東山文化という室町時代の文化を知っているか。東山といえば、銀閣で聞いたことがある地名だと思う。銀閣といえば書院造が有名です。しかし、銀閣自体は書院造の建築物ではないのです。また、東山文化は水墨画が大成した時期でもあるんです。
今回は明確になっていない銀閣の建築様式をはじめとした東山文化の詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。専門科目は社会科で、生徒からはわかりやすいと定評がある。歴史好きで、自分でも史跡巡りをよく行っている。

東山文化はどんな文化だった?東山文化のポイント見てみよう

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東山文化は室町幕府八代目将軍足利義政の頃の文化になります。足利義政といえば、応仁の乱を引き起こした将軍ですね。北山文化のような平和な世の中の文化と違い、戦国期に向かう混迷した社会の中の文化になります。混迷した社会の中で成立した東山文化を知るためのキーポイントをまずは見ていきましょう。

東山文化の中心はやはり銀閣!

東山文化の東山は銀閣を有する慈照寺の山号であり、銀閣のもともとの名称である山荘の東山殿から文化の名前がつけられています。北山文化の中心が金閣ならば、東山文化の中心は銀閣になるのです。

銀閣はもともと足利義政の別荘でした。政治機能の書斎として東求堂を建築し、銀閣自体は観音堂として建築されたものになります。銀閣内部には観音菩薩が安置されているのです。

応仁の乱後に東山殿の建設を始めましたが、完成する前に足利義政が死んでしまいます。その後、足利義政の菩提を弔うために足利義政の院号である慈照院殿から慈照寺と名付けられたのです。

枯山水が流行する?東山文化の庭園

北山文化では夢窓疎石が背後の山を借景とした大規模な池泉式回遊庭園を作りました。夢窓疎石は西芳寺の庭園内に枯山水を完成させていました。

東山文化の代表である銀閣は開山を夢窓疎石にする形で、北山文化の頃の庭園を受け継いだ池泉式回遊庭園を作ったのです。しかし、池泉式回遊庭園は広大な土地を必要とします。また、禅の修行を行うために仏教世界を表現することを考えると大規模な工事が必要でした。

そこで、狭い空間で修行のための空間を開く枯山水が作られるようになったのです。

百句詠みが当たり前?連歌の流行

奈良から平安時代にかけて貴族文化の代表となった和歌は鎌倉時代に武家文化が主流になったため、一時の隆盛が過ぎました。ただ、和歌研究は貴族の中では重要な教養であることは確かでした。

室町時代になり、貴族文化と武家文化が融合する中で、和歌の重要性が再度増してきます。室町時代になって和歌から新たな文芸の創作が始まり、広がったのが連歌です。

連歌自体は和歌草創期からありますが、句を二つ連ねる短連歌が中心でした。室町時代になり、100〜120句連ねる長連歌が流行り、宗祇などが百韻で作品を作ったことから100句連ねる百韻が主流となったのです。

東山文化で貴族文化は興隆期を再度迎える形となりました。

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水墨画が大成!水墨画だけではない室町の絵画界

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不詳 unknown - 雪舟<新潮日本美術文庫 1>, パブリック・ドメイン, リンクによる

室町時代の絵画といえば雪舟水墨画の大成が大きな出来事になります。水墨画は中国の山水画禅画の技法を発展させた墨の濃淡のみで仕上げる日本風の絵画です。室町時代は禅宗、特に臨済宗の影響が強かったことで水墨画が大成されたのでした。

また、平安時代から続く大和絵土佐光信が出て、再興されました。また、大和絵の技法に中国の唐絵の技法などを織り交ぜた新しい絵画の流派が誕生します。それが狩野派です。狩野派は桃山文化の狩野永徳などを輩出した日本最大の絵画集団になります。その源流が東山文化で形成されたのです。

和室の源流!書院造の完成

東山文化の大きな功績に和室の原型である書院造が完成された点があります。書院造は慈照寺の東求堂同仁斎で見ることができる建築様式です。では、書院造とはどのような建築様式なのでしょうか。また、よく銀閣に使われている建築様式を書院造と指しますが、本当なのか見ていきましょう。

書院造とは?慈照寺東求堂同仁斎を見よ

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コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Makimoto~commonswikiだと推定されます(著作権の主張に基づく) - コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による著作物だと推定されます(著作権の主張に基づく), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

まず書院造とはどのような建築を指すのでしょうか。

書院造の特徴
・接客用の広間を中心とした構成
・床の間や違い棚がある
・柱は角柱で天井を張る
・部屋は襖(襖障子)で間仕切りをする
・畳を敷き詰めている
・土壁などを用いる
・明障子や雨戸を用いる

これらの特徴で作られている部屋として慈照寺東求堂同仁斎があります。この部屋は足利義政の書斎で、政治機能の一部を移設して政務を行っていた所です。慈照寺東求堂同仁斎は書斎として付書院があり、書類などを書くことも可能にしています。また、四畳半の広さで畳が敷き詰められ、明障子があることから自然に採光ができる機能的な和室となっているのです。

銀閣は書院造風の建築?銀閣の建築様式とは

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東求堂の隣に建てられているのが、銀閣になります。銀閣は東山殿の頃からある建物で、観音菩薩を安置する観音堂が本来の名称でした。

銀閣は二層からなる建物です。その初層は「心空殿」と称し、腰高障子を使用した書院造風の住宅様式をとっています。内部は仕切りのない一部屋で構成され、観音菩薩坐像を安置しているのです。

上層になる第二層は花頭窓から禅宗様を基調とし、その中に和様を織り交ぜた建築様式をとっています。第二層を「潮音閣」と称して、仏堂風の建築となっているのです。初層と同じく、一部屋で構成されていて、観音坐像を安置しています。

つまり、銀閣は一部に書院造の特徴を入れていますが、全体的に見ると書院造の特徴が少ない部屋の構成をしているのです。銀閣は書院造の建築ではないということがわかります。

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落ち着きをはらう禅宗寺院?枯山水の庭園

室町前期に定まった五山・十刹の制度ですが、室町の後半期になると五山制度から抜ける寺院やもとから入っていない寺院が修行の重要性を説き始め、五山の寺院と一線を引くようになりました。

その修行の中で、広大な庭園を見るのではなく、仏教の宇宙観を白砂利や岩を使って表そうとする枯山水が広がり始めるのです。枯山水は広い敷地を必要とせず、狭い空間の中に自然を圧縮し、抽象化することを求めました。

では、東山文化の庭園にはどのようなものがあるのかを見ていきましょう。

金閣ではなく、苔寺を参考にした?慈照寺庭園

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Oilstreet - 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, リンクによる

慈照寺庭園は足利義政が同朋衆の善阿弥に作らせた庭です。将軍家の別荘の庭になりますから金閣をモデルに作ったように感じます。しかし、慈照寺庭園は苔寺で有名な西芳寺を参考にして作られました。

東山文化は北山文化で発達したものが成熟した文化です。わびさびといった落ち着いた雰囲気が基調となる文化のため、西芳寺の閑寂な趣を真似ました。

慈照寺庭園は錦鏡池を中心とした池泉式回遊庭園です。庭園の中には西芳寺同様枯山水の面影があります。しかし、現在の姿は江戸時代に改修された姿で創建当時の姿ではないのです。

枯山水の代表!龍安寺庭園

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Cquest - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

龍安寺臨済宗妙心寺派の寺院になります。妙心寺は五山に入っていない臨済宗の寺院で、独自の修行路線を走った唯一の寺院です。龍安寺は応仁の乱の東軍総大将である細川勝元が建立し、妙心寺の義天玄承を住職に招いて開かれた寺院になります。

妙心寺の厳しい修行の教えが龍安寺でも行われ、修行のための禅の庭園として龍安寺庭園が作られました。作者は応仁の乱後、龍安寺を再興した特芳禅傑や同朋衆の相阿弥などではないかとされていますが、明確ではありません。

龍安寺の枯山水の石配置は中国の故事である「虎の子渡し」を表現しているとして「虎の子渡しの庭」と言われます。また、石の配置が見え方で変わることから「七五三の庭」とも呼ばれるのです。

また、同じ枯山水でも深山幽谷を表現したものが大徳寺大仙院庭園になります。大徳寺は初め五山の一角を担っていましたが、一休などが出て五山から脱退し、修行を重んじるようになりました。

公家文化の興隆?幕府とのつながりが文化を促進

室町時代は武家文化と貴族文化が融合していきました。室町中期以降の文化になる東山文化は貴族文化が成熟し、新たな貴族文化が広がりました。中でも連歌は室町前期で二条良基が連歌の規則をまとめた「応安新式」を出したことで、広まったのです。また、その連歌の規則を打ち破ろうとする動きや宮中での職制を研究する有職故実なども進展していきました。

連歌の隆盛!宗祇の連歌

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不明 - The Japanese book "Mōri Motonari: Special Exhibition (毛利元就展)", パブリック・ドメイン, リンクによる

室町時代は二条良基を皮切りにしてさまざまな連歌師が連歌を作りました。将軍家に使える芸能の僧侶集団である同朋衆の中にも頓阿周阿といった優れた連歌師もいました。

中でも優れた連歌作品で有名なのが「水無瀬三吟百韻」です。この連歌は後鳥羽天皇を祀る水無瀬宮に奉納された百句からなる連歌になります。この作品は連歌の模範とも呼ばれている作品です。この連歌を作った中心人物が宗祇でした。

宗祇はいろいろなところを旅しながら、その才覚を取り立てられ、連歌会の奉行にまでなります。そこで、「新撰菟玖波集」を編纂したのです。

俳諧が広まる?山崎宗鑑の連歌

連歌はもともと言語遊戯や即興的な滑稽を生むものとして長年親しまれてきました。その連歌に和歌的な幽玄や有心体などを入れることで、文芸まで引き上げたのが、二条良基です。

しかし、連歌本来の即興的な滑稽さを求めようとする人も出てきました。その人が山崎宗鑑です。山崎宗鑑が行った連歌は和歌的な要素を求めていません。このような連歌を俳諧といいます。

山崎宗鑑は民衆的な作風の句を残し、記録していきました。これが「犬筑波集」です。山崎宗鑑の句集は俳諧を独立した芸術に押し上げ、江戸の談林俳諧に影響を与えました。また、山崎宗鑑は俳諧を始めたことから俳諧の祖と呼ばれています。

菅原道真を超えた?多彩なる公家一条兼良

五摂家の一つである一条家一条兼良は朝廷での政争に敗れて、左大臣の位を譲りました。しかし、朝廷の職制を研究する有職故実を行っていたので、研究者としての地位が高まったのです。また、有職故実によって古典や和歌、能楽といった幅広い知識を持っていました。

応仁の乱後に将軍家に仕えることになり、室町幕府九代目将軍足利義尚の政道に関する問いの意見書「樵談治要」を提出します。一条兼良は政道の指南を行うと同時に学問が好きな人に学問を教えて回ったのです。人々は一条兼良を「日本無双の才人」と讃え、自身は「菅原道真以上の学者である」と豪語しました。

宮中の年中行事をまとめた「公事根源」や源氏物語の注釈書である「花鳥余情」など、有職故実をはじめ、古典の注釈書など多岐に割る分野の著書を作り出しました。

\次のページで「絵画が広まる東山文化!水墨画の大成」を解説!/

絵画が広まる東山文化!水墨画の大成

東山文化の大きな特徴の一つに水墨画の大成があります。北山文化で描かれていた禅画が発展して、水墨画が作られるようになりました。

水墨画が目立って、他の絵画が描かれていないように感じますが、東山文化は絵画の宝庫になっています。平安時代から続く、大和絵を再興した人物とその大和絵と中国の唐絵の技法を複合させ、桃山文化で発展する流派が誕生したのも東山文化です。

では、どのような絵画があるか見ていきましょう。

水墨画を大成!禅画から発展させた雪舟

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雪舟 - http://www.emuseum.jp/detail/100950/000/000?mode=detail&d_lang=en&s_lang=en&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=17&num=6, パブリック・ドメイン, リンクによる

相国寺周文に絵を習った雪舟遣明船を通じて明に渡りました。明で李在より中国の画法を学んだのです。

帰国してからは中国風の水墨山水画を旅の風景として写生していました。その中で、中国画からの脱却を図り、日本独自の水墨画を大成したのです。国宝に指定されている「四季山水図巻」「秋冬山水図」「天橋立図」などは大成された水墨画の代表的な作品になります。日本の絵画史の中でも別格の高評価を受けているのです。

狩野派が誕生?狩野正信の山水画

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狩野正信 - Tokyo National Museum, Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野正信室町幕府の御用絵師となり、足利義政に重用されました。時の権力者に重用され、障壁画を描いていく中で、日本最大の絵画派閥狩野派の基盤を形成していきます。

狩野正信は江戸の終わりまで続く、狩野派の祖です。狩野派としての画風を決定づけたのが「周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)」になります。大和絵の流派として土佐派がありますが、狩野正信は漢画系の流派として障壁画を中心に描いていく職業画家集団の基礎を作り上げたのです。

大和絵の中興の祖?土佐光信の大和絵

伝足利義政像
土佐光信 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代から続く、日本風の絵画を大和絵といいます。この大和絵で南北朝時代から朝廷の絵預所を世襲していたのが藤原行光を祖とする土佐派でした。土佐派の画家は室町時代の約200年間を朝廷の絵預所の絵師を世襲していました。一時衰退しましたが、江戸時代に江戸幕府の御用絵師まで再起します。

東山文化期に土佐派の中興の祖と呼ばれているのが土佐光信です。土佐光信は朝廷の絵預所にいたものの足利義政に近侍し、寵愛を受けていました。作品の中には「伝足利義政像」もあります。武家や公家だけでなく、寺社にも絵を描いたことから大和絵の様式や技法、題材を拡大した人物でもあるのです。

東山文化は日本の源流となった重要文化!

東山文化の代表と言える銀閣は足利義政の別荘でした。同時期に建築された足利義政の書斎である東求堂同仁斎は和室の源流である書院造を生み出しました。また、安土桃山文化で活躍する狩野永徳の狩野派も東山文化が始まりです。東山文化はその後の文化に大きな影響を与えた重要文化になります。室町時代後半期の大戦乱である応仁の乱の前後の文化でしたが、北山文化を発展させ現代に至る基礎を形成したのです。

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室町時代日本史歴史

3分で簡単東山文化!銀閣は書院造ではない?銀閣を中心とする東山文化を現役講師ライターがわかりやすく解説

東山文化という室町時代の文化を知っているか。東山といえば、銀閣で聞いたことがある地名だと思う。銀閣といえば書院造が有名です。しかし、銀閣自体は書院造の建築物ではないのです。また、東山文化は水墨画が大成した時期でもあるんです。
今回は明確になっていない銀閣の建築様式をはじめとした東山文化の詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライター。専門科目は社会科で、生徒からはわかりやすいと定評がある。歴史好きで、自分でも史跡巡りをよく行っている。

東山文化はどんな文化だった?東山文化のポイント見てみよう

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東山文化は室町幕府八代目将軍足利義政の頃の文化になります。足利義政といえば、応仁の乱を引き起こした将軍ですね。北山文化のような平和な世の中の文化と違い、戦国期に向かう混迷した社会の中の文化になります。混迷した社会の中で成立した東山文化を知るためのキーポイントをまずは見ていきましょう。

東山文化の中心はやはり銀閣!

東山文化の東山は銀閣を有する慈照寺の山号であり、銀閣のもともとの名称である山荘の東山殿から文化の名前がつけられています。北山文化の中心が金閣ならば、東山文化の中心は銀閣になるのです。

銀閣はもともと足利義政の別荘でした。政治機能の書斎として東求堂を建築し、銀閣自体は観音堂として建築されたものになります。銀閣内部には観音菩薩が安置されているのです。

応仁の乱後に東山殿の建設を始めましたが、完成する前に足利義政が死んでしまいます。その後、足利義政の菩提を弔うために足利義政の院号である慈照院殿から慈照寺と名付けられたのです。

枯山水が流行する?東山文化の庭園

北山文化では夢窓疎石が背後の山を借景とした大規模な池泉式回遊庭園を作りました。夢窓疎石は西芳寺の庭園内に枯山水を完成させていました。

東山文化の代表である銀閣は開山を夢窓疎石にする形で、北山文化の頃の庭園を受け継いだ池泉式回遊庭園を作ったのです。しかし、池泉式回遊庭園は広大な土地を必要とします。また、禅の修行を行うために仏教世界を表現することを考えると大規模な工事が必要でした。

そこで、狭い空間で修行のための空間を開く枯山水が作られるようになったのです。

百句詠みが当たり前?連歌の流行

奈良から平安時代にかけて貴族文化の代表となった和歌は鎌倉時代に武家文化が主流になったため、一時の隆盛が過ぎました。ただ、和歌研究は貴族の中では重要な教養であることは確かでした。

室町時代になり、貴族文化と武家文化が融合する中で、和歌の重要性が再度増してきます。室町時代になって和歌から新たな文芸の創作が始まり、広がったのが連歌です。

連歌自体は和歌草創期からありますが、句を二つ連ねる短連歌が中心でした。室町時代になり、100〜120句連ねる長連歌が流行り、宗祇などが百韻で作品を作ったことから100句連ねる百韻が主流となったのです。

東山文化で貴族文化は興隆期を再度迎える形となりました。

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