室町時代日本史歴史

3分で簡単東山文化!銀閣は書院造ではない?銀閣を中心とする東山文化を現役講師ライターがわかりやすく解説

落ち着きをはらう禅宗寺院?枯山水の庭園

室町前期に定まった五山・十刹の制度ですが、室町の後半期になると五山制度から抜ける寺院やもとから入っていない寺院が修行の重要性を説き始め、五山の寺院と一線を引くようになりました。

その修行の中で、広大な庭園を見るのではなく、仏教の宇宙観を白砂利や岩を使って表そうとする枯山水が広がり始めるのです。枯山水は広い敷地を必要とせず、狭い空間の中に自然を圧縮し、抽象化することを求めました。

では、東山文化の庭園にはどのようなものがあるのかを見ていきましょう。

金閣ではなく、苔寺を参考にした?慈照寺庭園

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Oilstreet – 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, リンクによる

慈照寺庭園は足利義政が同朋衆の善阿弥に作らせた庭です。将軍家の別荘の庭になりますから金閣をモデルに作ったように感じます。しかし、慈照寺庭園は苔寺で有名な西芳寺を参考にして作られました。

東山文化は北山文化で発達したものが成熟した文化です。わびさびといった落ち着いた雰囲気が基調となる文化のため、西芳寺の閑寂な趣を真似ました。

慈照寺庭園は錦鏡池を中心とした池泉式回遊庭園です。庭園の中には西芳寺同様枯山水の面影があります。しかし、現在の姿は江戸時代に改修された姿で創建当時の姿ではないのです。

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同朋衆とは将軍家に仕えた雑務や芸能ごとを行う僧侶の集団のことを指すんだ。もとは一遍の時衆教団に芸能ごとが得意なものが集まったことが始まりとされているぞ。将軍家に仕えるようになったのは足利義満の時期になるんだ。足利義政に仕えていた能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代は絵画や連歌に秀でて活躍したんだ。相阿弥は龍安寺や大徳寺大仙院の枯山水を作ったとも言われているぞ。

枯山水の代表!龍安寺庭園

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Cquest投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

龍安寺臨済宗妙心寺派の寺院になります。妙心寺は五山に入っていない臨済宗の寺院で、独自の修行路線を走った唯一の寺院です。龍安寺は応仁の乱の東軍総大将である細川勝元が建立し、妙心寺の義天玄承を住職に招いて開かれた寺院になります。

妙心寺の厳しい修行の教えが龍安寺でも行われ、修行のための禅の庭園として龍安寺庭園が作られました。作者は応仁の乱後、龍安寺を再興した特芳禅傑や同朋衆の相阿弥などではないかとされていますが、明確ではありません。

龍安寺の枯山水の石配置は中国の故事である「虎の子渡し」を表現しているとして「虎の子渡しの庭」と言われます。また、石の配置が見え方で変わることから「七五三の庭」とも呼ばれるのです。

また、同じ枯山水でも深山幽谷を表現したものが大徳寺大仙院庭園になります。大徳寺は初め五山の一角を担っていましたが、一休などが出て五山から脱退し、修行を重んじるようになりました。

公家文化の興隆?幕府とのつながりが文化を促進

室町時代は武家文化と貴族文化が融合していきました。室町中期以降の文化になる東山文化は貴族文化が成熟し、新たな貴族文化が広がりました。中でも連歌は室町前期で二条良基が連歌の規則をまとめた「応安新式」を出したことで、広まったのです。また、その連歌の規則を打ち破ろうとする動きや宮中での職制を研究する有職故実なども進展していきました。

連歌の隆盛!宗祇の連歌

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不明 – The Japanese book “Mōri Motonari: Special Exhibition (毛利元就展)”, パブリック・ドメイン, リンクによる

室町時代は二条良基を皮切りにしてさまざまな連歌師が連歌を作りました。将軍家に使える芸能の僧侶集団である同朋衆の中にも頓阿周阿といった優れた連歌師もいました。

中でも優れた連歌作品で有名なのが「水無瀬三吟百韻」です。この連歌は後鳥羽天皇を祀る水無瀬宮に奉納された百句からなる連歌になります。この作品は連歌の模範とも呼ばれている作品です。この連歌を作った中心人物が宗祇でした。

宗祇はいろいろなところを旅しながら、その才覚を取り立てられ、連歌会の奉行にまでなります。そこで、「新撰菟玖波集」を編纂したのです。

俳諧が広まる?山崎宗鑑の連歌

連歌はもともと言語遊戯や即興的な滑稽を生むものとして長年親しまれてきました。その連歌に和歌的な幽玄や有心体などを入れることで、文芸まで引き上げたのが、二条良基です。

しかし、連歌本来の即興的な滑稽さを求めようとする人も出てきました。その人が山崎宗鑑です。山崎宗鑑が行った連歌は和歌的な要素を求めていません。このような連歌を俳諧といいます。

山崎宗鑑は民衆的な作風の句を残し、記録していきました。これが「犬筑波集」です。山崎宗鑑の句集は俳諧を独立した芸術に押し上げ、江戸の談林俳諧に影響を与えました。また、山崎宗鑑は俳諧を始めたことから俳諧の祖と呼ばれています。

菅原道真を超えた?多彩なる公家一条兼良

五摂家の一つである一条家一条兼良は朝廷での政争に敗れて、左大臣の位を譲りました。しかし、朝廷の職制を研究する有職故実を行っていたので、研究者としての地位が高まったのです。また、有職故実によって古典や和歌、能楽といった幅広い知識を持っていました。

応仁の乱後に将軍家に仕えることになり、室町幕府九代目将軍足利義尚の政道に関する問いの意見書「樵談治要」を提出します。一条兼良は政道の指南を行うと同時に学問が好きな人に学問を教えて回ったのです。人々は一条兼良を「日本無双の才人」と讃え、自身は「菅原道真以上の学者である」と豪語しました。

宮中の年中行事をまとめた「公事根源」や源氏物語の注釈書である「花鳥余情」など、有職故実をはじめ、古典の注釈書など多岐に割る分野の著書を作り出しました。

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