北山文化という室町時代の文化を知っているか。北山といえば、金閣寺で聞いたことがある地名だと思う。しかし、金閣寺は知っていてもそれ以外にどのような文化があったのかはイメージが薄いな。
今回は金閣寺だけではない北山文化の詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライターで、社会科が専門科目。生徒から社会が楽しいといわれる授業を展開している。自身も歴史好きで、よく史跡巡りなどを行っている。

北山文化の中心はやはり金閣!

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北山文化は金閣が作られた頃の文化です。金閣を代表建築物として、色々な文化が形成されました。特に室町幕府が帰依した臨済宗の禅宗文化が色濃く出ている文化になります。しかし、金閣はなぜ作られたのでしょうか。また、金閣以外にはどのような文化があるのでしょうか。室町の文化の中での北山文化の特色をまずは見ていきましょう。

室町時代の文化は3つ?まずは室町時代の文化をまとめよう

室町文化は時期によって大きく3つに分かれています。南北朝に分かれていた室町初期の文化と今回解説する北山文化、そして八代将軍足利義政の頃の東山文化が室町時代の文化です。よく、一括りで室町文化と言いますが、各文化で特徴が異なります。

北山文化は室町時代の隆盛期だった頃の文化です。戦乱も落ち着いた頃の文化なので、色々な文化が発展していきました。他の時期は戦乱期でもあるので、新しい文化の形成より今あるものを成熟させた文化となっているのです。

なぜ金色?金箔を貼った建物金閣はなぜできたのか

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金閣は名の通り、金箔が貼られた建物となっています。金閣は室町幕府三代目将軍である足利義満が建てました。足利義満は幕府の政策で大きな目標を持っていたのです。それが、明との貿易になります。

明との貿易をするためには朝貢形式といって、明の皇帝に貢ぎ物を持っていき、恩恵として返礼品をもらうという形式での貿易でした。この貿易で莫大な利益が得られるとして、足利義満は日明貿易に向けて、日本国王という称号を確立しようと金箔を貼った金閣を建てたのです。

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金閣だけではない!室町幕府が文化の担い手?

北山文化は金閣がとても強いイメージを与えているので、他の文化が見えにくに文化です。北山文化は安定した社会だったことから、次の文化に続く土台が形成された文化になります。

特に大きな影響があったのが、禅宗の発達です。室町幕府が帰依した臨済宗が文化形成の一端をになっています。その例が五山文学です。また、五山文学が栄えた相国寺などでは禅画といって、禅宗の考えを表現した絵画が盛んに描かれ、そこから水墨画が生まれることになります。

金閣は貴族と禅宗が折り重なる建物?金閣に見る建築様式

室町文化の建築といえば、日本建築の基礎にもなった書院造が有名です。しかし、書院造は東山文化の頃に完成された建築様式になります。では、北山文化を代表する金閣はどのような建築様式で建てられているのでしょうか。また、北山文化の建築物には金閣以外にどのような建物があるのか、見ていきましょう。

足利義満の別荘がそのままお寺に?本当の金閣は別荘だった

金閣はもともと鎌倉時代の公家であった西園寺公経の別荘を譲り受け、山荘北山殿としたことが始まりとなります。北山殿の整備を行う中で最も力を入れたのが、金閣となる舎利殿でした。

足利義満の死後、遺言に金閣を寺院にするとあったので、足利義満の法号である鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられたのです。

金閣は三層からなる建物で、それぞれ違った様式で建てられています。一階になる初層は貴族の邸宅である寝殿造です。法水院とも呼ばれ、阿弥陀堂となっていますが、金箔は貼られていません。第二層は武家造潮音洞と呼ばれ、金箔がこの第二層から貼られているのです。第三層は禅宗様究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれています。つまり、3つの建築様式で建てられ、貴族と武家の折衷となっているのです。

鎌倉文化の建築様式を受け継ぐ?北山文化の建築

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北山文化の代表である金閣は平安から鎌倉期の建築様式を受け継いだ建物でした。室町を代表する建築様式である書院造で建てられた建築物は北山文化の後から始まります。では、北山文化期に建てられた他の建築物はどうだったのでしょうか。

北山文化の時期に建てられた建築物として興福寺五重塔東金堂があります。もともと、興福寺のこれらの建物は奈良時代の聖武天皇の頃の建物だったのですが、焼失してしまいました。その再建が終わり現在の姿になっているのが、北山文化の頃なのです。

興福寺五重塔と東金堂は平安以来の日本の伝統である和様という建築様式で建てられています。室町時代の豪快な建築様式も取り入れられ、北山文化を代表する建築物にもなっているのです。

巨大な庭園!とにかく広い池泉式庭園の文化

池泉式庭園とは庭の中に大きな池を置き、その池の周りから庭を周遊することで鑑賞する庭園のことです。室町時代の禅宗寺院は禅の世界での修行に風景を眺めながら悟りを開くこともありました。そうしたことから、池泉式庭園が誕生したのです。

北山文化は金閣に代表されるように広大な敷地の中に大きな池泉式庭園を有している寺院が多くあります。では、これらの庭園はどの様な人が作ったのでしょうか、見ていきましょう。

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室町幕府にも影響?世界最高の作庭家の一人夢窓疎石

夢窓疎石像 無等周位筆 自賛(14世紀、妙智院蔵、重要文化財)
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北山文化期の庭園には臨済宗の僧侶であり、世界史上最高の作庭家の一人ともいわれている夢窓疎石が関わっています。夢窓疎石は後醍醐天皇にその才覚を見出され、国師号を受けた人物です。その後、合計7度の国師号を受けたことから七朝帝師という尊称が送られています。

夢窓疎石は作庭家として有名でもありますが、元に天龍寺船を送ったり、臨済宗の夢窓派の開祖でもあるのです。また、漢詩の才もあり、五山文学を牽引する一人でもあり、勅撰和歌集に11首も入選するなど文学的な才も有していました。足利尊氏と直義兄弟からも崇敬されていた多彩な禅僧だったのです。

夢窓疎石は寺院の開山になると同時に寺院の作庭を行っていきました。世界遺産にもなる庭園を築いた人物なのです。

夢窓疎石の庭園その1:天龍寺庭園

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天龍寺は曹源池を中心とする池泉回遊式の庭園です。曹源池庭園は庭の国宝とも呼ばれる国の特別名勝にも選ばれています。また、天龍寺は古都京都の文化財として世界遺産に認定されているのです。

夢窓疎石は天龍寺の開山でもあり、もとは足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために創建したのが始まりとなります。天龍寺を建立するために元に資金を稼ぐための天龍寺船を夢窓疎石が提案し、建立することができました。

夢窓疎石は曹源池庭園を作庭するにあたり、嵐山亀山を借景する形で作りました。曹源池から広がる山々の風景は圧巻です。

夢窓疎石の庭園その2:西芳寺庭園

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西芳寺苔寺として有名な寺院です。もともとは法相宗の寺院として聖武天皇の命で開山しました。その後、法然上人により、浄土宗の寺院になることを経て、夢窓疎石が再興を行ったのです。

西芳寺庭園は上段を枯山水下段を黄金池を中心とした池泉回遊式庭園となっています。苔寺として有名な庭園は下段の黄金池を中心とした池泉回遊式庭園の方です。しかし、上段となる枯山水は夢窓疎石が作庭した当時の面影が残っている貴重な庭園となっています。

夢窓疎石の庭園その3:鹿苑寺庭園

鏡湖池と金閣
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鹿苑寺庭園も夢窓疎石が作庭した庭になります。鹿苑寺庭園は金閣を中心に鏡湖池が広がるように作庭されているのです。また、背後の衣笠山を借景として壮大な庭園となっています。

鏡湖池には大小さまざまな名石で島が作られ、仏教世界の小宇宙である九山八海(くせんはっかい)を表現しているのです。鹿苑寺庭園も池泉回遊式庭園として有名で、天龍寺と同じく国の特別名勝となっています。

室町幕府が文化を磨く?五山が活躍した北山文化

中国の禅寺の制度である五山・十刹を見習い、日本も五山・十刹を導入しました。五山の中心になった相国寺では僧録司が置かれ、五山を管理します。室町幕府は中国との外交顧問に相国寺を中心とした禅僧を起用したのです。では、五山からどのように文化が発展したのかを見ていきましょう。

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五山が室町の中心?花ひらく五山文学

五山の禅僧は室町幕府の外交顧問として主に漢詩の才能を習得していました。漢詩を作成することは中国とのやりとりに必要な四六文を書くことにつながるのです。

こうした外交上必要な技術が文学に発展し、五山を中心に漢詩集を作成します。義堂周信の「空華集」絶海中津の「蕉堅藁」などが五山文学の代表として有名です。

また、初代僧録司の春屋妙葩は盛んに木版での出版活動を行います。五山が発行する書籍を五山版と呼び、多くの禅籍が出版されたのです。特に有名なものとして虎関師錬の「元亨釈書」があります。

五山の禅画が水墨画の原型?水墨画の始まり

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如拙 (Josetsu) - 「日本の美術 No.13 水墨画」至文堂、1967年5月発行, パブリック・ドメイン, リンクによる

五山の寺院では禅画も盛んに描かれていました。禅画とは臨済宗の修行の禅問答である公案を表現する絵画のことです。五山になった寺院は臨済宗の寺院なので、公案の答えを見つけることが修行になります。

禅画は中国の山水画を参考に描かれているものが多く、如拙の「瓢鮎図」はその代表です。山水画の構成をもとに瓢箪でナマズ(中国語では鮎がナマズ)を捕まえようとする公案を表現しています。

また、如拙以外にも明兆や水墨画を大成する雪舟の師匠になる周文などが禅画で活躍しました。

さまざまな芸能の集大成?能の大成

室町時代に完成した日本芸能として能があります。能は平安時代頃から続く田楽や猿楽、宮中での歌謡である今様などが1つにまとまり完成したものです。能は現在では日本の伝統芸能の1つとなっています。能を大成したのは有名な観阿弥・世阿弥親子です。では、能はどの様に完成したのか、見ていきましょう。

能を発信?猿楽師集団の大和四座

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Alpsdake - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

能を構成する芸能の中で猿楽は寺社の神事で舞う芸能でした。猿楽を専門的に行い、興福寺や春日大社の神事で猿楽を行えたのが、鎌倉末期に形成された大和四座になります。大和四座は円満井座坂戸座外山座結崎座の4つのことです。

大和四座は大きな寺社での猿楽を行っていましたが、室町時代に入ると室町幕府の将軍も猿楽を重んじました。

観阿弥・世阿弥が能を大成する!

室町幕府は結崎座の観阿弥と世阿弥を重用します。観阿弥と世阿弥親子は猿楽を現在の能まで引き上げ、を大成しました。

能を大成した世阿弥は能の理論書である「風姿花伝(または花伝書)」を書き上げます。この書は日本最古の演劇論ともいわれ、芸の真髄を語る表現はこの書から典拠しているものもあるのです。

また、世阿弥の子どもの観世元能が筆録した「申楽談義」という能楽書もあります。この書は演者の芸風や諸芸能の実態までをまとめた具体的な能楽書です。能を大成し、どのように能を行うかという研究も進められ、猿楽を極めることで能が大成されました。

室町幕府との関わりが文化を広げた北山文化!

北山文化は室町幕府の影響が大きい文化でした。南北朝時代の貴族文化と武士文化の融合をさらに発展させ、禅宗とも融合しました。北山文化は足利義満の政治が文化にも反映されて、形成された文化です。日本国王としての権力を見せるための金閣は北山文化の象徴として世界遺産にも認定されています。北山文化を見ることで、足利義満の政治を見ることができるのです。

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室町時代日本史歴史

3分で簡単北山文化!貴族と武士文化の融合?金閣を建てた足利義満から始まる派手な文化を現役講師ライターがわかりやすく解説

北山文化という室町時代の文化を知っているか。北山といえば、金閣寺で聞いたことがある地名だと思う。しかし、金閣寺は知っていてもそれ以外にどのような文化があったのかはイメージが薄いな。
今回は金閣寺だけではない北山文化の詳細を現役講師ライターの明東碧吾と一緒に解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役の塾講師ライターで、社会科が専門科目。生徒から社会が楽しいといわれる授業を展開している。自身も歴史好きで、よく史跡巡りなどを行っている。

北山文化の中心はやはり金閣!

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北山文化は金閣が作られた頃の文化です。金閣を代表建築物として、色々な文化が形成されました。特に室町幕府が帰依した臨済宗の禅宗文化が色濃く出ている文化になります。しかし、金閣はなぜ作られたのでしょうか。また、金閣以外にはどのような文化があるのでしょうか。室町の文化の中での北山文化の特色をまずは見ていきましょう。

室町時代の文化は3つ?まずは室町時代の文化をまとめよう

室町文化は時期によって大きく3つに分かれています。南北朝に分かれていた室町初期の文化と今回解説する北山文化、そして八代将軍足利義政の頃の東山文化が室町時代の文化です。よく、一括りで室町文化と言いますが、各文化で特徴が異なります。

北山文化は室町時代の隆盛期だった頃の文化です。戦乱も落ち着いた頃の文化なので、色々な文化が発展していきました。他の時期は戦乱期でもあるので、新しい文化の形成より今あるものを成熟させた文化となっているのです。

なぜ金色?金箔を貼った建物金閣はなぜできたのか

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金閣は名の通り、金箔が貼られた建物となっています。金閣は室町幕府三代目将軍である足利義満が建てました。足利義満は幕府の政策で大きな目標を持っていたのです。それが、明との貿易になります。

明との貿易をするためには朝貢形式といって、明の皇帝に貢ぎ物を持っていき、恩恵として返礼品をもらうという形式での貿易でした。この貿易で莫大な利益が得られるとして、足利義満は日明貿易に向けて、日本国王という称号を確立しようと金箔を貼った金閣を建てたのです。

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