現代社会

なぜ「日米安保条約」に反対運動が起きるのか?条約の内容や問題点などを行政書士試験合格ライターが分かりやすくわかりやすく解説

熾烈を極めた安保闘争

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日米安保条約に対して、大きな反対運動が2度起きました。ここでは、安保闘争と呼ばれる2度の反対運動について見ていきましょう。

60年安保闘争

1959(昭和34)年より、日米安保条約の改正に反対する声が高まります改正により日本が戦争に巻き込まれることを危惧するようになったからです。そういった考えは、日米安保条約の締結時から既にありました。また、日米安保条約が憲法9条に相反するものだと考える人もいたのです。

さらに、岸内閣による日米安保条約承認の強行採決が、安保闘争に拍車を掛けることになりました。また、岸首相が東條英機内閣の閣僚だったことも遠因として挙げられます。1941年の太平洋戦争開戦時に、首相を務めていたのが東條でした。その時からまだ20年も経っておらず、戦争の記憶が消えない人から反感を買うことになります。

岸内閣の退陣

岸内閣の強行採決の後、60年安保闘争はさらに激化しました国会議事堂周辺などを連日デモ隊が埋め尽くしますデモ隊と機動隊が衝突し、その激しさは死傷者が出るほどでした。アメリカのアイゼンハワー大統領が来日する予定でしたが、安保闘争が収まらなかったため、結局来日は中止されました。

岸内閣の目論見通りに、日米安保条約の承認は自然成立します。参議院での議決は期日切れとなり、衆議院の議決が優越性で認められたためです。その後、批准書交換が行われると、日米安保条約は発効しました。それと引き換えに、岸内閣は発効の4日後に、憲政を混乱させた責任を取って総辞職したのです。

70年安保闘争

1970(昭和45)年にも、安保闘争は展開されます。1960(昭和35)年に日米安保条約が改定され、10年の期限を迎えるタイミングで再び運動が起こりました。条約の自動延長を阻止しようとする意見が出たためです。野党の社会党や共産党などが、自動延長に反対するデモを起こしました

さらに、当時は多くのデモが行われていました。ベトナム反戦運動や成田闘争などの学生運動が盛んな時期でした。デモ隊の一部は暴徒化し、多くの逮捕者が出る事態となっています。しかし、日米安保条約は期限を迎えて自動延長され、その年に行われた総選挙で野党は大敗しました

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70年安保闘争が60年安保闘争ほど盛り上がりを見せなかったのは、いろいろな理由が考えられるな。まず、デモに参加したグループ同士の対立が顕著となった。さらに、運動が過激化して、暴力行為を働く者が増えてしまったぞ。デモ隊が暴力集団と捉えられてしまっては支持が集まるはずもなく、大衆の心が安保闘争から離れていくのも仕方なかったのだ。

日米安保条約の問題点とは?

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では、なぜ日米安保条約の反対運動は起きるのでしょうか。ここでは、3つの主な理由を見ていきましょう。

1.「思いやり予算」の負担が大きい

日本以外にも米軍基地があり、それぞれの国で米軍基地駐留のための費用を負担しています。しかし、日本における「思いやり予算」は、他国と比べると突出して大きいものであると言わざるを得ません。特に日米での負担比率においては、日本がアメリカの約3倍を負担しているという数字も出ています。

数字だけ見ると、日本がアメリカに対して従属的過ぎると批判する人もいるでしょう。確かに、年間数千億円にもなる「思いやり予算」は、決して小さいものではありません。しかし、日本は憲法で軍隊を持たないと宣言しています。軍隊を持たない代わりにお金を出すのは、仕方がないことかもしれません

\次のページで「2.日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まる」を解説!/

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