
狩野派の終焉?江戸幕府滅亡で狩野派も消滅?
狩野派は明治時代になるとなくなってしまいます。狩野派絵師は権力者のもとで障壁画を描いていくことをしていました。つまり、幕府という権力のもとで絵師として活躍していたのです。実際に明治維新以降の狩野派がどうなったのかを見ていきましょう。
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江戸幕府滅亡で御用が無くなった?御用絵師の消滅
江戸幕府が滅亡したことで狩野派の歴史的な役割も終わってしまいました。奥絵師四家も鍛冶橋家が徳川宗家に付き従った以外は全て平民になりました。
幕府御用絵師としてさまざまな障壁画を担当していましたが、明治時代に入り障壁画を書くことが減ったため、狩野派の絵師が出る幕がなかったのです。また、近代画壇では美術学校が設置され、そこで絵画を学ぶことが主流となりました。
狩野派の均質な弟子の教育ではなく、個性を重んじる西洋の画壇に押され、狩野派は明治時代に入り消滅したのです。
明治画壇でも活躍した狩野派の絵師
狩野芳崖 – http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=1368, パブリック・ドメイン, リンクによる
明治に入り狩野派に属していた絵師で近代画壇でも活躍した人もいます。それが地方の狩野家出身の狩野芳崖と橋本雅邦です。二人は木挽町家十代目当主の勝川院雅信の門下でした。二人とも優秀な絵師で「勝川院二神速」と呼ばれるようになりました。
その後、日本近代画壇の基盤を作ったフェノロサに出会い、その才覚から東京美術学校の準備を行います。しかし、発足前に狩野芳崖は死んでしまったのです。その直前に描き上げたのが狩野芳崖の代表作「悲母観音」になります。
橋本雅邦は狩野芳崖の死を受け、東京美術学校の絵画科の主任となり、雅邦四天王と呼ばれる近代画壇で有名な下村観山や横山大観など多くの芸術家を育てました。
近世日本の絵画を支えた狩野派!
室町時代中期から江戸時代が終わるまで、幕府の御用絵師として日本の絵画をリードしてきたのが狩野派です。また、絵画だけでなく、弟子育成のシステムを作り出した点では日本の教育のあり方を考えさせるところもあります。狩野派は日本の美術を高め、絵画を仕事として確立した重要な職業絵師集団だったのです。