彼の「強いロシア」信奉がどうやって生まれたのか、その内容と背景について世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 「強いロシア」の背景にあるものとは?
- 貧しい幼少期を経てKGBへ
- 東ドイツでベルリンの壁の崩壊を経験
- タクシー運転手の経験から「強いロシア」を渇望
- ソ連崩壊度の屈辱的な生活
- 次々とソ連から離脱する国々を目撃
- 「強いロシア」を現実化したプーチン
- 1999年にロシア共和国の首相となったプーチン
- 経済の大躍進で「強いロシア」を実現
- ウクライナ進攻と「強いロシア」
- ウクライナの領土はロシアからの「贈り物」
- 裏切者を許さないプーチンの強硬姿勢
- 「強いロシア」はロシア国民をまとめる思想
- 唯一無二の存在である「強いロシア」
- ロシア人の士気を高める「ナチ化」というワード
- 低迷の危機にある「強いロシア」
- ロシアの低迷のきっかけとなったクリミア併合
- ウクライナ進攻の経済制裁が「強いロシア」に与える影響
- 「強いロシア」はこれからどうなるのか?
この記事の目次
ライター/ひこすけ
アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。ロシアはアメリカと並ぶ経済大国として君臨してきましたが、最近はその強硬な姿勢が疑問視されている。その代表格がプーチン。彼が唱える「強いロシア」についての内容や背景を調べてみた。
「強いロシア」の背景にあるものとは?
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, Link
プーチン大統領が信奉しているとされる「強いロシア」という概念。どこの国も強くありたいと思うのは自然なことですが、プーチン大統領の場合は特別な背景があります。
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貧しい幼少期を経てKGBへ
プーチン大統領が生まれたのはソビエト社会主義連邦時代。父親は工場労働者のため、決して豊かとはいえない幼少期を過ごしました。生活の場は共同アパート。そんなプーチン少年は、スパイ映画の魅力にはまり、自分もスパイとして活動したいと思うようになります。
ソ連でスパイになるには国家保安委員会(KGB)に入る必要がありました。法学部を出ていると就職しやすいことを知り、猛勉強をして法学部に入ります。そして念願のKGBの職員として機密情報の収集に関わるようになりました。
東ドイツでベルリンの壁の崩壊を経験
プーチンはスパイとして東ドイツに派遣されました。そこでは、妻と子どもと一緒に穏やかな生活をしていたと言われています。プーチンが携わったのは北大西洋条約機構(NASA)に関する情報収集。約5年後、プーチンはベルリンの壁の崩壊を目の当たりにすることになります。
ソ連の支配下にあると思っていた東ドイツが一夜にして変貌。ソ連と決別し、民主化の道を進むことを選びます。強いと信じていたソ連が一気に崩れ落ちる瞬間を目の当たりにしたプーチン。このときのトラウマが「強いロシア」信奉につながったと言われています。
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タクシー運転手の経験から「強いロシア」を渇望
プーチンの「強いロシア」信奉はソ連崩壊後のロシアの停滞とも大きく結びついています。ロシア社会は大混乱、道端には住み家を失った人々が呆然と立ちすくむようになりました。今でもロシア人にとって、ソ連崩壊度の貧困は「苦い記憶」となっています。
ソ連崩壊度の屈辱的な生活
ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一。プーチンは、妻と子どもを連れて命からがらロシアに逃げ帰ります。そこにあったのは崩壊したソ連の姿。それからの1990年代、給料が支払われない、年金が出ないなどの状況になり、ロシア国民は貧困に苦しむことになります。
プーチンも同じく貧困生活を強いられました。当時のロシアはタクシーがほとんどなかったので、自家用車を持っている人はそれで臨時収入を得るように。プーチンも同じようにタクシー運転手として家計をしのぎました。このときにプーチンは「ソ連の崩壊は悲劇」と認識するようになりました。
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