今回は明確になっていない銀閣の建築様式をはじめとした東山文化の詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。
- 東山文化はどんな文化だった?東山文化のポイント見てみよう
- 東山文化の中心はやはり銀閣!
- 枯山水が流行する?東山文化の庭園
- 百句詠みが当たり前?連歌の流行
- 水墨画が大成!水墨画だけではない室町の絵画界
- 和室の源流!書院造の完成
- 書院造とは?慈照寺東求堂同仁斎を見よ
- 銀閣は書院造風の建築?銀閣の建築様式とは
- 落ち着きをはらう禅宗寺院?枯山水の庭園
- 金閣ではなく、苔寺を参考にした?慈照寺庭園
- 枯山水の代表!龍安寺庭園
- 公家文化の興隆?幕府とのつながりが文化を促進
- 連歌の隆盛!宗祇の連歌
- 俳諧が広まる?山崎宗鑑の連歌
- 菅原道真を超えた?多彩なる公家一条兼良
- 絵画が広まる東山文化!水墨画の大成
- 水墨画を大成!禅画から発展させた雪舟
- 狩野派が誕生?狩野正信の山水画
- 大和絵の中興の祖?土佐光信の大和絵
- 東山文化は日本の源流となった重要文化!
この記事の目次
ライター/明東碧吾
現役の塾講師ライター。専門科目は社会科で、生徒からはわかりやすいと定評がある。歴史好きで、自分でも史跡巡りをよく行っている。
東山文化はどんな文化だった?東山文化のポイント見てみよう
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東山文化は室町幕府八代目将軍足利義政の頃の文化になります。足利義政といえば、応仁の乱を引き起こした将軍ですね。北山文化のような平和な世の中の文化と違い、戦国期に向かう混迷した社会の中の文化になります。混迷した社会の中で成立した東山文化を知るためのキーポイントをまずは見ていきましょう。
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東山文化の中心はやはり銀閣!
東山文化の東山は銀閣を有する慈照寺の山号であり、銀閣のもともとの名称である山荘の東山殿から文化の名前がつけられています。北山文化の中心が金閣ならば、東山文化の中心は銀閣になるのです。
銀閣はもともと足利義政の別荘でした。政治機能の書斎として東求堂を建築し、銀閣自体は観音堂として建築されたものになります。銀閣内部には観音菩薩が安置されているのです。
応仁の乱後に東山殿の建設を始めましたが、完成する前に足利義政が死んでしまいます。その後、足利義政の菩提を弔うために足利義政の院号である慈照院殿から慈照寺と名付けられたのです。
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枯山水が流行する?東山文化の庭園
北山文化では夢窓疎石が背後の山を借景とした大規模な池泉式回遊庭園を作りました。夢窓疎石は西芳寺の庭園内に枯山水を完成させていました。
東山文化の代表である銀閣は開山を夢窓疎石にする形で、北山文化の頃の庭園を受け継いだ池泉式回遊庭園を作ったのです。しかし、池泉式回遊庭園は広大な土地を必要とします。また、禅の修行を行うために仏教世界を表現することを考えると大規模な工事が必要でした。
そこで、狭い空間で修行のための空間を開く枯山水が作られるようになったのです。
百句詠みが当たり前?連歌の流行
奈良から平安時代にかけて貴族文化の代表となった和歌は鎌倉時代に武家文化が主流になったため、一時の隆盛が過ぎました。ただ、和歌研究は貴族の中では重要な教養であることは確かでした。
室町時代になり、貴族文化と武家文化が融合する中で、和歌の重要性が再度増してきます。室町時代になって和歌から新たな文芸の創作が始まり、広がったのが連歌です。
連歌自体は和歌草創期からありますが、句を二つ連ねる短連歌が中心でした。室町時代になり、100〜120句連ねる長連歌が流行り、宗祇などが百韻で作品を作ったことから100句連ねる百韻が主流となったのです。
東山文化で貴族文化は興隆期を再度迎える形となりました。
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