
当時は危険な水路工事を行う時には、生きた人間を神さまに捧げるしきたりがありました。それが人柱です。清盛は人柱の習慣を禁止。お経を書いた石を廃船に積み込み、船ごと海に沈める方法をとらせました。敵方の義経兄弟を殺さずに助けた清盛。野蛮で乱暴なイメージがありますが、人の命を大切に思う人だったのではないでしょうか。
平家滅亡後も生き延びる伊勢平氏

滅亡したのは平氏一族の中の「平家」と呼ばれる一族。平家は「平家物語」であまりにも有名です。いわゆる「平家一門」は壇の浦の闘いで全滅、家系は途絶えますが、伊勢平氏はどうなったのでしょうか。
源平の戦いで命を落とす伊勢平氏
平教盛は清盛の弟。清盛の死後は一門の長として清盛の息子たちを盛り立てました。壇の浦の合戦では弟経盛と手を取り合って入水します。清盛の四男である平知盛は、権大納言として源頼政の軍勢を宇治で打破。最後は、敵に辱めを受けないために、鎧を二枚着て入水します。この場面は、文楽や歌舞伎に取りいれられ、「義経千本桜」でも演じられました。
平宗盛は清盛の三男。従一位内大臣にまで昇り、清盛の死後は一族を統率します。壇の浦で捕らえられ、鎌倉に送られたのち近江で殺されました。清盛の弟教盛の子が平教経。源氏兵と勇ましく闘いその名を馳せます。壇の浦では義経を追い詰めながら取り逃がし、源氏の武士と組み合って入水しました。
清盛の娘である平徳子は高倉天皇の中宮で、安徳天皇を出産。院号は建礼門院です。清盛関係の映画やテレビドラマでも主要人物として登場するので、知っている人も多いでしょう。平氏一門と共に西走。壇の浦で、母時子、安徳天皇と共に入水しますが、源氏兵に助けられ都に送られました。出家して大原寂光院で余生を送ります。
実は戦乱を生き延びている平家一門
平家一門の多くの女性たちは名門貴族の妻。戦乱を生き延び、その子たちも貴族として生き延びます。平家滅亡というのは男系で見た場合のみ。血筋が絶えたというわけではありません。
平家滅亡後も、伊勢、伊賀では反乱が相継ぎます。伊勢平氏の多くは没落。しかしながら、平家側に付かなかった諸伊勢平氏は存続しました。ある流派は、本家である平家を名乗ります。武士のなかにも平家の後裔と称する一族も多く存在しました。
今も生き残っているかもしれない伊勢平氏
伊勢平氏とは平氏の諸流派のひとつ。平維衡が伊瀬守になって伊勢に地盤を築いたのが始まりです。維衡の曾孫正盛のときに中央に進出しました。伊勢平氏の代表格の清盛は日本で初めての武家政権を確立。日本の歴史を変えました。源氏との抗争に敗れ、段の浦で「平家」一門は全滅、断絶しましたが、多くの伊勢平氏は逃げ隠れたと言われています。もしかすると、その後の歴史の変化に伊勢平氏の末裔が関わっていることもあるかもしれませんね。