伊勢平氏は知っているか。、平氏一族のひとつです。坂東平氏の流れをくんでいる。数ある平氏一族の中で、平貞盛の四男平維衡を祖とする一族が伊勢平氏。平氏というと何となく、最後に滅びた平氏と想像できるでしょうが、もっと複雑に構成されていたんです。

実は、平清盛は平氏のなかでも伊勢平氏の流れをくむ人物。そんな伊勢平氏について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、大河ドラマでもおなじみの平清盛を生んだ伊勢平氏についてまとめてみる。

伊勢平氏とはどんな流派?

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伊勢平氏とは平氏一族のひとつ。坂東平氏の流れをくみます。数ある平氏一族の中で、平貞盛の四男平維衡を祖とする一族が伊勢平氏。遡ると家系は桓武平氏の流れのひとつで、桓武天皇のひ孫の高望王が平姓を賜り、その流派の一つが伊勢平氏です。

伊勢平氏の歴史

関東を根拠地としていた坂東平氏が源氏との構想を繰り返す中で、平維衡が道長の元で台頭。伊勢の国の受領になりました。東国から伊勢、伊賀と本拠地を移した維衡は、伊勢の国を足掛かりに勢力を伸ばします。

維衡は伊勢守(伊勢の最高権力者)となって伊勢に土着。他の国の受領も歴任して、豊富な財を蓄え、中央の権力者道長からも信任を得ました。ちなみに、守というのは受領、または国司と同じ意味です。

お金の力で頭角を現す伊勢平氏

維衡の曾孫正盛(清盛の祖父)は、伊賀の領地を白川院に献上し白川院の信任を得て、警護の武士になりました。そして白川院の鍾愛を受け、伊勢平氏のなかでもぬきんでた栄達をとげます。

平正盛は伊賀の土地も白川院に寄贈。北面の武士(天皇の側近的な警護係)の地位を得ました。ここで伊勢平氏は他の平氏とは別格になったのです。その子忠盛(清盛の父)は、白川院側近の武士として地位を確立。財力を蓄え、武士として初めて昇殿を許されることになりました。

忠盛の子・平清盛は、武家として初めて政権を打ち立てました。娘を天皇の后とし、生まれた孫(安徳天皇)の外祖父として、並ぶ者ない権勢を手にしたのです。他に多く存在した伊勢平氏は清盛の一団として、平家の武士団となりました。
平正盛の家系を「平家」と呼ぶ場合もあります。しかし、時代によって用法は変化。一般的には壇ノ浦で滅亡した「清盛の一族」を「平家」と呼んでいます。

そもそも平氏とは?伊勢平氏と違うの?

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平家一門が壇の浦で滅亡したことは周知のとおり。ただ、それは平氏が滅亡したことを意味しません。『平家物語』のなかで、平家について多く語られてきましたが、平家はあくまで平氏の一族のひとつ。では「平氏」とは何なのでしょうか。

平氏は天皇の子孫

天皇の子孫から降下した元皇族が平氏。「平」という氏(うじ)をもらった一族のことです。「源氏」と呼ばれる一族は、やはり天皇の臣下に降った元皇族で「源」という氏をもらった一族のこと。平氏の方が源氏よりはやく生まれたので、当時は源氏より格が高いと考えられていました。

氏(うじ)とは

「氏」とは古代における同族集団。4世紀から5世紀にかけて、機内の有力な氏は大王の家を中心に大和朝廷を構成、徐々に秩序づけられていきます。一族のなかには、地方に土着して武士への道を歩む、朝廷に仕えて学問の道を進む、朝廷に入り込むなど、枝分かれしていきました。

源氏と平氏の違いは、源氏は天皇の子が始祖、平氏は天皇のひ孫が始まり。平氏のほうが格上とする説がある一方、源氏の方が格上という説、あるいは対等だったという説もあります。源氏と平氏は地方に土着して勢力を拡大。ある時は共に戦い、ある時は敵対しながら軍事部門で力を伸ばしました。

伊勢平氏などの武士が台頭する背景

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源氏にしても平氏にしても、その旗頭(いわゆる首長)になったのは貴族。源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇から出た皇族の系統の貴族です。貴族とはいっても、藤原摂関家によって中央の権力からは締め出されていたのが現実。彼らはどうして武士の旗頭になれたのでしょうか。

公地公民制度の崩壊

奈良時代までの律令制度は崩壊。土地制度は平安時代になると変化していきます。公地公民制度は形さえ残らなくなり、権力者の荘園がどんどん増えてゆきました。荘園を守るために豪族たちは武装化し始めました。

それにより、主従の関係に似た微視集団が形成されます。この武士化集団は、地主(領主)の利益を守るために結成されたもの。国家権力に逆らうことさえ出来るほど大きな武力となりました。

貴族たちと結びつく武士集団

中央の権力から締め出されて地方に下った、名門貴族、官人、国司たちから党首になる者が登場。国司として地方を歴任してきた清和源氏や桓武平氏は党首としてのブランド力がありました。そのため、源氏や平氏に結びついた地方の豪族は、名門貴族の仲間入りができたのです。

\次のページで「伊勢平氏の生みの親、平忠盛」を解説!/

伊勢平氏の生みの親、平忠盛

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伊勢平氏のなかでも、特別に有名な人は平清盛です。そこでまずは、清盛の父平忠盛の足跡をたどってみましょう。

宮中への昇殿を許された平忠盛

平忠盛は、伊勢平氏の中で初めて宮中への昇殿を許された人物です。白川院・鳥羽院を武力的に支え、大きな信頼を得ました。白川院は、最初は源氏に頼っていたのですが、源氏の内部で紛争が続出。白川院の信頼感を失った所に現われたのが伊勢平氏でした。

元々、伊勢平氏は伊勢が根拠地。忠盛のころは中央に力を伸ばし、白川院の側近の武士として官位を得ました。また彼は、国司を歴任する中で莫大な財を蓄えていました。中央政権に取り入る手段は賄賂と土地。方法はなんであれ、伊勢平治の中で抜きんでた存在となりました。

歌人としての才能もあった平忠盛

忠盛は歌人としても才能があり、歌集『忠盛集』を世に出しています。伊勢平氏の田舎者が、出世するのみならず歌集を出すとなると貴族の嫉妬の対象。『平家物語』では、貴族たちが「伊勢平氏はすがめ(=斜視)なり」と嘲笑ったと描かれていました。

さらに『平家物語』では、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した「祇園の女御」と呼ばれる女性を忠盛が貰い受けて、女御の生んだ子を自分の子として育てたというエピソードも。それが清盛だとされています。そのため、清盛は天皇の御落胤として特別の計らいを受け、太政大臣にまで昇ったとささやかれました。事実は不明です。

歴史を変えた伊勢平氏の代表格、平清盛

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平清盛は平忠盛の嫡男で、平氏の棟梁。保元の乱で白川院の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となります。武士として初めて太政大臣となり、平氏の独裁体制を確立しました。「おごれる平家」の象徴のように称されていますが、社会、経済を大きく変えた功績も大きい人物です。

平清盛の輝かしい功績

日宋貿易の拡充をなしえたのが清盛。瀬戸内海航路を整え、今の神戸港の前身である大輪田泊を作りました。さらに、宋銭を大量輸入。それまではほとんど物々交換に近かった日本経済を一変させました。鎌倉の大仏はこのときの宋銭を溶かして造ったものです。

厳島神社の歴史的な改修を実施、寝殿造りとしたのも清盛でした。厳島神社への信仰が深く、絵画史上に残る絢爛豪華な名作「平家納経」を製作、奉納します。政治的地位も着々と確立。妻時子との間に生まれた徳子(後の建礼門院)を高倉天皇の中宮とし、徳子の生んだ安徳天皇の外祖父となりました。

平清盛のエピソード

厳島神社江清盛が参拝する海路を作るときのエピソードが「音戸の瀬戸伝説」。清盛が山の岩の上に立って金の王日をかざして「返せ、返せ」と言うと、沈みかけた太陽がまた帰ってきた、それて一日で厳島神社への航路の工事が完成しました。

「にらみ潮」は、厳島神社の神さまが大蛇に変身、清盛に襲い掛かったという話。清盛は逃げたものの潮が向かい潮になり、船が動かなくなります。追って来た大蛇を清盛が睨み付けると、潮が引いて海は穏やかになりました。もちろん伝説です。

\次のページで「平家滅亡後も生き延びる伊勢平氏」を解説!/

当時は危険な水路工事を行う時には、生きた人間を神さまに捧げるしきたりがありました。それが人柱です。清盛は人柱の習慣を禁止。お経を書いた石を廃船に積み込み、船ごと海に沈める方法をとらせました。敵方の義経兄弟を殺さずに助けた清盛。野蛮で乱暴なイメージがありますが、人の命を大切に思う人だったのではないでしょうか。

平家滅亡後も生き延びる伊勢平氏

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滅亡したのは平氏一族の中の「平家」と呼ばれる一族。平家は「平家物語」であまりにも有名です。いわゆる「平家一門」は壇の浦の闘いで全滅、家系は途絶えますが、伊勢平氏はどうなったのでしょうか。

源平の戦いで命を落とす伊勢平氏

平教盛は清盛の弟。清盛の死後は一門の長として清盛の息子たちを盛り立てました。壇の浦の合戦では弟経盛と手を取り合って入水します。清盛の四男である平知盛は、権大納言として源頼政の軍勢を宇治で打破。最後は、敵に辱めを受けないために、鎧を二枚着て入水します。この場面は、文楽や歌舞伎に取りいれられ、「義経千本桜」でも演じられました。

平宗盛は清盛の三男。従一位内大臣にまで昇り、清盛の死後は一族を統率します。壇の浦で捕らえられ、鎌倉に送られたのち近江で殺されました。清盛の弟教盛の子が平教経。源氏兵と勇ましく闘いその名を馳せます。壇の浦では義経を追い詰めながら取り逃がし、源氏の武士と組み合って入水しました。

清盛の娘である平徳子は高倉天皇の中宮で、安徳天皇を出産。院号は建礼門院です。清盛関係の映画やテレビドラマでも主要人物として登場するので、知っている人も多いでしょう。平氏一門と共に西走。壇の浦で、母時子、安徳天皇と共に入水しますが、源氏兵に助けられ都に送られました。出家して大原寂光院で余生を送ります。

実は戦乱を生き延びている平家一門

平家一門の多くの女性たちは名門貴族の妻。戦乱を生き延び、その子たちも貴族として生き延びます。平家滅亡というのは男系で見た場合のみ。血筋が絶えたというわけではありません。

平家滅亡後も、伊勢、伊賀では反乱が相継ぎます。伊勢平氏の多くは没落。しかしながら、平家側に付かなかった諸伊勢平氏は存続しました。ある流派は、本家である平家を名乗ります。武士のなかにも平家の後裔と称する一族も多く存在しました。

今も生き残っているかもしれない伊勢平氏

伊勢平氏とは平氏の諸流派のひとつ。平維衡が伊瀬守になって伊勢に地盤を築いたのが始まりです。維衡の曾孫正盛のときに中央に進出しました。伊勢平氏の代表格の清盛は日本で初めての武家政権を確立。日本の歴史を変えました。源氏との抗争に敗れ、段の浦で「平家」一門は全滅、断絶しましたが、多くの伊勢平氏は逃げ隠れたと言われています。もしかすると、その後の歴史の変化に伊勢平氏の末裔が関わっていることもあるかもしれませんね。

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平安時代日本史鎌倉時代

平清盛を生んだ「伊勢平氏」とは?その発祥と行く末を元大学教員が5分でわかりやすく解説

伊勢平氏は知っているか。、平氏一族のひとつです。坂東平氏の流れをくんでいる。数ある平氏一族の中で、平貞盛の四男平維衡を祖とする一族が伊勢平氏。平氏というと何となく、最後に滅びた平氏と想像できるでしょうが、もっと複雑に構成されていたんです。

実は、平清盛は平氏のなかでも伊勢平氏の流れをくむ人物。そんな伊勢平氏について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は、大河ドラマでもおなじみの平清盛を生んだ伊勢平氏についてまとめてみる。

伊勢平氏とはどんな流派?

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伊勢平氏とは平氏一族のひとつ。坂東平氏の流れをくみます。数ある平氏一族の中で、平貞盛の四男平維衡を祖とする一族が伊勢平氏。遡ると家系は桓武平氏の流れのひとつで、桓武天皇のひ孫の高望王が平姓を賜り、その流派の一つが伊勢平氏です。

伊勢平氏の歴史

関東を根拠地としていた坂東平氏が源氏との構想を繰り返す中で、平維衡が道長の元で台頭。伊勢の国の受領になりました。東国から伊勢、伊賀と本拠地を移した維衡は、伊勢の国を足掛かりに勢力を伸ばします。

維衡は伊勢守(伊勢の最高権力者)となって伊勢に土着。他の国の受領も歴任して、豊富な財を蓄え、中央の権力者道長からも信任を得ました。ちなみに、守というのは受領、または国司と同じ意味です。

お金の力で頭角を現す伊勢平氏

維衡の曾孫正盛(清盛の祖父)は、伊賀の領地を白川院に献上し白川院の信任を得て、警護の武士になりました。そして白川院の鍾愛を受け、伊勢平氏のなかでもぬきんでた栄達をとげます。

平正盛は伊賀の土地も白川院に寄贈。北面の武士(天皇の側近的な警護係)の地位を得ました。ここで伊勢平氏は他の平氏とは別格になったのです。その子忠盛(清盛の父)は、白川院側近の武士として地位を確立。財力を蓄え、武士として初めて昇殿を許されることになりました。

忠盛の子・平清盛は、武家として初めて政権を打ち立てました。娘を天皇の后とし、生まれた孫(安徳天皇)の外祖父として、並ぶ者ない権勢を手にしたのです。他に多く存在した伊勢平氏は清盛の一団として、平家の武士団となりました。
平正盛の家系を「平家」と呼ぶ場合もあります。しかし、時代によって用法は変化。一般的には壇ノ浦で滅亡した「清盛の一族」を「平家」と呼んでいます。

そもそも平氏とは?伊勢平氏と違うの?

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平家一門が壇の浦で滅亡したことは周知のとおり。ただ、それは平氏が滅亡したことを意味しません。『平家物語』のなかで、平家について多く語られてきましたが、平家はあくまで平氏の一族のひとつ。では「平氏」とは何なのでしょうか。

平氏は天皇の子孫

天皇の子孫から降下した元皇族が平氏。「平」という氏(うじ)をもらった一族のことです。「源氏」と呼ばれる一族は、やはり天皇の臣下に降った元皇族で「源」という氏をもらった一族のこと。平氏の方が源氏よりはやく生まれたので、当時は源氏より格が高いと考えられていました。

氏(うじ)とは

「氏」とは古代における同族集団。4世紀から5世紀にかけて、機内の有力な氏は大王の家を中心に大和朝廷を構成、徐々に秩序づけられていきます。一族のなかには、地方に土着して武士への道を歩む、朝廷に仕えて学問の道を進む、朝廷に入り込むなど、枝分かれしていきました。

源氏と平氏の違いは、源氏は天皇の子が始祖、平氏は天皇のひ孫が始まり。平氏のほうが格上とする説がある一方、源氏の方が格上という説、あるいは対等だったという説もあります。源氏と平氏は地方に土着して勢力を拡大。ある時は共に戦い、ある時は敵対しながら軍事部門で力を伸ばしました。

伊勢平氏などの武士が台頭する背景

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源氏にしても平氏にしても、その旗頭(いわゆる首長)になったのは貴族。源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇から出た皇族の系統の貴族です。貴族とはいっても、藤原摂関家によって中央の権力からは締め出されていたのが現実。彼らはどうして武士の旗頭になれたのでしょうか。

公地公民制度の崩壊

奈良時代までの律令制度は崩壊。土地制度は平安時代になると変化していきます。公地公民制度は形さえ残らなくなり、権力者の荘園がどんどん増えてゆきました。荘園を守るために豪族たちは武装化し始めました。

それにより、主従の関係に似た微視集団が形成されます。この武士化集団は、地主(領主)の利益を守るために結成されたもの。国家権力に逆らうことさえ出来るほど大きな武力となりました。

貴族たちと結びつく武士集団

中央の権力から締め出されて地方に下った、名門貴族、官人、国司たちから党首になる者が登場。国司として地方を歴任してきた清和源氏や桓武平氏は党首としてのブランド力がありました。そのため、源氏や平氏に結びついた地方の豪族は、名門貴族の仲間入りができたのです。

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