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3分で簡単狩野派!日本史上最大の絵師集団?絢爛豪華な金屏の障壁画を描いた狩野派について現役講師ライターがわかりやすく解説

狩野永徳の一番弟子?狩野山楽が京都に残る

狩野永徳の一番弟子とも言われているのが狩野山楽です。狩野山楽は狩野家の親族ではなく、浅井家の家臣であった家に生まれました。その後、浅井氏から織田信長、豊臣秀吉と当時の権力者に重用される絵師でした。

しかし、豊臣秀吉の命で狩野永徳の門下に入りました。本人としては武士の身分を捨てたくはなかったのですが、絵師としての才能を買われていたため、狩野派門下に入ったのです。狩野永徳のもとで狩野山楽は多くの障壁画を担当していきます。

江戸幕府が開かれた際に狩野山楽は豊臣方の絵師を続けるなどしていたため、狩野家を中心に絵師たちが江戸に移動していきました。狩野山楽は京に残り、京狩野の祖となりました。京狩野はその後、狩野山楽の弟子である狩野山雪が二代目の当主になり、さまざまな作品を残しています。

狩野永徳の孫!狩野探幽が御用絵師になる

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狩野探幽http://www.salvastyle.com/menu_japanese/tanyu.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代初期に江戸に移った狩野家は江戸幕府の御用絵師として活躍していきます。そのきっかけとなったのが、狩野永徳の孫狩野探幽です。

狩野探幽は徳川家康に駿府で謁見して以来、幕府の御用絵師として京から江戸へ移住しました。狩野探幽が住んだ場所が江戸の鍛冶橋の近くだったため、狩野探幽の子孫を鍛冶橋狩野家といい、狩野探幽はその祖となります。

はじめは狩野永徳のような豪壮な画風でしたが、後年は水墨を主体とする端麗で詩情豊かな画風を生み出しました。また、写生を多く残しており、尾形光琳などはその写生を模写しています。こうしたことから、狩野探幽は博物画の先駆とも評されているのです。

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狩野派は親族だけでなく、多くの弟子を抱えていたんだ。その例として有名なのが狩野山楽だ。しかし、狩野派に合わないものは破門されることもあったんだ。その有名な絵師には久隅守景と清原雪信親子がいるぞ。清原雪信は久隅守景の娘だが、同じ狩野派の門下生と駆け落ちをしたんだ。その責任などで久隅守景も破門されたんだ。狩野安信の弟子の英一蝶は風俗画ばかり描いたため破門されたが、素晴らしい絵を残しているぞ。

狩野派の分立?狩野派の中での格式

狩野派は狩野探幽が江戸に移動した際に京狩野と江戸狩野に別れました。また、狩野永徳の子どもが3人いたことから住んだ場所で、家が別れました。

江戸幕府の御用絵師にもランクがあり、最高ランクの御用絵師を奥絵師といいます。この奥絵師には狩野家の4つの家柄が入り、旗本と同じ扱いで、将軍にも謁見できたのです。

では、江戸狩野が栄えた狩野派の教育システムと江戸狩野について見ていきましょう。

弟子教育の統一化?粉本が狩野派絵師を育成する

狩野派の絵師は幕府の御用絵師として城などの建物内の障壁画などを描きました。一人で書き上げたものもあるかと思いますが、大掛かりなものは弟子を引き連れて描くことになります。弟子も狩野派の絵師として代表絵師と同じように描けないといけません。どのようにして、弟子育成を行っていったのでしょうか。

弟子育成には大きく二つの力が働いています。一つ目が狩野元信の画体の確立です。「真・行・草」の3つの画体は集団制作を行う障壁画作成において大きな役割を果たしました。

二つ目が粉本です。粉本とは絵師が制作を行うための古画の模写や写生帖のことになります。狩野派絵師はこの粉本の模写を行い、運筆などの基礎訓練を行うことで、弟子たちが同じクオリティで絵が描けるようにしたのです。

これら二つから多くの弟子が、どこでも障壁画を描きに行くことができるようになりました。画体と粉本が狩野派の繁栄を支えていたのです。

武士と同じ身分?狩野派最高の絵師たち

幕府の御用絵師にはランクがあります。最高ランクの絵師は奥絵師と呼ばれ、将軍への謁見もできる旗本と同じ扱いの絵師もいました。また、狩野派が江戸に移住したときに京狩野と江戸狩野に分かれ、江戸狩野も分散しました。また、弟子たちが起こした狩野家も含めると色々な狩野派の家柄があるのです。

ただ、どの家が奥絵師になるかは決まっており、その家が世襲するようになっていました。奥絵師になったのは狩野探幽の系統である鍛冶橋家中橋家木挽町家浜町家の四家の狩野家になります。

また、奥絵師の次のランクに表絵師があり、その表絵師には駿河台家を筆頭に十五家が御家人と同じ扱いで、将軍に仕えていたのです。狩野家の分派が多いこともありますが、幕府内で狩野派絵師は地位を確立していました。

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京狩野の狩野山雪の子どもである狩野永納は禁裏の修復作業に狩野探幽や土佐光起などと一緒に参加し、功績を残したんだ。ただ、狩野永納が残したのは絵画だけではないんだ。それが「本朝画史」という画家列伝だ。狩野永納は古画の研究も行い、405人の画家の画人伝を発行したんだ。もともと「本朝画史」は父狩野山雪が企画したもので、狩野永納が引き継いで完成させたんだ。

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