ウクライナ進攻をきっかけに世界から注目されるようになったロシアのプーチン大統領。強硬な政治姿勢のみならず、ときおり見せる筋肉アピールを、不思議に思う人も多いでしょう。プーチンがこだわるのは「強いロシア」の発信。

彼の「強いロシア」信奉がどうやって生まれたのか、その内容と背景について世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。ロシアはアメリカと並ぶ経済大国として君臨してきましたが、最近はその強硬な姿勢が疑問視されている。その代表格がプーチン。彼が唱える「強いロシア」についての内容や背景を調べてみた。

「強いロシア」の背景にあるものとは?

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By Kremlin.ru, CC BY 4.0, Link

プーチン大統領が信奉しているとされる「強いロシア」という概念。どこの国も強くありたいと思うのは自然なことですが、プーチン大統領の場合は特別な背景があります。

貧しい幼少期を経てKGBへ

プーチン大統領が生まれたのはソビエト社会主義連邦時代。父親は工場労働者のため、決して豊かとはいえない幼少期を過ごしました。生活の場は共同アパート。そんなプーチン少年は、スパイ映画の魅力にはまり、自分もスパイとして活動したいと思うようになります。

ソ連でスパイになるには国家保安委員会(KGB)に入る必要がありました。法学部を出ていると就職しやすいことを知り、猛勉強をして法学部に入ります。そして念願のKGBの職員として機密情報の収集に関わるようになりました。

東ドイツでベルリンの壁の崩壊を経験

プーチンはスパイとして東ドイツに派遣されました。そこでは、妻と子どもと一緒に穏やかな生活をしていたと言われています。プーチンが携わったのは北大西洋条約機構(NASA)に関する情報収集。約5年後、プーチンはベルリンの壁の崩壊を目の当たりにすることになります。

ソ連の支配下にあると思っていた東ドイツが一夜にして変貌。ソ連と決別し、民主化の道を進むことを選びます。強いと信じていたソ連が一気に崩れ落ちる瞬間を目の当たりにしたプーチン。このときのトラウマが「強いロシア」信奉につながったと言われています。

タクシー運転手の経験から「強いロシア」を渇望

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プーチンの「強いロシア」信奉はソ連崩壊後のロシアの停滞とも大きく結びついています。ロシア社会は大混乱、道端には住み家を失った人々が呆然と立ちすくむようになりました。今でもロシア人にとって、ソ連崩壊度の貧困は「苦い記憶」となっています。

ソ連崩壊度の屈辱的な生活

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一。プーチンは、妻と子どもを連れて命からがらロシアに逃げ帰ります。そこにあったのは崩壊したソ連の姿。それからの1990年代、給料が支払われない、年金が出ないなどの状況になり、ロシア国民は貧困に苦しむことになります。

プーチンも同じく貧困生活を強いられました。当時のロシアはタクシーがほとんどなかったので、自家用車を持っている人はそれで臨時収入を得るように。プーチンも同じようにタクシー運転手として家計をしのぎました。このときにプーチンは「ソ連の崩壊は悲劇」と認識するようになりました。

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次々とソ連から離脱する国々を目撃

母国に戻ったプーチンは、ソ連の構成国が次々と反旗を翻す姿を目撃します。ベルリンの壁をきっかけに、東欧民主革命が勃発。さらにそれを見たソ連15共和国も独立を画策します。リトアニア共和国などが独立を宣言しました。

ゴルバチョフがソ連大統領を辞任。ロシア共和国の大統領にエリツィンが就任します。それによりロシアはよくなるだろうと期待されました。しかし実際はなにも変わらず。市場開放によって海外製品が流入。物不足は解消されるものの、貧しいままの状況が続きました。

「強いロシア」を現実化したプーチン

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プーチンは、故郷であるサンクトペテルブルク市で有力者に推挙され、副市長に抜擢されます。彼の仕事は国際経済協力担当。そこで頭角をあらわし、1996年にはモスクワに移住。エリツィン大統領の政権運営に参加するようになります。

1999年にロシア共和国の首相となったプーチン

プーチンはエリツィン大統領の右腕として手腕を発揮。前KGBである連邦保安局(FSB)の長官となったあと、1999年8月に首相に就任しました。エリツィン大統領は、汚職事件などの影響もあり大統領を辞任。右腕だったプーチンを後継者に指名します。

プーチン自身、首相時代に第二次チェチェン紛争の制圧で活躍。「強いリーダー」としてのイメージが定着しており、高い国民的人気を誇っていました。同時に独裁的な判断も積極的にしてきました。その代表例が、エリツィンを生涯にわたって刑事訴追から免責するという大統領令です。

経済の大躍進で「強いロシア」を実現

プーチン大統領は、大統領に就任した当初、ロシアの経済的回復を実現します。2000年からの10年、ロシアの都市部には高層ビルが建ちならび、高級ブランドや高級外車があふれかえるようになりました。こうした変化は、自信を失ったロシアがそれを回復させることにもつながりました。

プーチンが大統領に就任した当時、ロシアの一人当たりの国内総生産(GDP)はたったの1904ドル。それが1万ドルまで引きあがりました。ロシアの経済回復を支えたのは原油。経済的発展を背景に、2006年には故郷のサンクトペテルブルクでG8サミットも主催しました。

ウクライナ進攻と「強いロシア」

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ロシアと言えばウクライナ進攻を思い描く人も多いでしょう。プーチン大統領はウクライナがNATOに加盟し、ロシアの影響下を離れようとすることを頑なに拒んでいます。どうして他国の動きを制限しようとするのでしょうか。それはプーチンの「強いロシア」観と密接に結びついています。

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ウクライナの領土はロシアからの「贈り物」

プーチン大統領にとってウクライナはロシアの一部。2008年、アメリカのブッシュ大統領と会見したときウクライナの領土の一部について「私たちからの贈り物なのだ」と説明しました。そのためウクライナのNATO(北大西洋条約機構)を強く反対しています。

他国の領土が「贈り物」というのは、一般的には受け入れられるものではありません。しかしながらプーチンにとってウクライナの離脱は「西側の東方拡大」に他なりません。かつてはソビエト連邦の構成国として親密な関係にあったウクライナ。そのような国が離脱することは「強いロシア」のイメージを打ち崩すものなのです。

裏切者を許さないプーチンの強硬姿勢

プーチン大統領は、自分がスパイとして活動し、そのさなかにベルリンの壁の崩壊そしてソ連の解体を目の当たりにします。プーチンにとってソ連から離脱する国々は「裏切者」に他なりません。かつての栄光を取り戻すことがプーチンの野望。これ以上の「裏切り」はあってはなりません。

「強いロシア」を実現するのは愛国心。プーチンは真の愛国心がある者は裏切者を許すことはないという趣旨の発言をたびたびしています。裏切者を見つけたら厳重に処罰することも良し。あれほど執拗にウクライナを攻撃するのは「裏切者」という認識があるからです。

「強いロシア」はロシア国民をまとめる思想

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かつてのソビエト連邦時代は、マルクス・レーニン主義を通じて、さまざまな国や人々をまとめてきました。ところが現在は、民主化の思想も浸透しており、ひとつの思想で人々を束ねることは困難。そこでプーチンは、ロシア人や管轄国の人々をまとめるために「強いロシア」を打ち出しています。

唯一無二の存在である「強いロシア」

プーチンが強調するのは「アジアでもヨーロッパでもない唯一無二の存在であるロシア」というもの。ロシアは純粋な存在でなくてはならず、アジアの影響もヨーロッパの影響も受けてはなりません。ロシアのみならず、ロシアと協力関係を結んでいる国も同様です。

そんな唯一無二のロシアを揺るがすのが西側の軍事機構であるNATO。北欧諸国や東ヨーロッパ諸国でも徐々にNATOに加盟する、加盟を希望するケースが増えてきました。それはロシアの純潔性を汚す行為に他なりません。NATOの影響力を排除することが、「強いロシア」を維持するためには不可欠と考えました。

ロシア人の士気を高める「ナチ化」というワード

「強いロシア」を維持するためにはロシア国民の士気を鼓舞する必要があります。今でもロシアでは、ソ連時代の伝統を継承して、ナチス・ドイツに勝利した日を「戦勝記念日」と位置づけて壮大な軍事パレードを実施。ナチスを倒した「強いロシア」は正義そのものだという考えを国民に発信してきました。

ウクライナ進攻を「打倒ナチス」とすることで、国際社会の非難とは関係なく正当化できます。ナチスは絶対悪なので、多少乱暴なやり方をしても最終的には正しいことだというのがプーチンの主張。ソ連時代から植え付けられている思想のため、信じている人が一定数いることも事実です。

低迷の危機にある「強いロシア」

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プーチンが望むのは大国ロシアの再来。アメリカと肩を並べたかつてのロシアです。しかしながら2010年以降のロシアは経済成長の波に乗り遅れ、低迷しているという現実があります。

ロシアの低迷のきっかけとなったクリミア併合

プーチン政権は長らく高い支持率を誇ってきました。しかし2014年のクリミア併合については批判が殺到します。クリミア半島は、クリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市から構成されていますが、国際的にはウクライナの領土と見なされていました。それを強制的にロシア連邦の領土に組み込みました。

ロシアの経済成長を支えてきた石油の価格が下落したことに加え、クリミア併合を批判する国際社会から経済制裁が加えられます。その結果、ロシアの一人当たりのGDPは1万ドルを切ることも目立つようになりました。

ウクライナ進攻の経済制裁が「強いロシア」に与える影響

クリミア併合と同じようにウクライナ進攻でもロシアは経済制裁が加わりました。戦費がかさんでいることに加え、貿易の制裁や外国企業の撤退により、ロシア経済は揺らぎつつあります。とくに打撃を受けているのがエネルギー部門。EUは原油や天然ガスの輸入を段階的に減らすことを決定しました。

プーチン大統領はそれでもウクライナ進攻をやめようとしません。それはウクライナを傘下に置くことが「強いロシア」をアピールするうえで不可欠だからです。ロシアの経済が悪化することで、ロシア人がどのように考えるのでしょうか。展開を注視していきたいところです。

「強いロシア」はこれからどうなるのか?

ソ連崩壊のトラウマとその後の貧困生活から、「強いロシア」にこだわり続けるプーチン大統領。ウクライナ進攻に対する国際的な批判は強く、経済制裁も長引いています。そのまま「強いロシア」を維持し続けることはできるのでしょうか。国民の反応も併せて見ていくと、歴史の転換期の目撃者になれるかもしれません。

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ソビエト連邦ロシアロシア革命世界史

プーチン大統領が信奉する「強いロシア」その内容と背景について元大学教員が5分でわかりやすく解説

ウクライナ進攻をきっかけに世界から注目されるようになったロシアのプーチン大統領。強硬な政治姿勢のみならず、ときおり見せる筋肉アピールを、不思議に思う人も多いでしょう。プーチンがこだわるのは「強いロシア」の発信。

彼の「強いロシア」信奉がどうやって生まれたのか、その内容と背景について世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。ロシアはアメリカと並ぶ経済大国として君臨してきましたが、最近はその強硬な姿勢が疑問視されている。その代表格がプーチン。彼が唱える「強いロシア」についての内容や背景を調べてみた。

「強いロシア」の背景にあるものとは?

プーチン大統領が信奉しているとされる「強いロシア」という概念。どこの国も強くありたいと思うのは自然なことですが、プーチン大統領の場合は特別な背景があります。

貧しい幼少期を経てKGBへ

プーチン大統領が生まれたのはソビエト社会主義連邦時代。父親は工場労働者のため、決して豊かとはいえない幼少期を過ごしました。生活の場は共同アパート。そんなプーチン少年は、スパイ映画の魅力にはまり、自分もスパイとして活動したいと思うようになります。

ソ連でスパイになるには国家保安委員会(KGB)に入る必要がありました。法学部を出ていると就職しやすいことを知り、猛勉強をして法学部に入ります。そして念願のKGBの職員として機密情報の収集に関わるようになりました。

東ドイツでベルリンの壁の崩壊を経験

プーチンはスパイとして東ドイツに派遣されました。そこでは、妻と子どもと一緒に穏やかな生活をしていたと言われています。プーチンが携わったのは北大西洋条約機構(NASA)に関する情報収集。約5年後、プーチンはベルリンの壁の崩壊を目の当たりにすることになります。

ソ連の支配下にあると思っていた東ドイツが一夜にして変貌。ソ連と決別し、民主化の道を進むことを選びます。強いと信じていたソ連が一気に崩れ落ちる瞬間を目の当たりにしたプーチン。このときのトラウマが「強いロシア」信奉につながったと言われています。

タクシー運転手の経験から「強いロシア」を渇望

image by PIXTA / 14404821

プーチンの「強いロシア」信奉はソ連崩壊後のロシアの停滞とも大きく結びついています。ロシア社会は大混乱、道端には住み家を失った人々が呆然と立ちすくむようになりました。今でもロシア人にとって、ソ連崩壊度の貧困は「苦い記憶」となっています。

ソ連崩壊度の屈辱的な生活

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一。プーチンは、妻と子どもを連れて命からがらロシアに逃げ帰ります。そこにあったのは崩壊したソ連の姿。それからの1990年代、給料が支払われない、年金が出ないなどの状況になり、ロシア国民は貧困に苦しむことになります。

プーチンも同じく貧困生活を強いられました。当時のロシアはタクシーがほとんどなかったので、自家用車を持っている人はそれで臨時収入を得るように。プーチンも同じようにタクシー運転手として家計をしのぎました。このときにプーチンは「ソ連の崩壊は悲劇」と認識するようになりました。

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