今回は、日米安保条約について学んでいこう。

戦争を永久に放棄した日本にとって、日米安保条約は頼みの綱でしょう。ですが、過去には激しい反対運動が起こったぞ。いったい日米安保条約の何が問題なのでしょうか。

日米安保条約の内容や問題点などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日米安保条約の署名

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まずは、日米安保条約が成立するまでを、簡単に振り返ってみましょう。

サンフランシスコ講和条約の締結

1945(昭和20)年、太平洋戦争で敗れた日本は、連合国軍の支配下となりますGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導により、戦争犯罪人の逮捕や公職追放の他、財閥解体や農地改革などの諸政策が進められました。GHQの権限は絶対的で、日本政府はGHQの指令に従わざるをえませんでした。

1951(昭和26)年に、日本を含む50の国との間でサンフランシスコ講和条約が締結されます。これにより、日本の戦争状態が完全に終結。朝鮮半島などの領土や権利を放棄する代わりに、日本は主権を回復しました。サンフランシスコ講和条約をきっかけとして、日本は条約締結国以外の国とも個別に国交を回復させていきます。

アメリカ軍の駐留継続

終戦後の日本に置かれたGHQの指導により、日本軍は解体されました1947(昭和22)年より日本国憲法が施行され、日本は軍を持たない国となります。代替策として警察予備隊(現在の自衛隊)が創設されますが、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発。日本の防衛は不安定な状況でした。

1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約締結と同じ日に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」が締結されました。通称「日米安保条約」と呼ばれるものです。サンフランシスコ講和条約の条文には占領軍の撤退が含まれていましたが、2国間協定での駐留は認められ、日米安保条約に則ってアメリカ軍の駐留は続きます

日米安保条約の改定

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1951年に締結された日米安保条約は、その後改定に向けての動きが強まります。いったい何があったのでしょうか。

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岸政権下での新安保条約調印

1957(昭和32)年に岸信介内閣が発足すると、日本の経済成長を後ろ盾に、日米安保条約の改正を目指します1960(昭和35)年1月、岸は全権委任団を率いて渡米。アイゼンハワー大統領と会談して、これまでの日米安保条約に代わる、新たな日米安保条約に調印します。形式上は旧条約を失効させて、新たに条約を結んだものです。

新安保条約」とも呼ばれる新しい日米安保条約により、従来と同様にアメリカ軍の日本駐留が保障されるようになります。さらに、新安保条約に基づいた日米地位協定が新たに結ばれました。日米地位協定では、アメリカ軍やそこで働く人に関する細かな規定などが定められています。

条約承認の強行採決

日本国憲法では、内閣の条約締結には国会の承認が必要です。しかし、野党は新しい日米安保条約に反対していました。そこで、岸内閣は事後承認を得ようと画策します。衆議院の優越性を利用して、国会の会期切れ寸前になるまで待ってから、衆議院本会議で承認を得ることにしたのです。

これに野党が強く反対すると、社会党の議員らが衆議院議長を監禁して、採決を阻止する強硬手段に出ます。それを警察の介入で排除して、衆議院議長が本会議場入り。自民党の単独採決で新安保条約が承認されました。ですが、強硬手段をとったことで、世論の反発を招きます。

日米安保条約の内容は?

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ところで、1960年に改定された日米安保条約はどんな内容でしょうか。ここでは、要点を2つに絞って見ていくことにしましょう。

日本はアメリカが攻撃を受けた時に助ける義務がない

日米安保条約に対して、当事者の片側だけが義務を負うという片務性があるとする指摘も見られます。日本が攻撃を受けた時は、日米安保条約に基づき、アメリカは日本の防衛を援助しなければなりません。しかし、アメリカが攻撃を受けても、日本にはアメリカを助ける義務がないのです。

そもそも日本には自衛隊が存在しますが、軍隊がありません。日本国憲法第9条で武力行使を放棄し、戦力を持たないことを宣言したからです。太平洋戦争で敗れた日本が、武装解除のためにそのような条文を盛り込んだのは当然の成り行きともいえます。その代わりとして、日米安保条約が結ばれたのです。

アメリカ軍に対するわが国の施設や区域の提供

太平洋戦争終結後より日本に駐留していたアメリカ軍は、日米安保条約により駐留が延長されます。確かに、その間の維持費用をアメリカが負担していたのは否定できないでしょう。アメリカ軍が日本に駐留するのは、アメリカ側にもメリットがあるからです。日本に軍事拠点があることで、極東地域やその周辺の危機管理に備えられます。

しかし、日本もその経費の一部を負担している事実を忘れてはなりません。それが、いわゆる「思いやり予算」呼ばれるものです。防衛省が予算を計上して、アメリカ軍駐留の経費を一部負担しています。日本は軍隊を持たない代わりにアメリカ軍に助けてもらい、そのお礼として費用を負担しているのです。

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熾烈を極めた安保闘争

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日米安保条約に対して、大きな反対運動が2度起きました。ここでは、安保闘争と呼ばれる2度の反対運動について見ていきましょう。

60年安保闘争

1959(昭和34)年より、日米安保条約の改正に反対する声が高まります改正により日本が戦争に巻き込まれることを危惧するようになったからです。そういった考えは、日米安保条約の締結時から既にありました。また、日米安保条約が憲法9条に相反するものだと考える人もいたのです。

さらに、岸内閣による日米安保条約承認の強行採決が、安保闘争に拍車を掛けることになりました。また、岸首相が東條英機内閣の閣僚だったことも遠因として挙げられます。1941年の太平洋戦争開戦時に、首相を務めていたのが東條でした。その時からまだ20年も経っておらず、戦争の記憶が消えない人から反感を買うことになります。

岸内閣の退陣

岸内閣の強行採決の後、60年安保闘争はさらに激化しました国会議事堂周辺などを連日デモ隊が埋め尽くしますデモ隊と機動隊が衝突し、その激しさは死傷者が出るほどでした。アメリカのアイゼンハワー大統領が来日する予定でしたが、安保闘争が収まらなかったため、結局来日は中止されました。

岸内閣の目論見通りに、日米安保条約の承認は自然成立します。参議院での議決は期日切れとなり、衆議院の議決が優越性で認められたためです。その後、批准書交換が行われると、日米安保条約は発効しました。それと引き換えに、岸内閣は発効の4日後に、憲政を混乱させた責任を取って総辞職したのです。

70年安保闘争

1970(昭和45)年にも、安保闘争は展開されます。1960(昭和35)年に日米安保条約が改定され、10年の期限を迎えるタイミングで再び運動が起こりました。条約の自動延長を阻止しようとする意見が出たためです。野党の社会党や共産党などが、自動延長に反対するデモを起こしました

さらに、当時は多くのデモが行われていました。ベトナム反戦運動や成田闘争などの学生運動が盛んな時期でした。デモ隊の一部は暴徒化し、多くの逮捕者が出る事態となっています。しかし、日米安保条約は期限を迎えて自動延長され、その年に行われた総選挙で野党は大敗しました

日米安保条約の問題点とは?

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では、なぜ日米安保条約の反対運動は起きるのでしょうか。ここでは、3つの主な理由を見ていきましょう。

1.「思いやり予算」の負担が大きい

日本以外にも米軍基地があり、それぞれの国で米軍基地駐留のための費用を負担しています。しかし、日本における「思いやり予算」は、他国と比べると突出して大きいものであると言わざるを得ません。特に日米での負担比率においては、日本がアメリカの約3倍を負担しているという数字も出ています。

数字だけ見ると、日本がアメリカに対して従属的過ぎると批判する人もいるでしょう。確かに、年間数千億円にもなる「思いやり予算」は、決して小さいものではありません。しかし、日本は憲法で軍隊を持たないと宣言しています。軍隊を持たない代わりにお金を出すのは、仕方がないことかもしれません

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2.日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まる

日本に米軍基地があることには、メリットだけでなくデメリットもあります。それは、アメリカが軍事行動をとった場合に、日本も戦争に巻き込まれる可能性があるということです。日本国内に在留しているアメリカ軍が攻撃されたことは、戦後77年を経過した現在でもまだありませんが、その可能性は排除できません。

2010年代より、憲法改正の論議となったものの1つに集団的自衛権の行使があります。日本と密接な関係がある国が武力行使された場合に、日本が攻撃されていない時でも実力で阻止できるというものです。しかし、まだ憲法論議は進んでいるとはいえず、まだ憲法改正には至っていません

3.アメリカの防衛義務が不明瞭

日米安保条約の第5条は、日米両国が「共通の危険に対処するように行動する」ことを定めたものです。しかし、この解釈について見解が分かれます。特に注目すべきは「対処する」という箇所です。「対処」というものについて、具体的な行動が示されていません

日本からすれば、専守防衛しかできない自衛隊に変わり、アメリカ軍が反撃してくれることを期待するのは当然といえるでしょう。しかし、そのようなことは日米安保条約には明記されていません。実際にそのような状況になったとしても、アメリカ軍が交戦せずに、後方支援に留める可能性もあるのです。

時代の変化に合わせた日本の防衛政策が求められる

日本が戦力を放棄するのと引き換えに、日本とアメリカは日米安保条約を結びました。アメリカ軍が日本を防衛する代わりに、日本がアメリカ軍を援助するというものです。しかし、日本側の負担は大きく、日本が攻撃されてもアメリカが戦力を行使して反撃するとは限りません。今こそ、日米安保条約の内容を見直すとともに、日本の防衛政策を再構築するべきではないでしょうか。

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現代社会

なぜ「日米安保条約」に反対運動が起きるのか?条約の内容や問題点などを行政書士試験合格ライターが分かりやすくわかりやすく解説

今回は、日米安保条約について学んでいこう。

戦争を永久に放棄した日本にとって、日米安保条約は頼みの綱でしょう。ですが、過去には激しい反対運動が起こったぞ。いったい日米安保条約の何が問題なのでしょうか。

日米安保条約の内容や問題点などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日米安保条約の署名

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まずは、日米安保条約が成立するまでを、簡単に振り返ってみましょう。

サンフランシスコ講和条約の締結

1945(昭和20)年、太平洋戦争で敗れた日本は、連合国軍の支配下となりますGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導により、戦争犯罪人の逮捕や公職追放の他、財閥解体や農地改革などの諸政策が進められました。GHQの権限は絶対的で、日本政府はGHQの指令に従わざるをえませんでした。

1951(昭和26)年に、日本を含む50の国との間でサンフランシスコ講和条約が締結されます。これにより、日本の戦争状態が完全に終結。朝鮮半島などの領土や権利を放棄する代わりに、日本は主権を回復しました。サンフランシスコ講和条約をきっかけとして、日本は条約締結国以外の国とも個別に国交を回復させていきます。

アメリカ軍の駐留継続

終戦後の日本に置かれたGHQの指導により、日本軍は解体されました1947(昭和22)年より日本国憲法が施行され、日本は軍を持たない国となります。代替策として警察予備隊(現在の自衛隊)が創設されますが、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発。日本の防衛は不安定な状況でした。

1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約締結と同じ日に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」が締結されました。通称「日米安保条約」と呼ばれるものです。サンフランシスコ講和条約の条文には占領軍の撤退が含まれていましたが、2国間協定での駐留は認められ、日米安保条約に則ってアメリカ軍の駐留は続きます

日米安保条約の改定

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1951年に締結された日米安保条約は、その後改定に向けての動きが強まります。いったい何があったのでしょうか。

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