくい裁判事件」のことだ。のちに「大規模な贈収賄事件」という意味で「疑獄」は使われるようになったな。昭電疑獄(昭和電工事件)・造船疑獄・ロッキード事件は、合わせて「3大疑獄」と呼ばれているぞ。

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