今回は、昭和電工事件について学んでいこう。

昭和電工事件の発覚により、芦田均内閣が総辞職することになった。当時の政権が倒れるほどの事件を、詳しく知りたい人は多いでしょう。

昭和電工事件の概要や、戦後まもなくの日本に頻発した政権交代などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

頻繁に行われた終戦直後の政権交代

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まずは、終戦直後の日本に頻発した、政権の移動について簡単に見ていくことにしましょう。

東久邇宮内閣から幣原内閣へ

終戦から2日後の1945(昭和20)年8月17日、総辞職した鈴木貫太郎内閣に代わり、東久邇宮稔彦王が組閣。戦後初にして、皇族から唯一の総理大臣となります。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令に応じて職務を執行していましたが、すぐに頓挫。わずか54日で内閣総辞職となりました。

代わって総理となったのが幣原喜重郎です。幣原内閣では、新しい憲法の草案作成や社会立法などに取り組みました。しかし、戦後初にして大日本帝国憲法下では最後となった総選挙の結果、幣原内閣は存続が危うくなります。結局、組閣から7ヶ月後の1946(昭和21)年5月に、幣原内閣は総辞職しました。

第1次吉田内閣の成立

戦後初の総選挙で日本自由党が第1党となり、本来なら総裁の鳩山一郎が総理となるはずでした。しかし、鳩山はGHQから公職追放の処分が下され、組閣できなくなります。鳩山の代わりとして白羽の矢が立ったのが吉田茂でした。総選挙から1ヶ月以上が経過して、ようやく吉田が総理大臣となります。

第1次吉田内閣では、日本国憲法公布などの重要な職務を遂行しました。しかし、新憲法の下で初めて行われた総選挙で、第1党の座を日本社会党に明け渡します。その結果を受けて、吉田は内閣の存続を断念。第1次吉田内閣は、わずか1年で総辞職しました

初めての社会党政権

日本国憲法の下で国会の指名を受けて成立した初めての内閣が、片山哲内閣です。先の総選挙で日本社会党が第1党に躍進して、日本社会党委員長の片山哲が首班指名を受けました。しかし、日本社会党だけでは過半数にならず、日本民主党や国民協同党などとの連立政権になります。

片山内閣では、民法や刑法の改正など、数々の重要法案が成立しました。しかし、日本民主党の幣原派が離反するなど、連立政権内の対立が顕著になります。政権運営に限界を感じた片山は、内閣総辞職を決断。日本で初めて社会党が中心となった政権は、1年も持たずして倒れたのです。

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芦田均内閣の誕生

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憲政史上初めての社会党政権となった片山内閣の後継となったのが芦田均内閣です。ここでは、芦田内閣が生まれたいきさつや、内閣としての動きなどを見ていきましょう。

3党連立の中道内閣

連立政権内の対立が原因で、片山哲は総理の座から退きます。その後継者として浮上したのが、日本民主党総裁の芦田均でした。芦田は、戦時中からリベラルな政治姿勢を貫いていた政治家です。片山内閣では、副総理兼外務大臣として入閣していました。

与党側が芦田を推挙したのに対して、当時の第2党だった日本自由党が反発。元総理の吉田茂を擁立して、首班指名選挙に臨みます。しかし、投票で芦田がなんとか勝ち、1948(昭和23)年3月に芦田均内閣が発足しました。日本民主党・日本社会党・国民協同党の3党による連立政権です。

労働争議に厳しく対応

芦田内閣が政権を担っていた時期に、成立した法律が多くあります。日本国憲法に基づいて、刑事訴訟法が全面的に改定されました。警察法や国家行政法が制定されて、次々に行政庁が設置されます。中小企業庁・経済調査庁・海上保安庁・水産庁などが、その頃に設置されたものです。

教育委員会法・行政代執行法・検察審査会法・軽犯罪法なども、芦田内閣の時代に成立しています。現在も施行されている多くの法律が制定されました。しかし、芦田が最も対応に追われたのは、全国で広がりを見せた労働争議でした。芦田は公安条例や政令を公布して、厳しく対処したのです。

昭和電工事件の発覚

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芦田内閣が政権を担っていた時に発覚したのが昭和電工事件です。昭和電工事件とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

目的は復興金融金庫からの融資

終戦直後の日本の企業は、事業を稼働させる資金が枯渇していました。そこで政府は、1947(昭和22)年に復興金融金庫を設立。鉄鋼・石炭・電力・化学など、基幹産業に対して集中的に融資しました。この融資が功を奏して日本の生産力が向上し、経済の回復へとつながります。

この制度を悪用したのが、当時の昭和電工社長らでした昭和電工の融資をなるべく多く引き出すため、政府高官や復興金融金庫の幹部などに賄賂を贈ったのです。当時の金額で合わせておよそ1億円もの贈賄を行った結果、昭和電工は20億円以上の融資を復興金融金庫から受けられるようになりました。

のちの総理も逮捕される

昭和電工事件は、1948(昭和23)年に表面化します。当時野党の民主自由党は、4月に行われた衆議院の委員会で、昭和電工による贈収賄の疑惑があることを公表したのです。政権に揺さぶりをかけるのが狙いだったと見られます。翌月には、警察が昭和電工の本社を捜査して、証拠となる書類を押収しました。

捜査が進むにつれ、次々と容疑者が逮捕されます。6月には、昭和電工の日野原社長を逮捕9月には、当時の大蔵省主計局長で、のちに総理大臣となる福田赳夫が逮捕されました(判決は無罪)。さらに、大野伴睦民主自由党顧問や栗栖赳夫経済安定本部総務長官など、多くの逮捕者が出たのです。

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芦田内閣の崩壊

昭和電工事件での逮捕は、芦田内閣にも及ぶことになります。1948(昭和23)年10月6日に、日本社会党の書記長で、芦田内閣の副総理などを務めた西尾末広が逮捕されました。西尾は証人喚問で賄賂性を否定しましたが、収賄の容疑で逮捕されたのです。

西尾が逮捕された日の翌日である10月7日に、芦田は内閣の総辞職を決断します。内閣から逮捕者が出た以上は、やむを得ないことでした。また。芦田自身も、西尾の献金問題で証人喚問を受けていました発足からわずか8ヶ月で、芦田内閣は倒れたことになります

昭和電工事件の影響は?

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多くの逮捕者を出した昭和電工事件ですが、はたしてどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

有罪となったのは2名

昭和電工事件の責任を取って芦田内閣は総辞職しますが、さらに芦田にも事件の捜査が及びます。その結果、芦田は逮捕され、収賄の罪で起訴されました。しかし、事件当時は外務大臣だった芦田に、昭和電工への便宜を図る職務権限はなかったとの判断が下されます。芦田には無罪が言い渡されました

昭和電工事件では、政界や財界を合わせて60名以上が起訴。大規模な事件であることが判明したため、裁判は長期化します。すべてが結審するまでに15年近くを要しましたが、結局有罪判決を受けたのは、日野原社長と栗栖総務長官の2名だけでした。さらに、2名とも執行猶予付きの判決が下され、実刑を受けた者はいませんでした。

第2次吉田内閣の成立

芦田内閣が総辞職した後、誰が次の総理となるのか注目が集まりました。この時に第1党だったのが、昭和電工事件の間に結成された民主自由党でした。当然ですが、総裁を務めていた吉田茂が総理大臣の最有力候補となるはずです。しかし、民主自由党の内部では、幹事長の山崎猛を擁立する動きが生まれます

山崎を総理に押す声は上がりましたが、当の山崎はこれを固辞議員を辞職するという形で態度をはっきりとさせました。党内が分裂しかけましたが、結局は第2次吉田内閣が生まれます。その後吉田は長期政権を維持することとなり、サンフランシスコ講和条約の締結などを実現させ、1955(昭和30)年まで総理であり続けました

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昭和電工に関連するその他の事件

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昭和電工事件にも、昭和電工が歴史の教科書などに登場することがあります。最後に、そのような事件について簡単にふれていくことにしましょう。

1.新潟水俣病

1950年代から70年代にかけて、日本では公害が多く発生しました。その中で、特に被害が大きかったものを「四大公害病」と呼びます。水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病と、新潟水俣病(第二水俣病)の4つです。新潟水俣病は、熊本県で先に発生が確認された水俣病に症状が似ていたことからその名が付きました。

新潟水俣病の原因となったのは、有機水銀の流出でした。有機水銀が原因となったのは、水俣病も同じです。阿賀野川の上流にあった昭和電工の工場が有機水銀を川に排出して、食物連鎖で有機水銀が濃縮された川魚を、阿賀野川下流の住民が食べたのが原因でした。新潟水俣病の訴訟は、21世紀の今も続いています。

2.トリプトファン事件

1990(平成2)年前後に、アメリカでEMS(好酸球増加筋肉痛症候群)の発症が多数報告されました。当局が調査に乗り出すと、発症者の多くがL-トリプトファンと呼ばれる必須アミノ酸を摂取していたことが判明します。発症者が摂取していたL-トリプトファンは、昭和電工が製造したものでした。

トリプトファンが直接の原因となって発症したのかは、わかっていません。不純物があったとも、過剰摂取が原因ともいわれますが、はっきりとした原因は不明のままです。たとえそうであったとしても、大規模な健康被害がアメリカで起きたのに変わりありません。死者38名を含む、数千人が被害を受けることになりました

昭和電工事件の責任を取って芦田均内閣は総辞職した

復興金融金庫から多額の融資を受けるため、昭和電工は多くの政財界人に贈賄を行いました。発覚後には警察の捜査が進み、昭和電工の社長や政界の大物などが次々と逮捕される事態へと発展します。その影響は当時の政権にも及び、芦田内閣は総辞職に追い込まれました。芦田ものちに逮捕され、判決は無罪でしたが、昭和電工事件で政権が交代することになったのです。

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現代社会

芦田均内閣が倒れた原因となった「昭和電工事件」とは?事件の概要や戦後の政権交代などを歴史好きライターが分かりやすくわかりやすく解説

今回は、昭和電工事件について学んでいこう。

昭和電工事件の発覚により、芦田均内閣が総辞職することになった。当時の政権が倒れるほどの事件を、詳しく知りたい人は多いでしょう。

昭和電工事件の概要や、戦後まもなくの日本に頻発した政権交代などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

頻繁に行われた終戦直後の政権交代

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まずは、終戦直後の日本に頻発した、政権の移動について簡単に見ていくことにしましょう。

東久邇宮内閣から幣原内閣へ

終戦から2日後の1945(昭和20)年8月17日、総辞職した鈴木貫太郎内閣に代わり、東久邇宮稔彦王が組閣。戦後初にして、皇族から唯一の総理大臣となります。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令に応じて職務を執行していましたが、すぐに頓挫。わずか54日で内閣総辞職となりました。

代わって総理となったのが幣原喜重郎です。幣原内閣では、新しい憲法の草案作成や社会立法などに取り組みました。しかし、戦後初にして大日本帝国憲法下では最後となった総選挙の結果、幣原内閣は存続が危うくなります。結局、組閣から7ヶ月後の1946(昭和21)年5月に、幣原内閣は総辞職しました。

第1次吉田内閣の成立

戦後初の総選挙で日本自由党が第1党となり、本来なら総裁の鳩山一郎が総理となるはずでした。しかし、鳩山はGHQから公職追放の処分が下され、組閣できなくなります。鳩山の代わりとして白羽の矢が立ったのが吉田茂でした。総選挙から1ヶ月以上が経過して、ようやく吉田が総理大臣となります。

第1次吉田内閣では、日本国憲法公布などの重要な職務を遂行しました。しかし、新憲法の下で初めて行われた総選挙で、第1党の座を日本社会党に明け渡します。その結果を受けて、吉田は内閣の存続を断念。第1次吉田内閣は、わずか1年で総辞職しました

初めての社会党政権

日本国憲法の下で国会の指名を受けて成立した初めての内閣が、片山哲内閣です。先の総選挙で日本社会党が第1党に躍進して、日本社会党委員長の片山哲が首班指名を受けました。しかし、日本社会党だけでは過半数にならず、日本民主党や国民協同党などとの連立政権になります。

片山内閣では、民法や刑法の改正など、数々の重要法案が成立しました。しかし、日本民主党の幣原派が離反するなど、連立政権内の対立が顕著になります。政権運営に限界を感じた片山は、内閣総辞職を決断。日本で初めて社会党が中心となった政権は、1年も持たずして倒れたのです。

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