現代社会

芦田均内閣が倒れた原因となった「昭和電工事件」とは?事件の概要や戦後の政権交代などを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説

芦田均内閣の誕生

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憲政史上初めての社会党政権となった片山内閣の後継となったのが芦田均内閣です。ここでは、芦田内閣が生まれたいきさつや、内閣としての動きなどを見ていきましょう。

3党連立の中道内閣

連立政権内の対立が原因で、片山哲は総理の座から退きます。その後継者として浮上したのが、日本民主党総裁の芦田均でした。芦田は、戦時中からリベラルな政治姿勢を貫いていた政治家です。片山内閣では、副総理兼外務大臣として入閣していました。

与党側が芦田を推挙したのに対して、当時の第2党だった日本自由党が反発。元総理の吉田茂を擁立して、首班指名選挙に臨みます。しかし、投票で芦田がなんとか勝ち、1948(昭和23)年3月に芦田均内閣が発足しました。日本民主党・日本社会党・国民協同党の3党による連立政権です。

労働争議に厳しく対応

芦田内閣が政権を担っていた時期に、成立した法律が多くあります。日本国憲法に基づいて、刑事訴訟法が全面的に改定されました。警察法や国家行政法が制定されて、次々に行政庁が設置されます。中小企業庁・経済調査庁・海上保安庁・水産庁などが、その頃に設置されたものです。

教育委員会法・行政代執行法・検察審査会法・軽犯罪法なども、芦田内閣の時代に成立しています。現在も施行されている多くの法律が制定されました。しかし、芦田が最も対応に追われたのは、全国で広がりを見せた労働争議でした。芦田は公安条例や政令を公布して、厳しく対処したのです。

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日本で「民主党」といえば、2009年から2012年まで政権与党だった民主党が知られているだろう。しかし、芦田均が率いた日本民主党は、略称で「民主党」と呼ばれることもあるな。さらに、鳩山一郎が自由党と合併して自由民主党を結党させた時に1年だけ率いていた政党は、芦田とは別の日本民主党だ。「民主」が党名に入っている政党は非常に多いので、混乱しないように気を付けよう。

昭和電工事件の発覚

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芦田内閣が政権を担っていた時に発覚したのが昭和電工事件です。昭和電工事件とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

目的は復興金融金庫からの融資

終戦直後の日本の企業は、事業を稼働させる資金が枯渇していました。そこで政府は、1947(昭和22)年に復興金融金庫を設立。鉄鋼・石炭・電力・化学など、基幹産業に対して集中的に融資しました。この融資が功を奏して日本の生産力が向上し、経済の回復へとつながります。

この制度を悪用したのが、当時の昭和電工社長らでした昭和電工の融資をなるべく多く引き出すため、政府高官や復興金融金庫の幹部などに賄賂を贈ったのです。当時の金額で合わせておよそ1億円もの贈賄を行った結果、昭和電工は20億円以上の融資を復興金融金庫から受けられるようになりました。

のちの総理も逮捕される

昭和電工事件は、1948(昭和23)年に表面化します。当時野党の民主自由党は、4月に行われた衆議院の委員会で、昭和電工による贈収賄の疑惑があることを公表したのです。政権に揺さぶりをかけるのが狙いだったと見られます。翌月には、警察が昭和電工の本社を捜査して、証拠となる書類を押収しました。

捜査が進むにつれ、次々と容疑者が逮捕されます。6月には、昭和電工の日野原社長を逮捕9月には、当時の大蔵省主計局長で、のちに総理大臣となる福田赳夫が逮捕されました(判決は無罪)。さらに、大野伴睦民主自由党顧問や栗栖赳夫経済安定本部総務長官など、多くの逮捕者が出たのです。

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