狩野派という日本で400年以上続いた絵師集団を知っているか。狩野派といえば「洛中洛外図屏風」を描いた狩野永徳は有名です。その他にも狩野派の画家を何人か知っているかと思う。しかし、狩野派は室町時代から江戸時代が終わるまで続いた絵師集団であることを知っているか。
今回は狩野派の始まりから狩野派の絵画や功績などの詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライターで、専門科目は社会を担当している。授業はわかりやすいという定評を生徒から受けている。中世や近世の文化史を最も得意とする。

狩野派って何だ?狩野派の全貌を見てみよう

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狩野派とは室町時代から江戸時代終わりまでに栄えた日本最大の職業絵師集団です。狩野派の祖である狩野元信の子孫と狩野派で修行を行った門弟たちの集団になります。

狩野の名前をしていても狩野の親族ではなく、狩野派で学んだ弟子も狩野の名前を冠していました。例えば、狩野家四代目当主の狩野永徳の弟子である狩野山楽は狩野家の者ではなく、狩野派で修行した弟子です。

では、どのような集団であったのか、見ていきましょう。

室町幕府から始まる狩野派!狩野派の祖である狩野正信

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狩野正信 - http://d-archive.kyuhaku.jp/da/collection/info/id/2/, パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野派の祖と呼ばれているのが狩野正信です。狩野正信は室町時代中期に室町幕府六代目将軍足利義教に仕えたとされています。しかし、史実であるかは明確にはなっていません。

その後、室町幕府御用絵師の宗湛に師事したと考えられています。そして、八代将軍足利義政の東山山荘の障壁画を担当したのです。

狩野派は狩野正信が幕府の御用絵師となって、仕え始めたことから始まります。ここから約400年狩野派が続いていくのです。

権力者がこぞって重用?狩野派繁栄の秘訣

狩野派が約400年続いた秘訣は幕府の御用絵師になったことです。狩野派の祖である狩野正信は室町幕府の御用絵師となりました。御用絵師になるということは将軍の命で、大規模な障壁画制作などに関われるということです。

狩野派の絵師は室町幕府が滅んでも織田信長や豊臣秀吉に仕えることで、安土城や大阪城の障壁画制作を行いました。江戸時代に入ると江戸幕府の御用絵師に狩野探幽がなり、江戸幕府でも重用される絵師集団を築いたのです。

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狩野派は2つある?いや、もっと細かく分かれていた

狩野派は江戸時代初期に大きく二つに分かれました。狩野家直系の絵師たちは幕府のある江戸へと移住していきます。その中で、元武士で狩野永徳に師事した狩野山楽はそのまま京都に残ることにしたのです。

この京都に残った狩野派絵師を京狩野と呼びます。それに対して江戸に移った狩野派絵師を江戸狩野と呼ぶのです。狩野山楽一門の絵師は京狩野として九条家本願寺に仕えました。

このように弟子が狩野の名を持ってその土地で狩野派絵師として活躍したことから、全国に狩野家の分派が広がったのです。

狩野派誕生!狩野正信が幕府の御用絵師になる

狩野派は初代の狩野正信と二代目の狩野元信が盤石な家柄にしたことが、繁栄の大きなきっかけとなっています。初代狩野正信は足利将軍家に重用され、幕府の御用絵師になりました。では、初代狩野正信と二代目狩野元信がどのような形で、狩野派を作り上げたかを見ていきましょう。

狩野派の祖は取り入り上手?幕府御用絵師で地位確立

狩野派の祖である狩野正信は室町幕府六代目将軍足利義教に重用されたと言われています。その後、八代将軍足利義政東山山荘の障壁画作成をすることで、幕府の御用絵師としての地位を盤石にしました。

狩野正信は当時始まった水墨画や平安時代以来の日本風絵画の大和絵でもない画風で重用されます。画風としては漢画系の山水画を描いているのです。「尋尊大僧正記」では土佐弟子という記述がありますが、作品の中に大和絵になるものは一切ないため、何かで関わりを持った程度に考えられています。

狩野正信の「周茂叔愛蓮図」!狩野派のスタイルが確立

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狩野正信 - Tokyo National Museum, Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野正信の「周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)」全てのモチーフをわかりやすくはっきりと表現しています。この絵画は狩野派の進むべき方向性を決定づけた作品として有名です。

狩野正信は室町時代に大成された水墨画でもなく、また古来の大和絵でもない新しいジャンルの絵を描くことで、他との差別化を図ります。また、日本の中で好まれるよう完全な漢画ではなく、大和絵の技法などを入れることでオリジナリティを高めたのです。

狩野元信は教え上手?絵師を育てるスタイルの確立

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パブリック・ドメイン, リンク

狩野正信によって確立された狩野派の絵画スタイルは正信の子どもである元信に引き継がれます。狩野元信は足利将軍家だけでなく、当時権勢を奮っていた三管領の1つ細川家とも結びつき、狩野派の地位を盤石にしたのです。

狩野元信が狩野派をより盤石にしたのが、画体の概念を確立したことにあります。書道に書体があるように狩野元信は「真・行・草」という3つの画体を確立したのです。この画体が障壁画を描くときに大いに役立ちました。狩野元信はこの画体の確立で「近代障壁画の祖」と呼ばれるのです。

狩野派の隆盛!狩野永徳が現れる

狩野派の絵師で一番名前が出てくるのが狩野永徳だと思います。狩野永徳は「洛中洛外図屏風屏風」や大徳寺聚光院方丈障壁画「花鳥図」など金色に輝く屏風絵や障壁画を残した絵師です。

また、織田信長や豊臣秀吉に重用され、安土城や大阪城などの障壁画も担当しました。では、狩野永徳はどのような絵師だったのでしょうか。また、狩野永徳の後に続く絵師にはどのような人がいるのか、見ていきましょう。

日本一忙しい絵師?狩野永徳の絵画

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狩野永徳 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野永徳が残した絵画の多くは極彩色の絵と余白に金箔を貼る濃絵です。派手な金色の屏風障壁画は目を引く作品となっています。また、現存はしていませんが多くの障壁画を描いたことはさまざまな記述に記されているところです。

狩野永徳は日本美術史上の著名な画家の一人と言われ、作品の素晴らしさは当時の権力者がこぞって重用したことが証明しています。しかし、絵師としての仕事が多忙を極め、過労が積み重なり48歳の若さで死んでしまいました。

しかし、狩野永徳の弟子や子ども、孫は永徳の技法などを学び、優れた作品を生み出したのです。

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狩野永徳の一番弟子?狩野山楽が京都に残る

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狩野山楽 - http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sanraku.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野永徳の一番弟子とも言われているのが狩野山楽です。狩野山楽は狩野家の親族ではなく、浅井家の家臣であった家に生まれました。その後、浅井氏から織田信長、豊臣秀吉と当時の権力者に重用される絵師でした。

しかし、豊臣秀吉の命で狩野永徳の門下に入りました。本人としては武士の身分を捨てたくはなかったのですが、絵師としての才能を買われていたため、狩野派門下に入ったのです。狩野永徳のもとで狩野山楽は多くの障壁画を担当していきます。

江戸幕府が開かれた際に狩野山楽は豊臣方の絵師を続けるなどしていたため、狩野家を中心に絵師たちが江戸に移動していきました。狩野山楽は京に残り、京狩野の祖となりました。京狩野はその後、狩野山楽の弟子である狩野山雪が二代目の当主になり、さまざまな作品を残しています。

狩野永徳の孫!狩野探幽が御用絵師になる

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狩野探幽 - http://www.salvastyle.com/menu_japanese/tanyu.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代初期に江戸に移った狩野家は江戸幕府の御用絵師として活躍していきます。そのきっかけとなったのが、狩野永徳の孫狩野探幽です。

狩野探幽は徳川家康に駿府で謁見して以来、幕府の御用絵師として京から江戸へ移住しました。狩野探幽が住んだ場所が江戸の鍛冶橋の近くだったため、狩野探幽の子孫を鍛冶橋狩野家といい、狩野探幽はその祖となります。

はじめは狩野永徳のような豪壮な画風でしたが、後年は水墨を主体とする端麗で詩情豊かな画風を生み出しました。また、写生を多く残しており、尾形光琳などはその写生を模写しています。こうしたことから、狩野探幽は博物画の先駆とも評されているのです。

狩野派の分立?狩野派の中での格式

狩野派は狩野探幽が江戸に移動した際に京狩野と江戸狩野に別れました。また、狩野永徳の子どもが3人いたことから住んだ場所で、家が別れました。

江戸幕府の御用絵師にもランクがあり、最高ランクの御用絵師を奥絵師といいます。この奥絵師には狩野家の4つの家柄が入り、旗本と同じ扱いで、将軍にも謁見できたのです。

では、江戸狩野が栄えた狩野派の教育システムと江戸狩野について見ていきましょう。

弟子教育の統一化?粉本が狩野派絵師を育成する

狩野派の絵師は幕府の御用絵師として城などの建物内の障壁画などを描きました。一人で書き上げたものもあるかと思いますが、大掛かりなものは弟子を引き連れて描くことになります。弟子も狩野派の絵師として代表絵師と同じように描けないといけません。どのようにして、弟子育成を行っていったのでしょうか。

弟子育成には大きく二つの力が働いています。一つ目が狩野元信の画体の確立です。「真・行・草」の3つの画体は集団制作を行う障壁画作成において大きな役割を果たしました。

二つ目が粉本です。粉本とは絵師が制作を行うための古画の模写や写生帖のことになります。狩野派絵師はこの粉本の模写を行い、運筆などの基礎訓練を行うことで、弟子たちが同じクオリティで絵が描けるようにしたのです。

これら二つから多くの弟子が、どこでも障壁画を描きに行くことができるようになりました。画体と粉本が狩野派の繁栄を支えていたのです。

武士と同じ身分?狩野派最高の絵師たち

幕府の御用絵師にはランクがあります。最高ランクの絵師は奥絵師と呼ばれ、将軍への謁見もできる旗本と同じ扱いの絵師もいました。また、狩野派が江戸に移住したときに京狩野と江戸狩野に分かれ、江戸狩野も分散しました。また、弟子たちが起こした狩野家も含めると色々な狩野派の家柄があるのです。

ただ、どの家が奥絵師になるかは決まっており、その家が世襲するようになっていました。奥絵師になったのは狩野探幽の系統である鍛冶橋家中橋家木挽町家浜町家の四家の狩野家になります。

また、奥絵師の次のランクに表絵師があり、その表絵師には駿河台家を筆頭に十五家が御家人と同じ扱いで、将軍に仕えていたのです。狩野家の分派が多いこともありますが、幕府内で狩野派絵師は地位を確立していました。

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狩野派の終焉?江戸幕府滅亡で狩野派も消滅?

狩野派は明治時代になるとなくなってしまいます。狩野派絵師は権力者のもとで障壁画を描いていくことをしていました。つまり、幕府という権力のもとで絵師として活躍していたのです。実際に明治維新以降の狩野派がどうなったのかを見ていきましょう。

江戸幕府滅亡で御用が無くなった?御用絵師の消滅

江戸幕府が滅亡したことで狩野派の歴史的な役割も終わってしまいました。奥絵師四家も鍛冶橋家が徳川宗家に付き従った以外は全て平民になりました。

幕府御用絵師としてさまざまな障壁画を担当していましたが、明治時代に入り障壁画を書くことが減ったため、狩野派の絵師が出る幕がなかったのです。また、近代画壇では美術学校が設置され、そこで絵画を学ぶことが主流となりました。

狩野派の均質な弟子の教育ではなく、個性を重んじる西洋の画壇に押され、狩野派は明治時代に入り消滅したのです。

明治画壇でも活躍した狩野派の絵師

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狩野芳崖 - http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=1368, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治に入り狩野派に属していた絵師で近代画壇でも活躍した人もいます。それが地方の狩野家出身の狩野芳崖橋本雅邦です。二人は木挽町家十代目当主の勝川院雅信の門下でした。二人とも優秀な絵師で「勝川院二神速」と呼ばれるようになりました。

その後、日本近代画壇の基盤を作ったフェノロサに出会い、その才覚から東京美術学校の準備を行います。しかし、発足前に狩野芳崖は死んでしまったのです。その直前に描き上げたのが狩野芳崖の代表作「悲母観音」になります。

橋本雅邦は狩野芳崖の死を受け、東京美術学校の絵画科の主任となり、雅邦四天王と呼ばれる近代画壇で有名な下村観山横山大観など多くの芸術家を育てました。

近世日本の絵画を支えた狩野派!

室町時代中期から江戸時代が終わるまで、幕府の御用絵師として日本の絵画をリードしてきたのが狩野派です。また、絵画だけでなく、弟子育成のシステムを作り出した点では日本の教育のあり方を考えさせるところもあります。狩野派は日本の美術を高め、絵画を仕事として確立した重要な職業絵師集団だったのです。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

3分で簡単狩野派!日本史上最大の絵師集団?絢爛豪華な金屏の障壁画を描いた狩野派について現役講師ライターがわかりやすく解説

狩野派という日本で400年以上続いた絵師集団を知っているか。狩野派といえば「洛中洛外図屏風」を描いた狩野永徳は有名です。その他にも狩野派の画家を何人か知っているかと思う。しかし、狩野派は室町時代から江戸時代が終わるまで続いた絵師集団であることを知っているか。
今回は狩野派の始まりから狩野派の絵画や功績などの詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライターで、専門科目は社会を担当している。授業はわかりやすいという定評を生徒から受けている。中世や近世の文化史を最も得意とする。

狩野派って何だ?狩野派の全貌を見てみよう

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狩野派とは室町時代から江戸時代終わりまでに栄えた日本最大の職業絵師集団です。狩野派の祖である狩野元信の子孫と狩野派で修行を行った門弟たちの集団になります。

狩野の名前をしていても狩野の親族ではなく、狩野派で学んだ弟子も狩野の名前を冠していました。例えば、狩野家四代目当主の狩野永徳の弟子である狩野山楽は狩野家の者ではなく、狩野派で修行した弟子です。

では、どのような集団であったのか、見ていきましょう。

室町幕府から始まる狩野派!狩野派の祖である狩野正信

狩野派の祖と呼ばれているのが狩野正信です。狩野正信は室町時代中期に室町幕府六代目将軍足利義教に仕えたとされています。しかし、史実であるかは明確にはなっていません。

その後、室町幕府御用絵師の宗湛に師事したと考えられています。そして、八代将軍足利義政の東山山荘の障壁画を担当したのです。

狩野派は狩野正信が幕府の御用絵師となって、仕え始めたことから始まります。ここから約400年狩野派が続いていくのです。

権力者がこぞって重用?狩野派繁栄の秘訣

狩野派が約400年続いた秘訣は幕府の御用絵師になったことです。狩野派の祖である狩野正信は室町幕府の御用絵師となりました。御用絵師になるということは将軍の命で、大規模な障壁画制作などに関われるということです。

狩野派の絵師は室町幕府が滅んでも織田信長や豊臣秀吉に仕えることで、安土城や大阪城の障壁画制作を行いました。江戸時代に入ると江戸幕府の御用絵師に狩野探幽がなり、江戸幕府でも重用される絵師集団を築いたのです。

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